1-03
――まだ、薄暗い。
目を覚ましたシオンは、微睡みの中で毛布を深く被る。
「……さむ」
手足の指をそわそわと動かして少しずつ目を覚ましていく。それでも肌寒さは相も変わらず、意を決して地に足を下ろす。
緩慢な動きで体を伸ばす。鼻の奥を通る少し冷たい空気に体を震わせつつ、毛布を一枚羽織って朝の支度を始める。
焚き火跡に積もった灰を掘り返して燻る熾火を集め、新たな薪を重ねる。急ぐ事も無く火が大きくなるのを眺めながら、少しうとうと。
食事を済ませる頃にはすっかり陽も昇り、鳥のさえずりで辺りは賑やかになっていた。その頃には十分な暖かさが身を包み、ゆっくりとした時間の中で食後のお茶を一口、二口。
空になったカップに名残惜しさを感じつつ、いつまでも穏やかなひとときに浸っていたい気持ちを振り払い、手早く撤収作業に取り掛かる。
タープとハンモックをまとめて仕舞い込み、焚き火の始末をして痕跡を消しておく。
「……よし」
朝の爽やかな空気の中、朝露に濡れた地面を踏みしめる。
昨日と特に変わりない探索。それでも、注意は欠かさない。
採集の傍ら、気になるものを見付けては全て丁寧に調べ上げるが……それらしい痕跡は何一つ見当たらない。
獣道、動物のねぐら、小動物の食事跡。人が野営したと思われる痕跡を見付けるも、既に数ヶ月は過ぎているものばかり。
異常らしいものすら何も無いまま時間だけが過ぎていく。暫く歩いていると、突如として濃い霧が立ち込めて来た。
霧は瞬く間にその濃さを増していき、ほんの数メートル先にある木でさえ輪郭がぼんやりとしている。
シオンはその霧を吸い込まない様に、急いでマスクをする。
けたたましく鳴り響く、動物達の悲痛な叫び声が周囲に反響する。
悍ましい程に表情を一変させた樹海。これこそが『霧幻大樹海』と呼ばれる所以。
その元凶は、知ってしまえば何ということはない。
ミストマッシュルーム。この樹海に自生するそのキノコこそが全ての原因である。
このミストマッシュルームは通常、穏やかな川辺や沼地等に極めて稀にしか存在しない。
その性質も、胞子を飛ばす為に霧を吹き出すというものだが、その範囲は一メートルにさえ至らない。
しかしこの樹海に限っては違う。今の状況を見ての通り、一面見渡す限り――とはいえ、数メートル先すら見通せないのだが――覆ってしまう程の霧を吹き出し、通常吸い込む程の量も無い胞子には幻覚作用まである。
落ち着いて霧を直接吸い込まなければ何ら害は無いのだが、野生動物は防ぐ術を持っていない。幻覚に苛まれる動物達が襲って来る事が無いとしても、至る所から発せられる叫びを聞き続けるというのは精神を削られるもの。
この様な状態では探索などままならない。暫くしなければ霧も晴れない事は分かっている為、ただ川を辿って目的の湖まで進むしかない。
絶えず響く叫び。
歩き続けて、どのくらいの時間が経っただろうか。
前を見ると木々の間隔が広くなって、とても明るい。
視界が開ける。
目の前に広がる湖は決して浅くはない湖底まで透き通っており、優雅に泳ぐ小魚の群れまで鮮明に見通せるほど。周囲にはうっすらと霧が残っているが、見渡せば対岸に水を飲みに来ている動物が見える。まっすぐと差し込む光の筋は揺れる水面に反射して、その光景は神々しさまで感じられる。
世界の美しさを凝縮した様なその光景に暫し見惚れるシオン。霧がすっかり晴れたところでマスクを外せば、澄んだ空気が全身に染み渡っていく。
ふと背後に気配を感じ、飛び退くシオン。そこに居たのは……
「あ゛あ゛……あ゛……」
這い寄る名状し難い人の様なもの。身に纏う衣服はボロボロ。オレンジブラウンのボブヘアーも痛んでいて、無造作に跳ねている。僅かに見えた目元も隈がひどく……
「……ゾンビ?」
「生きてます……生きてはいます……」
生きてはいるらしい。
特徴はギルドで聞いた行方不明者のものと一致している。
「あなたの名前は、ショコラで間違いないわね?」
「ぁぃ……お助け……を……」
間違いなく探し人本人だと確認は取れた。が、そこでシオンは少し考える。
見たところ、空腹なのは間違いない。既に倒れている訳だし、こんな事になっている事も想定して食べ物も多く持ってきている。しかし……
「水、掛けていい?」
全身泥塗れなのである。
それもそうだろう。湖の近くで這いつくばっているのだから、そうなるのも必然。だがこのままで食事をさせる訳にもいかない。
「せめて……あたたかいお湯がいいですぅ……」
「そんな事が言えるならまだ大丈夫ね。ちょっと待ってて」
シオンは急ぎ気味に焚き火の準備をする。薪は周囲で拾ったものではなく、ストックカードに収納していた確実に乾燥しているもの。
火熾しも昨晩の様にゆっくりするつもりは無い。シオンが錬金術を用いて作った火熾しセットで、瞬く間に大きな炎が出来上がった。
次いでシオンは大小二つの鍋を取り出し、湖で水を汲んで火に掛ける。
お湯が沸くのを待っている間に、焚き火の近くにシートを敷き、ショコラを呼び寄せる。
「ほら、脱ぎなさい」
「え゛……でも……」
「そんなボロボロの服でいる方が恥ずかしいわよ。他には誰もいないんだから、早くしなさい」
渋るショコラの手を引く。その手は水の様に冷たく、もう少し見付かるのが遅れていたら助からなかったのではないかとシオンは思う。
だが、思うだけ。
手早くショコラを剥いて、身体を検める。その身には擦り傷や切り傷こそ多いものの、幸い毒に侵された痕は見られない。
火に掛けていた水に手を入れるとまだぬるいくらいだが、少し火から鍋を離す。その水でタオルを濡らし、ショコラの身体を拭いていく。
丁寧に、優しく。傷に沁みて痛そうな声を上げるショコラだが、必死に我慢しているのがシオンにも伝わってくる。
そうしているうちに体温も上がってきたのだろう。ショコラの血色は大分良くなってきた。清潔にした傷跡にも治療薬を塗り込んだ為、そのうち跡も残らず治るはずだ。
後は服を着せてやればいいのだが、ショコラが身につけていた服はボロボロで、そのまま着せる訳にはいかない。彼女の荷物を見ても、恐らく予備は持っていないだろう。
シオンは少し悩みながらも、自分の荷物の中から適当に一式見繕う。受け取った衣服を纏ったショコラは一言。
「……ちょっと胸が苦しいですね」
「黙れ」
一蹴。
そんな事を言われても、ショコラの体に合う服をシオンは持ち合わせていない。丈も長いが、それは帰るまで我慢してもらうしかない。
体も清潔にして、服も着せた。後はもう食事を与えて休ませてやればいいだろう。
シオンは火にかけていた小さな鍋のお湯でお茶を淹れ、パンを小さくちぎって渡してやる。
一口ずつ、ゆっくりと。渡されたパンをモグモグと食んでいるショコラを見ていると、シオンは何だか小動物に餌付けしている様な気分になってきて――
「――何だか、餌付けされてるみたい……」
思わず吹き出してしまう。そんなシオンにショコラは少しむっとした表情を浮かべるが、助けてもらった手前何も言えず。
残りのパンを全て渡し、誤魔化す様にシオンは口を開く。
「私はシオン。旅をしている錬金術師よ」
「シオンさん……えっと、助けてくださって本当にありがとうございました。この御恩はどうお返ししたらいいか……」
「ああ、それは大丈夫。ギルドから依頼された事だから」
「ええっ!?」
少ししゅんとしていたショコラだったが、ギルドから依頼されたと聞いて、そんな大事にになっているのかと驚愕する。折角良くなった顔色も少し悪くなってしまった。
「ほら、そんな落ち込まなくていいわよ。この樹海に入ってからどうしたのか、何かおかしな事はなかったか。話してもらえる?」
そのまま溶けていってしまいそうな程に落ち込むショコラに、シオンは優しく声を掛ける。
この数日間彷徨った出来事をありのまま……否、多少大袈裟に話していくショコラ。その話に「まあ、特に異変はなさそうね」と言うのはシオン。その言葉に大きく衝撃を受けるショコラだったが、懲りずに話を続けていき……