1−12
「ボエェェェ……」
「どんな声出してるのよ……」
全力疾走は流石にかなり堪えたのだろう。この世のものとは思えない鳴き声を発しているショコラに、少し引き気味のシオン。
ちょっとやり過ぎたかと思うが、思うだけ。過ぎた事には変わりないだろう。
「ボアッ……ボエェ……」
「この辺りから、少しずつ襲ってくる生物が出てくる筈よ。ここからは気を付けて……ちょっと、大丈夫?」
「ビエッ……ビエェェ……」
かなりダメそうである。
「……大丈夫じゃなさそうね。お昼までは休みましょうか」
少なからず。……否、完全に自分のせいである事を自覚しているシオンは、ショコラを労って休憩時間を長めに取ることにした。
全力疾走したおかげで相当な距離を移動出来た事もあり、最初に予定していた地点より進んでいるので、時間的な余裕はかなりあるのだ。
「アイギス、お願い」
シオンがそう言うと、どこからともなく現れた銀色の猫――アイギスが足元に降り立つ。
足にすり寄るアイギスをひと撫でしてやると、草むらに溶ける様に消えていった。何かが近付いて来れば、感覚を共有しているシオンはすぐ気付けるだろう。
ぐっでりしているショコラに水を飲ませてやったり、風邪を引かない様に汗を拭ってやったり。荒ぶっていた呼吸は落ち着いてきたが、それでも動けるくらいまで回復するには、まだまだ時間が掛かりそうである。
……しかし、ショコラの根性には驚いてばかりだ。
シオンはショコラが小走りになるくらいの速さで、夜が明けてから暮れるまで歩き続けても余裕が残るくらいには体力がある。
それを全力で、一時間以上走り続けても多少の運動程度にしか感じていないのだが、そんなシオンを息も絶え絶えになりながら、見失わずに追いかけて来るというのは容易な事ではなかっただろう。
それ以外でも病的なまでの執着心を垣間見せて来たショコラは――時折余計な事にも本気を出していた気もするのだが、それはさておき――どうしてそこまで出来るのか。どこからそれほどまでの熱意が湧いてくるのか。
どうしても、不思議でならない。
彼女自身は、その事に気付いていない節がある。まるで、制御の効かない濁流の様な……そんな危うさを秘めていると、シオンは感じていた。
このままではいつか壊れてしまいそうな彼女に、自分は一体何が出来るのだろう。
技術を教えるのは簡単だ。ショコラならどこまでも吸収して、どれほど困難な道のりでも乗り越える努力を惜しまないだろう。
それこそ、自身の限界を超えてでも。
……長い間一人だった自分は、彼女の限界に気付けるのだろうか。
今の様に、倒れてしまってからでは遅すぎる。何もかもが未熟な彼女と自分には大きな差があるだろう。その事を常に意識していなければ、きっと無茶をさせてしまう。
本当に、自分が師匠でいいのだろうか。
ふとそんな事を考えてしまったシオンはしかし、すぐにその考えを捨て去る。
つい先程、全てを教えると言ったばかりではないか。ショコラもそれに応えてくれたのだ。
彼女に技術を教えるのも、自身の限界を見定めさせ、無理をさせない様に教えるのも、きっと自分の役割なのだと。
「……さて、何かすることはあったかしら」
溶けているショコラをいつまでも眺めているだけというのも暇でしかない。かと言って落ち着いて何らかの作業をしていられる程安全な場所でもない。
シオンは手帳を開いて何かしら時間を潰す方法はないか探してみる。
周辺に生息する生物から回収出来る素材や自生する植物から作れる物で、教えるのに良さそうな物は何か。ショコラには今回戦闘を行わせるつもりは無いが、使わせるならどんな武器や道具が良いだろうか。組み合わせる相性は。
その時、ふと宿でのやりとりを思い出す。
ショコラがナイフを見て少し怯えていた事を。
その理由は唐突にシオンがナイフ片手に近付いた事が原因なのだが、その事に気付いていないシオンは、彼女は近接武器が苦手なのではないかと考えた。
それでも万が一近付かれた時は必要になる対応策だし、最低限の事は教えてある。
今後も教え込むつもりなのは変わらないが、彼女には遠距離を中心とした攻撃手段を身に付けさせるのが良いのではないか、と。
「……ねえ、ショコラ」
「ふぁぁぁえ」
未だ伸びきったままのショコラであるが、なんとか会話が成立しそうな程度には回復していた。
「あなた、魔法は使える?」
「ふぁぁい……すこぉしならぁ……」
ドロドロした液体みたいな動きで仰向けになったショコラは、のっそりと両手を上に向けて力を収束させる。
……ぽっ。
何とも頼りない火が……火とも呼び難い何かが、彼女が両手を向けた方向で一瞬光を発した。次いでふわりと『何か』が出た気がする。きっと風を放ったのだろう。
何ともお粗末に見えるが、これほど疲弊した状態でも『具現化』させられるのなら、相応の回数使ってきたという事だろう。
魔法というのは『想像』による『創造』だ。
強固なイメージが必要になる魔法の発現には、高い集中力と万全な体調が必要になる。その点は錬金術にも通じる所があるだろう。
シオンも魔法は扱えるが、物理的な手段の方が扱い慣れている為に積極的には使ってこなかった。
スカウトに有用な魔法も存在してはいるのだが、熟達した技術は魔法に引けを取らない成果をもたらしてくれる。
魔法を使えば必ずと言って良い程、痕跡が残る事になる。時には目に見えない『何か』としか感じられないものでも。
魔獣と呼ばれるモノならば魔法の発動段階で敏感に感じ取られてしまうし、あまり魔力を持たない動物に分類されるものでも、勘のいい個体ならば気付いてしまう。
それを嫌って慣れない魔法を避けてきたシオンではあるが、新たに教えるならば、魔法を扱う事に慣れたショコラにならば、魔法という手段も教えた方が良いかもしれないと考える。
そんなショコラは相変わらずドロッとしながら両手を空に向け、僅かに水を出して顔に当てている。何とも心地良さそうに。
……見た目は酷いが。
そんな様子を半目で眺めているシオンは、どうして彼女が行き詰まっているのか疑問を抱いた。
まだしっかりと腕前を確認した訳ではないが、ショコラなら一人でも問題なく立派な錬金術師と呼ばれるまでに成長出来るはずだ。
ギルドで情報を集めていた時も、何気ない会話の中でも、得られた事柄から次の段階へ進む糸口を見付けるのが上手いと感じていた。
彼女と出会ってからの短期間でも、多少なりとも確実に成長していると感じる程度には会話の質も変化していた。
だが、ショコラはそれだけでは『足りない』と、貪欲に何かを追い求めている。
彼女を縛り付けているのは一体何なのか。
きっとその呪縛を解き放ってやらなければ、どれだけ彼女が成長しても燻ったままになるだろう。
全く手掛かりのない答え探しに辟易してしまうが、これまで感じた事のない面白さを与えてくれる彼女との生活も悪くないと思っている。
こうしている今も、ずっと顔に掛け続けている水が風に煽られて口の方に――
「グボッフ!!」
――今、何が起こったのか。頭の中まで真っ白になったシオンは、理解を始めるまでに数秒の時間を要した。
ショコラが口に入った水に咽せた瞬間、視界全てが白に染まった。
それはショコラの魔法に依るモノだというのはすぐ分かった。魔力を帯びた水分が周囲一帯に広がり凍結。雪にも似た結晶がふわりふらりと舞っている。
いくら驚いたからといって、これほどまでの現象を引き起こす程の魔法は見た事がない。
……否、知っている。ただ一人だけ、これほどの魔法を行使出来た人物がいたという話を。
幼い頃に聞いた話で曖昧だが、シオンの先祖と関わりがある人物に、魔法の極致に至った唯一の存在……。
名前は確か、ユニ・オーウェン……いや、本名は……
ショコラが落ち着く頃には、視界は元に戻っていた。
ショコラは起き上がって胸の辺りを叩いているが、状態としては普通と言っていいだろう。
無意識といえど、これほどの魔法を放っておきながら疲弊を伴っていないというのも異常である。
「あえ? シオンさん、どうしました?」
ただ呆然と、思考を整理するのに精一杯になっているシオンに、自分はただ咽せた事にしか気付いていないショコラは不思議そうに問い掛ける。
「……いえ、何でもないわ。ええ……」
溢れ出る疑問を抑えつけ、努めて平静を装う。
今尋ねたところで、自分の中で整理がつかない事になるだけだろう。
「……さあ、そろそろ昼食にしましょうか」
「え、もうそんな時間ですか? わたしの腹時計ではあと一時間くらいは……」
「体力が回復したならもう休憩は十分でしょう。さっさと進んでしまうわよ」
ショコラはどこまでも飽きさせない。次から次へと彼女への興味が、好奇心を疼かせてくる。
シオンは少し困った表情で、ショコラに微笑んだ。