迷章~白紙を繋ぐ物語~
「――っ」
「おや、気が付かれましたかな」
「……あれ。俺、何やって……」
やけに五月蠅い雨音が響く中、目を覚ます。
「身体への負担が限界だったのでしょうね」
「負担……? あっ、そういや師匠に投げ飛ばされたんだっけ」
「えぇ、訓練とはいえ酷いことをするものです」
「ホントそれ」
一言怒鳴りつけてやろうと辺りを見回すジーンであったが、肝心の対象を発見することができない。
何処へ行っているのやら。目を離すといつもこれだと、肩透かしを食らったジーンの怒りは急速に冷めていく。
「あーもー早くできるようにならなきゃだよなー……」
現在抱えている課題を思い、それだけで憂鬱な気持ちを味わうことになる。とは言うものの、確実に前進しているのは誰が見ても言えることであり。
本人としては足踏みをしてしまっていると思っているのだが、それは目標を超えられないからこその勘違いであり。
焦らずとも、近い内に課せられた課題が達成できるであろうと。リーンもブレメンも意見を同じくしているのであった。
ただ、それを本人に伝えないのは育成方針であるのか。単純に意地悪なだけであるのか。
「ほっほっほ。腐らないのはあなたの良いところですね! 愚図も気付かなきゃ愚図じゃない、といった具合に!」
「だーもー褒めてんのか貶してんのか分からないんだっての」
「褒めていますよ、えぇ。勿論」
「その割には例えがクソみてぇなの何なん」
「クソ! クソと言いましたね! ほっほっほ、単純明快これほど真っ直ぐな貶し言葉はありませんねぇ!」
「怒ってんのか笑ってんのかどっちなんだよ」
「残念、今はどうやら眠気に襲われてしまって……暫しのお昼寝をば」
「町の外ってのはこんなにも頭のヤベェ奴しかいないのか……?」
徐々に本性が分かり始め、師匠であるリーン同様ブレメンもまともではない人間であると、そう分類しているジーンである。
常識のあるちゃんとした人間は自分だけかよと、そんな風に思うジーンも人のことは言えないだろうと。
ある日突然『世界を救うんだ』と、町を飛び出し碌な準備もせず目的地もなしに彷徨い始めた彼も例外ではなく頭のおかしい人間であろうに。
自分のことを棚に上げて、とはまさにこのこと。自分自身は違うと語る視野の狭い生き方からはいつ抜け出せるのか。
「……ん?」
訓練で疲れた身体を労わっている時、ふと何かが視界に入る。
「誰かがいた気がしたけど……気のせい?」
雨の降る中、雨宿りできる場所を求めて近づいてきたのだと。そう勝手に思い込んでしまうジーンであったが、そんな人の姿はどこにもなく。
しかし、見間違いではなく本当に誰かが居たのだとしたら。
そう考えて、自身が濡れることも厭うことなく少し辺りの見回りに出てしまう。
「こんな近くに森なんてあったっけ」
だだっ広い野原のはずであった一帯には見覚えのない木々の群れ。数刻の間に成長した、なんて非常識な現象があることを一蹴りにするものの、興味が湧いてきてしまうのは男の子だからか。
怪しいと思っていても、心の底から湧き出てくる欲求に逆らうのは難しい。少しだけなら、なんて具合に勝手に許容範囲を設けてしまう。
当初の目的であった、見かけたかもしれない誰かの姿のことなど既に頭から抜け落ちてしまっていた。
「でけぇ……」
葉が奏でる雨音を楽しみながら、並び立つ木々の大きさに感嘆の声を零す。
自身の身長以上もある大樹の幹の太さについ吸い寄せられ、そして触れる。
ガサガサで脆そうなその表面。だが、そんな見た目とは裏腹に内にある大きな魔力を感じ、改めてこの景色の異常さを思い知ることになる。
誰かに作られたものであるのか、自然にできたものであるのか。どちらにも前例がある以上どちらであると断定をすることもできない。
もっとも、そのどちらの前例も知らないジーンにとっては未知のものであるのだが。
「っ、魔物……!?」
瞬時に武器を構え不審な物音がした方向へと注目する。
聞き間違いであれば良かったのだが、振り返ったその先にいたものとは。
「に、人形?」
綺麗に形を整えられた木偶人形。
明らかに、自然に発生したものではないだろうと判断できるその姿。
およそ生き物ではないことは確かであり、何故それが動いているのかなど一瞬では理解できるはずもなかった。
襲ってくる意志があるのか、ただ彷徨っているだけであるのか。
その見極めの為にも暫く様子を見ることにするジーン。
不気味に、壊れたような動きをするソレはゆっくりと。そして着実にジーンへと向かっていく。
「と、止まれ!」
言葉が通用するのかも分からない相手に、そう声を張る。威嚇をしているつもりなのだ。。
そんなジーンの行動は無意味であると告げる代わりに、変わりのない動きを続行する木偶人形。
笑ったような表情が彫られているのは偶然であるのか。
それが何とも気味が悪くて。
「タ……ケテ……」
「なに……?」
「タスケ……デ……」
上手く聞き取れない。発声のためのつくりは雑であるためなのか、何かを喋っている気がする。くらいのものしか音が届いてこない。
木偶人形であるのに喋ることができるのか、なんて疑問は端からない。
ただ、そうしている間にも距離が詰められていてこれ以上は危険だと判断する他ない。
「……っ」
大きく一歩、木偶人形から目を離さないままに横へとずれる。木偶人形を視界に入れつつ逃げるためであった。
大丈夫。そう思い、それからは一気に動き出す。
「よし、ついてこない……!」
リーンに鍛えられたその動きは既に常人の域を越えていた。
疾く。木々の合間を縫って姿を暗ませるように逃げていく。
そうすればすぐにでも木偶人形の姿は見えなくなり、そして追ってくるような気配もない。
だが、一旦は様子を見るため木の上へと避難をすることに。
数メートル、十数メートルある高さも問題にならない脚力。流石に一度で跳べる高さではないが、上手く幹を蹴り登っていくジーン。
以前よりも魔力を上手く使えるようになったおかげであった。修行の成果というやつだ。
「俺も一応は成長してるってことか」
ずっとリーン相手の稽古であったり脅威の少ない魔物相手であったりが多かったため、成長の実感がなかったのだ。
木登りで成長具合を実感するのは気持ちの盛り上がりに欠ける気もするが、自身の成長を自覚した瞬間であるのは間違いがなかった。
「ダシゲ……テ?」
「うぁぁぁああ!?」
悲鳴。
すぐ真横から聞こえた木偶人形の声に対する反応は、ただ悲鳴をあげることであった。
その驚きの反動でバランスを崩してしまい、ジーンは人間の体重にも耐えられる程太い枝から落ちていく。
空を飛べるわけではないのだ。当然、そのまま地面へと叩きつけられることになる。
「タスゲ……タス……」
死にはしない。
死にはしないが無事でもない。
衝撃に苦悶の声を漏らすことしかできず、頭から流れる血の感覚に焦りが生まれる。
こんなことになるのなら傷を癒す魔法も覚えておくんだったなという若干の後悔と共に。
小さな傷などは気にもしないでいたし、場合によってはリーンがいたから習得する優先順位は低いだろうとしていたのがマズかった。
自分ができなくても、なんて油断が原因であったと。少なくともその時ジーンはそう思ったのだ。
「シ……テ……」
くぐもった声、最早声であるのかさえ不明な音を聞きながら。
ゆっくりと意識を失っていくだけ。ゆっくりと、ささやかな抵抗の果てに。
ジーンは完全に意識を失ってしまうのだった。
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目が覚めた時、最初に感じたのは眩しさ。
目の前に太陽を差し出されたかのような、そんな具合だ。
陽は昇り既に昼時であるのか。ジーンは朝露などは乾ききった草原に寝かされていた。
記憶の最後にある天気は雨。しかし背に感じるのは湿ったものではなく、寝そべるには都合の良い状態であるのは少しおかしくはないか。
と、そんな風に思える程ジーンの脳は働き者ではなかった。
「おや、おやおや。ご気分はいかがですかな」
「……悪くはない」
「ほう、それはそれは興味深い。自身の独断で勝手に出歩き重症に陥った上で気を失い、丸一日寝込んでいたのにもかかわらず気分は悪くないと」
「あんたの言い方は妙に腹が立つ」
「ほっほっほ! 事実を言っただけですけどね!」
何本か折れていたはずの骨。しかし、痛みはそれほど感じない。
もしかしかしなくてもリーンが治してくれたのだろうかと、一人勝手にそう解釈をするジーン。
「あぁ、今日の当番は君ですから。目が覚めた以上は働いて下さいね」
「あ、はい」
もしかしてブレメンが近くにいたのは食事当番の有無の確認のためであったのか。
ご機嫌な足取りで離れていくのを見るにそうなのだろうと。自身の怪我が蔑ろにされたかのように感じて不快に思うジーンであった。
が、こんな状態になったのは自身の責任だという自覚もあるため、そんな不快感はすぐにでも捨ててしまえた。
やるべきことを優先できるようになったのか、不要だと理解した感情を切り捨てられるようになったのか。
それを成長と捉えるのかは個々人の価値観によるものになるのであろう。
「えーっと、何にしようかなぁ……っと」
手慣れたもの。何度も経験している作業にはもう新鮮さも感じない。
もっとも、料理に慣れただけで腕は大して上達していない。
とは言っても切る、焼く、食べる! というほど適当ということでもなく。一般家庭で出されたらまぁこんなものかと評されるくらいの、一般レベル。
料理人を目指す向上心の化身でもないジーンは、一般レベルの域を越えることはないのだ。
続けているだけで際限なく上達できるのならば各家庭のおば……もとい御姉様方は揃って達人になっているはずなのであろうから。
味付けはしっかりと。手短に済ませる代わりに凝った料理にはならないが、ある程度に食欲をそそる美味い料理にはなる。それで十分なのだ。
「おや、身体のほうはもういいのかい?」
「おかげさまで。どこ行ってたんだ?」
「んー。一応君が倒れてた付近の調査、ってことにしておいてくれるかな」
「なんだそれ」
丁度、食事ができるかどうかといったタイミング。
近づいてきた気配を感じ取った瞬間には声がかけられてしまうのが日常。だからこそジーンも驚くことは少なくなってきていた。
瞬間移動でもしてきたんじゃないのかと、そう思ってしまうほどに見事な隠密行動。
リーンだからなぁと片付けてしまうのは仕方がないのか。
慣れ、というものは怖いものである。
「それで、何か分かったのかよ」
「たはー、君のせいで増えた面倒事だっていうのにその態度。誰に似たのやら」
「似たような師匠が近くにいるんでね」
「えぇ、えぇえぇ。勿論あなたでしょうとも」
「遠慮の欠片もないんだね……」
こんなやり取りが増えてきたのは、お互いに良い関係を築けているからこそだろう。
若干リーンが誘導している気がしなくもないが、それに調子を狂わされることなく乗っていけるという点では変化したと言える。
「結論から言うと新しい情報は何も得られなかった。まぁ、分かっていたことではあったんだけどね」
ぐるりと、ジーンは自らが迷い込んだ森を改めて気になり、そして探す。
そこで初めて『あったはずの森が再び消えている』ことに気付く。
どの辺りの位置にあったのか定かではないものの、視界の端から端まで埋め尽くされるくらいには広大であったモノが見当たらないというのは非常に理解しがたい状況であった。
現れたと思ったら消えてしまっていた。
そんな自由気ままな旅人のような森が存在していていいのだろうかと疑問を持つジーンである。
「俺、森の中に倒れてたんだよな?」
「いいや。君は……丁度あの出っ張った岩のちょっと離れた背の高い草木に隠れそうで隠れない水溜まりの隣にある――」
「説明が下手過ぎるのにも限度があると思う。分かり難いにも程があるだろ」
「……少なくとも、森なんてものが何処にも存在していないのは確かだね。したがって君は森の中になんていなかった」
「……そう、なのか」
夢、だったのか。とそうジーンの中で納得できそうにない定番の思考を試行するものの、やはり簡単には納得できなくて。
「でだ。恐らくは君が迷い込んだのは『囚われの森』」
「ほっほっほ。情報は何も得られなかったのでは? そんなにも簡単に断定できるものなのでしょうか」
「追加で得られるものが無かったというだけの話。元から知っていただけのことさ。その場に残っていた微かな魔力の色から予想はできたし、森って言葉が聞けた時点で答えは決まったようなものなのさ」
手を止めるなと食事の準備を杖で促すリーン。
反発したい気持ち以上にそれが無駄であるという経験が上回った結果、ジーンは大人しく残るは配膳だけであった食事の準備を進めていく。
勿論お小言は漏らしながら。
「まぁ、もとよりこうなることは決められて――」
「ほっほっほ! それ以上はいけませんぞ」
朗らかな口元とは違い明らかに真面目な目元。
何かを忠告するかのような、いや実際そういう意味があったのだろう。
そんなブレメンの様子には流石のリーンも肩をすくめて、理解していることを答えとして返す。
ジーンには聞かせたくない大人の事情。リーンの声量は会話をするには頼りないくらいに小さなものであり、ブレメンが普段見せない表情を晒していたのは丁度ジーンに背を向けている時であり。
若干のピリついた空気がジーンに伝わることがなかったのは偶然か、彼らの慎重さの賜物か。
「待たせたな」
「いやいや。美味い物が食べられるのなら多少の遅れは気にしないさ」
「ほっほっほ! 今度は気を付けてくださいね。私、いつ暴走するのか分かりませんので!」
「あんたは冗談に聞こえないから怖いんだよ」
「ほっほっほ! 私、冗談は言いませんので」
「だったら尚更だよ!」
「ほっほっほ! ではいただきましょう!」
料理が冷めない内にと、自身の分を貰ったのと同時に食事を始めるのは。
笑ったり食べたりと忙しい男。それがブレメンという人物なのである。
それが本性であるのか皮を被っているだけであるのか。ただひとつ言えるのは、ジーンにとっては狂った道化師という印象のままに扱っているということ。
深く考えてはいけないというのが彼に対する理解。だから必要以上に詮索もしないし、深入りしようとも思わない。
旅は道連れ世は情け。お互いにどんな事情があろうとも、犯罪悪事見過ごせない狂暴が成されない以上、心強い連れであるという認識なのである。
「それで、詳しい説明はしてくれるのか?」
「お望みならば」
「頼む」
「それじゃあまず、君が語る森とはなんなのか。特に名称があるわけじゃないんだけど、ふむ。取り敢えずは迷心の森とでも言っておこうか」
「メイシン?」
「迷心。心の迷いが導く場所ってことさ」
「……俺、迷ってたのか。何に?」
「さぁ。それは君にしか分からないことじゃないのかな」
「そんなこと言われても心当たりとかないし……」
無意識の内に、という曖昧な答えしか導き出せないジーン。
リーンとしても答えを告げるわけでもなく、ヒントを与え過ぎるわけでもなく。
できればこのまま答えを見つけることなく、頭の片隅にでも悶々とした影を残していて欲しいと。
端から全てを教えるつもりもない彼らが伝えられるのは、まさに水平線の向こうへと現れる不知火のような。どこまで本当なのか分からないような情報だけなのである。
「それと、大事なのはもう一つ。もしかしなくとも誰かに遭ったりしなかったかい?」
「あー、遭ったというより襲われたというか。なんか怖かったぞ」
「ほっほっほ! それ故に! あの怪我であるというのですね! ほっほっほ! まさかビビった末の勲章もとい恥傷であったとは!」
「笑うなっての! マジ心臓に悪いんだよ、あいつ。何か喋ってるしいつの間にか近くに来てるしで」
「子供の悪戯、ただ遊んでいただけだよ。きっと」
「はぁ? なんでそんなこと分かるんだよ」
「君は襲われたって言ったけどね、実際に攻撃らしい行動はされなかったでしょ。その怪我だってどうせ派手に転んだとか思いっきり樹にぶつかったとか、しょうもない理由だったんだろう?」
「……」
木から落ちた、なんて自身の口からは言えそうにないからこその沈黙。
自ら答えてしまえば再びブレメンからの嘲笑を浴びることになるのを理解したからこその沈黙。
人形の正体。
それは遊んでいたいという『子供心』の化身だ。
子供のままではダメなんだという決意とは裏腹に木偶人形は現れるのだ。心が死なないための自己防衛機能でもある。
誰に願われるわけでもなく、風が隣を抜けていくような。
言ってしまえば偶然。言ってしまえば必然。
自然現象の都合など誰に聞けばいいというのだ、といった話なのだ。
こうあるべきだというジーンが想い描く堅すぎる理想のための犠牲を、未然に防いでくれた。というのがある意味では正解なのであろう。
誰にでも訪れるモノではないが、誰にでも訪れる可能性があるモノでもある。
「指先に蝶がヒラり休みにくるようなものなのさ」
「いや何がだよ」
食事の終了は説明の終了。
中途半端な会話など珍しくもない。
訓練が再開していくという段階では既に興味も薄れ、近々に迫る実戦への興味が上回り始めるジーンなのであった。
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「これは! 俺がやる!」
バンっ!
と、そう声を大に依頼書を叩きつけるのは勿論ジーン。初めてのお仕事を前に随分と張り切っているらしい。
「あ、あの。失礼ですがランクは?」
「ら、ランク……ってなんだ?」
出端を挫かれるお子様一人には人々から笑いの贈り物。
馬鹿にするような笑いも含まれているのは確かだが、それ以上に初心な者を鼓舞するかのような雰囲気に包まれてしまう。
新人。それだけで喜ばしい存在であり、誰もが注目する存在。
「ご新規様ですね? それではまずコチラに必要な情報をお書きください。丸印のあるものは必須事項です。依頼書はコチラと一緒に、改めてのご提出をお願いいたします」
「あ、はい。ありがとうございます」
決して大きくはない建物にある冒険者ギルド。だからこそなのか丁寧にそして嬉しそうに手続きを促すその姿勢。
ぶっきらぼうに雑にどーでもよく扱われていたなら反発していただろうジーンだが、その雰囲気に若干の羞恥を覚えてしまうことになる。
用紙を受け取り、少し離れた位置にある空いたテーブル席へと移動したジーンはそこで内容を確認していく。
「えーと、必須事項は……名前だけかよ」
性別、出身地や得意とする武器戦い方。中心とする予定の活動内容など。
項目は色々とあるものの、確定させるべき情報は氏名だけであるのが冒険者ギルドの登録情報。
勿論、偽名でも問題ない。要は活動するにあたっての呼び名があればいいのだ。
その他の情報はパーティを組む際に色々と絞り込みしやすくなる、くらいのものであるのだ。
「まぁ名前はそのままでいいか、ってあれ……?」
と、ジーンはそこで書く紙はあれどペンを貰っていないことに気付く。右へ左へと視線を動かし確認するものの、机の上などには用意されておらず。近くには見当たらない。
普通は受付へとペンを借りにいくのであろうが、過ごしてきた環境が良すぎた。
「あ、すみません。こちらをお渡しするのを忘れ……て……?」
「あぁ、必要ないですよ。自前のがあるので(カキカキ)」
わざわざペンを渡しに受付係員が動いてくれたのだが、どうやら様子がおかしいぞと。何やら固まってしまっているではありませんか。
ぽわんぽわんぽわ~ん。回想始まり。
『いいかい。外ではあまり自身の情報を晒してはいけないよ。便利な力ほど目に付けられ易くそして利用され易いからね。とっても偉いお師匠様とのお約束だよ――』
ぽわんぽわんぽわ~ん。回想終わり。
「あ、やべっ……」
時すでに遅し。外敵への注意力警戒心は身につけ始めたジーンであるのだが、街中での他人に対する警戒心はまだまだであるらしい。
受付係員が目にしたのは何を隠そう『何もない場所からペンを取り出す瞬間』であった。
今はまだリーンから借りている便利な力。どこにいてもどんな物でも取り出し及び収納が可能な便利な魔法。
あら不思議。全世界に共有されている情報の中でもそんな魔法を行使できるのは指折り数人まさに奇跡の魔法。
「あ、いや。これは違くてですね……」
せめてバックから取り出しているように見せかけていればよかったのに、なんて苦言も後の祭り。
面倒事が増えるからと認識していただけに、やっちまった感がジリジリとうなぎ上りも右肩上がり。
「あの、お客様……」
にじり寄る受付係員もとい獲物を逃がさないと戦闘態勢に入った元凄腕美人(自称)冒険者の御姉様。何をしてでも縁を創ってみせるとナニをするのも辞さないと、行き遅れ(自称)の御姉様がにじり寄る。
「あ、あぁっそう言えば! ちょっと用事を思い出しまして」
ガシリ。
「あ」
終わったと。
「(チラッ)ジーン様? 少し、よろしいですか?」
「あ、はい」
「ではこちらへ」
既に名前を記入してしまったのが悪かったのか。受付係員は歴戦の戦士の如き観察力でジーンの名前を把握、そして抵抗できないよう流れるようにジーンの手足の主導権を握る。
と、受付係員的には完璧な状況であるのだが。
実際にはジーンの技量の方が上。逃げようと思えばするりと抜け出せるのだが、抵抗すればするほどに面倒が重なるという予感から下手に動けなかったのだ。
「あの、そんなに引っ張らなくても……」
「いいえ、全力で君を手に入れたいので」
それはギルドとしての利益の話なのか。それとも自分自身のごにょごにょの話なのか。
そんな事情を知らないジーンは素直に身を任せることしかできない。
ここで逃げ出してしまえば依頼を受けられなくなる。つまりは師匠からの課題を達成できないまま帰ることになり、そんなことをすればどんな嫌味を言われることになるのかと考えるだけで嫌になると。
ジーンとしては、一旦引き下がるよりも依頼の受注を優先することにしたわけである。
どう行動すると、この先にどれほどの面倒事が積み重なってしまうのか。
どの選択が将来的によりよい結果になったのか、といった点にまで考えが回らないよう時間的な余裕を与えなかったのは、受付係員の褒めるべき点であるのかもしれない。
「ここよ」
案内、というより連行されたのは。
どことなく気品溢れる飾り付けがされているようで、実際のところそうでもない扉の前。
『ギルド長のお部屋♡』と書かれている札があり、その扉の先にどんな人物がいるのかの予想くらいはジーンでも容易いことでった。
「お客様をお連れ致しました~」
「やあ、待ってたよ」
「……へ?」
ギルド長。
ギルド長の部屋であるという札があった以上、その部屋の中にはギルド長が控えているというのが一般的にも自然な展開であるはずなのだが。
受付係員が素っ頓狂な声を漏らしていることから分かるように、なんと部屋の中で待ち受けていたのはギルド長だけではなかった。
「あ、え……この人誰……?」
「ご苦労。その子を置いて、君はすぐに下がりなさい」
「お、お父様? あの、私、将来有望な子を見つけたので紹介に来たんですけれど」
「……ギルド内ではそう呼ぶなと言っているだろう。それに、お客様が来ていると把握した時点ですぐに下がりなさい。職員としてはまだまだ勉強不足だぞ」
お父様と呼ばれた執務机に座っている屈強な職員。彼こそがギルト長その人であることは間違いないのだが、それ以外にももう一人。
「ハハハ、そこの愚図な弟子よりはマシさ」
ギルド長相手に臆することなく相槌を打つイケメン。
イケメンである時点で只者でないのに、恐らくはギルド長と同等かそれ以上の権力者であるという予想ができる目の前のイケメン。
そんなイケメンに対し受付係員は一瞬、その呆けた顔を晒した後でその奥から覗く自身の親の鬼のような形相を認識しすぐにでも意識を覚醒させ退出しようと動き出す。
「あ、え……? あっはい! 申し訳ありませんでしたっ!」
「ハハハ、精進しなさいね」
「し、失礼しますぅ~!」
バタンっ。
最後、話しかけられて嬉しそうに去って行く受付係員なのであった。
「……説明はあるのか?」
「いや、特には」
そして、それまでは腕を引かれての動きを制限された状態であったジーンは手足の自由を取り戻すことに。
話しかけるのはギルド長にではなく、もう一人のジーン自身も良く知る人物。
「なんでここにいるのかくらいは教えてくれよ、師匠」
「そりゃ出来の悪い弟子の面倒を見てくれるギルドの一番偉い人に挨拶しに来たに決まってるでしょ」
「へー、そんなクソ野郎みたいな弟子もいるもんなんだな」
「ちなみにだけど僕の弟子って一人だけなんだよね」
「じゃあ俺のことだなおいそうなんじゃねぇかとは思ってたけどさぁ!?」
弟子の心配をして何が悪いのか。
そう溜息交じりに言葉を零すリーンであるのだが、ジーンとしてはその気持ちそのものではなく伝え方に問題があるのだと突っかかることに。
ただ、ギルド長の手前いつも通りの姿を見せるわけにもいかず、普段の半分程度に感情が抑え気味になる。
人前であるという状況での立ち振る舞いに関しては、良くも悪くも人見知りが発動するのであった。
一服するには少々頼りない時間を使った後で冷静さを取り戻すことになる。文句はあれど、達成するべき課題が存在することには変わりないのだ。
暫くは冷静さに欠けたままであるのだが、自身のやるべきことを忘れるなんてことはなく。努めて冷静であれとする姿勢のまま、リーンへと話を振ることにするのであった。
「それで、俺がここに来るのは想定済みだったってことか?」
「いや? 本来はここで会うことは想定していなかった。君がしくじったからこそのこの状況なのさ」
ドジを踏んだと自覚のあるジーンであるからこそ、自身を責めるかのような言葉に何も言い返すことができない。
リーンにその意図は無くとも、ジーンとしては窘められているように感じてしまうのであった。
悔しい。
まだ始まってもいないのに、依頼を受ける以前の問題にぶつかるという想定外の事態に悔しさを感じてしまうことに。もっとも、そんな感情に左右されこれ以上に冷静さを欠くという失態を重ねることはなかったが。
切り替えの早さというか。反省から前へ進むまでの工程に時間がかからないのは何とも子供っぽくない彼の良き点なのであろう。
「……俺が受けたいのは魔物の討伐依頼だ」
「ほう、ゴブリンか?」
ゴブリンとは人を小さくしたような、姿形をした魔物。
戦いに身を置く者ならば障害となるような敵ではない相手だが、一般人であれば子供にしろ大人にしろまず勝ち目は無い。武器防具があれば幾分と勝機が見えてくるものの、油断をすれば敗北必至。
邪悪で醜く、そして数の暴力で押し寄せることもある存在なのである。
ただ、恒常的に討伐依頼が存在していたりゴブリン討伐を専門の仕事としている者がいたりするおかげで、生活圏にまでその脅威が及ぶことは少ない。
恐ろしいのは、毎日のように数を減らしても一向に絶滅へと追い込めないということ。
「いや、師匠が世話になったお方の弟子ならば……カーシーあたりか?」
一人勝手に予想を進めていくのはギルド長。
カーシーとは四足歩行の魔獣。
灰の体毛に覆われ、ぱっと見は犬のような魔物である。
ゴブリンほど数は多くないものの、放置をしておけば大量発生そして街道を使用する者らへの被害拡大に至るため、ギルドとしても無視ができない存在。
ゴブリン以上の機動力や膂力もあり、戦闘に不慣れな初心者一人で立ち向かうには頼りなく思うような相手。複数人での討伐が推奨されるような相手であった。
ゴブリンと同じく恒常的に仕事を生んでいるため、ベテランの者であれば手頃な日銭を稼ぐ手段となっている。
「残念ながらどちらも違うね。それでは相手にならない」
「相手にならない……?」
ギルド長の予想はハズレであると、そう答えたのはリーン。
しかし、『相手にならない』という言葉を聞いたギルド長はすぐにその意味を理解できずにいた。
ゴブリンやカーシーを相手にできないという、ジーンがそれら以下であるという意味なのか。
いや違うと、多少訓練を受けた者ならばそれくらいはできるだろうと。初心者であれ、相手にならないという表現はしないであろうと。
ならば相手にならないというのはゴブリンやカーシー相手では戦うだけ時間の無駄、弱すぎて相手にならないという意味なのかと。
初心者の域を越えた実力を持ち、それ以上の相手を望んでいるのだと。ギルド長は瞬きを複数回重ねた末にそう結論を導き出すのであった。
「ではいきなり魔猪の討伐にいくというのか? 確かにウチの依頼書の中もあるにはあるが……」
少しの疑い。そして、それ以上の期待。
この若さでベテランの戦士と同等の力を身につけているのかという驚愕と共に、魔猪の討伐依頼書の手配をしかけるギルド長。
「あの、魔猪じゃなくって……受けたいのはこれなんですけど」
傍に控えていた秘書なのであろう職員に目配せをして手続きを始めさせようとするギルド長であるのだが、それはジーンによって止められる。
迅速な判断を求められる仕事上、決めつけというか、早とちりをしがちなところがあるのは仕方がないのだろう。彼の良さと捉えるべきか、見直すべき点であると捉えるべきか。
そんなギルド長は手渡された依頼書を確認し、そして改めてジーンを真っすぐ見定めてからもう一度吟味をして、ようやく秘書へと依頼書を渡し手続きをさせる。
一瞬、依頼書を渡された秘書も眉をひそめるもギルド長の判断であると自身に与えられた仕事を進めていく。
「縁がない者が相手であれば突っぱねていたところだが、今はそちらの判断を信じることにしよう」
「ハハハ、賢明だね。もしダメだと言われたとしても討伐する予定だった。その後で討伐の証拠と共に君の失態を披露するつもりだったんだけど、助かったね」
「……どうも掴み切れない方である気はしていたが、内心ではそんなにも恐ろしいこと考えてたんだな」
決まりとして、依頼書の内容を再確認されるジーン。
「――何か?」
「あ、いえ。何でもないです」
美人な秘書を相手に少々顔を赤くしつつもその作業を進めていくジーン。
討伐対象がいるおおよその場所や討伐証明のために必要な部位など。そしてギルドからの支援品を渡され、ようやく正規に依頼を進められるようになったわけである。
「師匠はここにいるのか?」
「いや、僕も暇ってわけじゃないから。君を相手にしなくても良い時間に、他のできる用事を片付けておく予定さ」
「あっそ、大変ご迷惑をおかけしますねぇはい」
リーンが同伴していてはいつもと変わらない。
咄嗟に助けてくれる存在がいないというだけで、いつも以上に緊張感が増すことになる。
安心安全、とは言い難いものの命の危険という意味では修行中など甘すぎる環境設定であった中、今回の実戦。
強敵との戦闘など今更ではあるが、たった一人での実戦というものはあまり経験してこなかった。
不安はないが変な緊張がジーンの身体を震わせていた。
力試しができるという高揚感からくるものなのか、無意識に潜んでいる恐怖からくるものなのか。
「無事、帰ってくることを願って」
「? はい、どうも……」
退室の際、ギルド長に言葉をかけられることに。
ギルドとしての習わしであるのだが、これが初めての依頼受注であるジーンとしては少し恥ずかしさを覚えてしまうような体験として記憶に刻み込まれてしまう。
真面目な雰囲気、儀式的な空気感を新鮮に感じている証拠であった。
「……大丈夫でしょうか」
「問題無い。と、俺の勘は告げているな」
大した会話もなく、ジーンに続きリーンが退室していった後の秘書とギルド長の会話。
一方は不安を払拭できていない様子であり、一方は対して何も思っていないような。まるで今起きた出来事が当たり前の日常であったかのように思わせる態度であった。
どんな結果になるのかを理解しているということなのか。
一人の新人の初仕事。無事依頼を達成し戻ってくる者もいれば、そのまま帰ってこないつまりは死ぬ者もいて。依頼は達成できなくても生きて帰ってくた、なんて者もいて。
今回はどうなるのか。ただそれだけの話なのだ。
「いつも通り準備だけはしておくように」
「はい、それは既に手配を」
新人に対しての会話はここで終了。以降は通常業務に戻っていく二人なのであった。
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薄曇り。薄く青の空色が窺える本日。
一人の少年が運良く見つけた依頼の達成を目指していざ進む。
借りた移動用の二足の動物、分類としては鳥類であるというチュンへとまたがり長時間の高速移動を頼りにいざ向かう。
当初は自身の足で向かうつもりであったジーンであるが、支給品とともに移動のための足も借りることができていた。
速度的には然程差があるわけではないものの、体力的な意味では非常に助かる嬉しい誤算であった。
通常ならば武具や食糧、万が一に備えての諸々を荷物として持ち運ぶ必要があるのだが、例の魔法によって出し入れが自由なジーンは必要最低限の装備のみを身につけているだけ。
心なしかチュンも心地良く大地を蹴っているようにも思える。
ジーンが小さな頃からチュンの扱いをしていたことは偶然であった。
こうして大地を駆け回る想定などしていなかった幼子ジーンへと訓練をさせた者には感謝をしなければならないだろうと。
記憶の薄れたジーンに浮かぶのは、ある一人の男と隣で一緒になって訓練を受ける姉の姿。
言ってしまえば暇な時間。だからこそ思い出してしまったのか、暫く会えなかった寂しさを記憶が訴えているのか。
「よしよし、少し休憩だ」
走ること一時間と少し。
始めこそ整備された道を走ってきていたが、途中からは少しずつ荒れた道へと変わってきていた。
未だ目的地への道半ば。チュンへの負担や緊急性の大きい依頼でもないことから、焦る必要もないという判断。
秘書から教えられた討伐対象が発見された地点から最寄りの村までの、丁度中間地点のこと。
「まだ走ってもらうからな。お前はここでゆっくりしててくれよ」
ジーンの言葉を理解したのか、ただ機嫌が良かっただけなのか。元気に返事をし、存分に身体を地面へと預けるチュンであった。
その際にチラリと、首元にかけられた名札が目に入る。
「グリューン……お前子供の頃は緑の毛だったのかよ。しかもメスだし」
オスに比べ扱いの難しいメスの個体である事実に少しげんなりしつつ、赤橙の羽毛を撫でグリューンの機嫌を取る。
「クァァァア……」
綺麗好きであるのか、少し毛並みの乱れた箇所を嘴で整えるグリューン。やるなら最後までやってくれと文句を言いたげな鳴き声と共に、少し目線を別方向へと向ける。
なにかが気になったのか。勿論、ジーンは既に気付いていたある存在。
「素材を提出すれば追加報酬……だっけ? ありがたく俺らの資金になってくれや」
GURRRRRR!!
カーシーの登場。ふらりと、彼らの縄張りへと侵入してしまっていたらしく。
本来は人が使用する道の付近へは近づかないものなのだが、恐らくは縄張りを変更させなければならない理由があったのだろうと。
武器を構えながらジーンはそう考えていた。
現在、まさにその原因であると予想される魔物の討伐へと向かっているのだ。そう難しい予想でもなかった。
強力な魔物に対しては、それに力及ばない魔物達も人同様に離れることでしか自らを守れない。そう思うと対抗できる力を持てる人らはまだマシなのかもしれない。
GURUAAAAA!!!
三体。
同時にジーンへと襲い掛かってくる。右へ左へと上手く避けることもできるのだが。
「下からドーンっ!」
KUUUUAAAA!?!?
地面から勢いよく生えてきたのは幾本もの三角錐。土の棘。
三体のカーシーはジーンの魔法に反応できずそのまま串刺しになってしまう。即死させられる威力はないが、ダメージを与えるのと同時に身体の自由を奪える魔法となっていた。
魔法の道を進む者ならば初心者の内から扱えるモノであるのだが、ジーンのそれはベテランの域へと突入していた。魔物の強靭な肉体を貫ける強度もあり、発動させるまでの隙も少ない。
なんなく敵を処理したジーンだが、その手には未だに剣が。つまりは戦闘がまだ終了していないということ。
KUUAAA!!
木々の間を抜け、茂みの中から出てきたのは二体のカーシー。しかしその攻撃が向けられたのはジーンではなくグリューンであった。
戦闘能力がなく、更には休息のため寝転がっているグリューンは隙が大きい。恰好の的というわけだ。
「クアッ」
ところが自身へと襲い掛かってきているカーシーに気付いてもなお、グリューンは慌てることなく短く鳴くだけ。逃げようとする素振りすらしないのは何故なのか。
「残念。師匠直伝の魔法障壁があるんだよな」
とはジーンの言葉。
そして、直後二体のシーカーは空中で障壁へとぶつかり勢いを止められてしまう。何が起きたのかと混乱し、グリューンを標的とするのは無理であることを悟ったのか逃亡を始めていく。
「みすみす金を逃がすわけないっての!」
適正射程圏外。先程の魔法では正確さに欠けてしまう。ならばと駆け出していたジーンはシーカーが逃げ出した時点で既に剣を振り下ろしていた。
不思議と、振り下ろした際に煌めく輝きが尾を引いているように見えたのは。
一体の首を斬り落としたままに残る最後の一体へ向けて煌めく刃を振り抜き戦闘終了。カーシーの傷口からは血ではなく、何か黒い霧のようなものが漏れていった。
魔物の身体全てを持ち帰ればそれだけ使える素材が増えるのだが、通常はそれだけで相当な荷物になってしまうためより価値のある部位だけを持ち帰る。
牙であったり毛皮であったり、魔物の核となる魔核といったものが対象となりやすい。
しかし、荷物に関しては制限がないと言えるジーン。斬り落とした頭も、分断された身体も全てを回収していく。当然、土の棘でオブジェと化している三体も同様に。
突発的な戦闘。その対応はかつての頼りないものではなく、確実にリーンと出会う以前よりも実力が増し増しになっていた。日頃の訓練の賜物であろう。
「お前偉いな! 俺のこと信じて大人しくしててくれたんだろ?」
「クェワッ!」
わしゃわしゃと。隠すことなく旅の相棒グリューンへと嬉しさをぶつけるジーンと、そんな一人の少年を鋭い目つきで見下ろす赤橙のチュン、グリューン。
そこじゃないと望みの場所へとジーンの手を誘導するグリューンは、果たしてジーンのことをどう思っているのだろうか。
「いやホントに偉そうだなお前」
チュンが錯乱し、そのせいで被害が大きくなってしまうという例は少なくない。チュンを供に移動する者の多くはいかにチュンを驚かせないように立ち回るのかを意識するものなのだ。
その点でいくと、今回のジーンの立ち回りは少々問題アリであると言える。
グリューンのように、目の前に魔物が迫ってきても落ち着いていられるチュンなど数えるほどしかいないだろう。
自身の危機を感じ取れないほど間抜けな個体であるのか、自身へと危害が及ぶことがないと主を信頼している個体であるのかというくらいか。
恐らく、グリューンは後者であった。
そんなグリューンを褒めるため、休憩の間は望まれるがままに撫で続けることになるジーンなのであった。
「クックェ」
「だな、そろそろいくか」
撫でられるのに満足したのか、これ以上は時間の無駄となると自ら判断したのか。ジーンよりも先に立ち上がり早く背中に乗れと促すグリューン。
そんな頼れる態度に改めてグリューンの優秀さを認識し、ジーン達は目的の場所へと再び走り出していくことになる。
流れる川の水を追い越し。流れる雲を追い越して。
飛ぶ鳥を。遠くから目を光らせる魔物達を横目に駆けていく。
道が悪いのなんて関係ない。移動だけは任せてくれよ、と。
駆けていく。
役割を理解し、それを全うするために駆け続けていく。
「おっ、見えた」
永く思えた時間は終わりを迎える。
最寄りの拠点、ノキ村。家屋が見え始めてきた辺りでグリューンから降り、暫く進めば開けた場所へと辿り着く。
いくつかの店があり、その一つへと近づいていく。話を聞くためだ。
「こんにちは」
「おや、旅の人かい?」
「ええっと、この辺りでトントンを見かけたって聞いたんですけど」
「あぁ、あんた冒険者なのか」
「えぇ」
「詳しい話を聞きたいってんなら宿の方にいくといい、チュンもそこで預かってくれるだろうさ」
一言のお礼。そして店に並ぶ商品の一つである果物を二つ買って宿へと向かう。
「お、落ち着けって……!」
「クァッ!」
ジーンが手に持つ買ったばかりの果物二つ。もとよりグリューンに与えるためであったのだが、予想以上に食いつく姿に焦ることになる。
余程好物であったのだろうと、帰る際にもいくつか買っていこうと思うジーンなのであった。
「……連れはこちらへ、か」
教えてもらった宿へと到着し、まず目に入ったのはある看板。
矢印の方向を見れば、チュンなど旅の供として使われる動物らを預ける所謂チュンら専用の宿屋があった。
まずはそっちに行けということなのだろうと、素直にグリューンを連れそちらへと向かう。
「こんにちはー」
「……ん~っ! お客さん……?」
客が来ることは珍しい出来事であるのだろう。番を任されていた少女は机に突っ伏したままうたた寝をしていたのだが、ジーンの姿を見るや恥ずかしそうに口元を拭う。
「この子を預けたいんですけど……」
「あっ、はい。明日までのお預かりですかね?」
「いえ、数時間だけでいいんです。仕事が終わったら帰りますから」
「そ、そうなんですね。えっと、料金を先に頂きたいんですけど……」
本当に久しぶりの対応なのだろう。何だか視線があっちへこっちへ、落ち着かない様子で仕事をしていた。
とは言ってもそんなことを気にするジーンでもない。支払いを済ませ、案内された場所へとグリューンを連れていく。
「少し待っててくれよ? すぐに戻ってくるからさ」
「クックェ」
「信頼、されてるんですね……。こんなに大人しい子見たことないかも」
「ほんと、賢い子ですよね」
グリューンを少女に任せ、ジーンは宿の方へと入っていく。
情報収集だ。
ギルドに入ってきていない最新の情報を手に入れるためであり、特に変わりがないのならそれでも問題はなし。
ただ、追加で情報が提示されれば何か対策を考えたり作戦を練り直したりする必要出てくるるのだ。確認するに越したことはない。
もっとも、元々ジーンは細かいことを考えるのが面倒な気質である。多少のことは誤差であると判断することになるのだが、果たして。
「そうだな……確か、周辺の魔物の数が減ってるとか言ってたな。大方トントンのやつに喰われたんじゃないかって話だ」
「なるほど……?」
「ここ最近、自警団の人員も代替わりしちまってな。こういった事態に対する経験もあまりないんだ。先代らの話を聞こうにも今は皆して引退旅行ってやつでしばらくは帰ってこないから困ってたんだよ」
村の周辺も魔物が出るためそういった意味では危険ではあるのだが、生活に困るほど危機的な状況ではなく。どちらかと言えば比較的に安全が保証されているからこそ村があり。
定期的に出稼ぎにくる冒険者たちの存在もあり、安定した環境であったのだ。
そういった事情もあり経験を積んだ者らも安心して出ていったのだが、今回は運が悪かったと言える。
「ある程度の周期や規則性があると言っても、いつ何処にどんな魔物が現れるのかなんて正確には把握できませんもんね」
「そういうこった。手間をかけるが、よろしく頼むよ」
歳などは関係ない。未だ子供と言える歳そして見た目のジーンに対しても、疑うことなく信頼の目を向けてくる宿屋の主人。
それだけ冒険者ギルドへの信頼があるということ。正式に依頼を受けた者ならば、それだけ実力が認められた存在であるという証明でもあるのだ。
「必ず、仕留めてきます」
そんな信頼を裏切らないようにと、気合を入れ直すことになる。
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空模様は相も変わらず薄曇り。
昼食を摂るには早いが、少し腹が減ってきたのを自覚し始めるような時間帯。
見通しの悪い林の中、異常な程魔物の気配がない道なき道を進んでいく。討伐対象となるトントン以外の魔物が減っているという情報通りであるわけだ。
そもそもトントンとはどういった魔物なのか。
姿は豚が立って歩いているかのような、上半身は毛が無いものの下半身は毛に覆われている豚の戦士。機敏さがない代わりに膂力が凄まじく、その腕っぷしにかかれば樹の一本や二本は軽く倒してしまうほど。
勿論、人の身体で受けてしまえばただでは済まない。金属でできた防具を身につけていようと骨折は覚悟しなくてはならないだろう。
戦法としては、奇襲を仕掛けて一気に弱らせるのが一つ。反撃される前に倒してしまえという分かりやすいものだ。
あとは遠距離から魔法で戦うというのも有効であろう。一番は火で燃やせるといいのだが、トントンは森林に棲む魔物であるためそれは難しい。周囲の樹に燃え移ってしまえばトントン以上に被害が出てしまうからだ。
ジーンがカーシー相手に使用したような地の属性であったり、他には水の属性や風の属性での魔法で対処するのが基本とされている。
手練れであれば上手く調整した火属性の魔法で対処もできるのだろうが、そんな実力があるのならわざわざ火属性でなくとも問題無くトントンを倒せるだろうと。
新人からの脱却。トントンを倒したら一人前を名乗れるようになると言われている立ち位置の魔物。
それがこれからジーンが相手にする魔物である。
『キン……トンキン……』
「……聞こえた」
林の中に響くのは鈍く不気味な音。
トントンが己の武器となる何かを地面へと打ち付ける際に響く音だ。名前の由来になっているほど特徴的なこの習性。
多くの場合は木で造られた不細工な棍棒であるのだが、どうやら今回は違うらしい。
「金属……? 被害を受けた人らの武器を使ってるのか?」
戦利品。生き残りをかけた戦いに勝って手に入れた武器なのだろう。
脆い棍棒とは違い、攻撃力も耐久力も段違いな金属製の武器。事前にそうした情報を把握することも重要である。既に戦いは始まっているのだ。
音が発生している場所へと気付かれないように近づき、そして見つける。
「いた……!」
発見。遠く、木々の間を歩くトントンの姿を確認するジーン。
定石を踏むのならば、このまま魔法で弱らせそのままトドメを刺すことになるのだが。
何故かジーンは距離をどんどんと詰めていく。
射程圏内ではなかったのか? それは違った。時間をかければ問題なく届く距離であったのにもかかわらず、距離を詰めていく理由があるのか。
と、ジーンが一気に走る速度を上げる。
自身の存在を気付かせるように、あえてそうしたかのように見えるがその狙いとは。
BUGYAAAAAA!!!!
「いざ、勝負!!」
激しくぶつかり合う両者の一撃。
トントンが力任せに振るのは斧。地面へと叩きつけていたせいで刃のなくなった、最早鈍器と化している斧であった。
「くっ、すげえ馬鹿力っ……!」
押し返されたジーンは悔し気にトントンを睨む。力勝負は完全に負けであった。
しかし、おかげで目安ができたと内心では喜んでいる部分も。
討伐の依頼とはいえ、ジーンの中では完全に力比べの認識であったのだ。
二度、三度。
トントンの一撃をわざと誘うように動き、その度に闘志を燃え上がらせ続けていく。
「硬ってぇな……!」
トントンの身体には小さな切り傷しかつけられない。隙をついてダメージを与えようとしても現状では火力不足であった。
だが、それで諦めるジーンでもなかった。何度も打ち込み、弾き返されまた向かっていく。
まだ。まだまだ。まだまだまだまだ!
徐々にジーンの刃に変化が現れ始めた。カーシーとの戦闘時に見せた、あの爛々とした輝きが刃の軌跡に合わせて尾を引き始めてきたのだ。
「うぉぉぉおおお!!」
BUGGIGIIIAAA!?!?!?!?
拮抗した。力比べでは劣勢であったジーンが、トントンの重い一撃を受け止めるに至る。
二度、三度。
回数を重ねる程に、形勢が変わっていく。
劣勢から拮抗へと変化し、そしてトントンとの力比べは優勢と言える状況へと。
押し返す。大木をも押し倒す一撃を、苦も無く押し返す。
ジーンの持つ剣は淡く光りを纏い、そして剣だけではなくジーンの身体そのものも淡い光を纏っていて。
魔闘技。
魔力を使って自身の身体能力を向上させる秘技。武器を魔力で纏わせ武器としての性能を何段階にも跳ね上がらせる秘技であった。
小さな傷をつけるだけに終わっていたジーンの攻撃は豆腐を切るかの如くすんなりと。
そして、金属でできているはずの斧ですら。
BUGGYAAA!?!?
「これで終わりっ!!」
武器を失い。持ち前の腕力と耐久力も攻略されたトントンに為す術はなかった。
逃げる隙すら与えられることなく、ジーンによって討伐される。
討伐完了。
数分の時間もかからない、終わってみればあっけない戦いであった。
勝利の余韻も程々に、討伐の証拠となるトントンの本体を収納していくジーン。短い戦闘でもそれなりに疲労を与えられたのは事実であるが、でもそれは心地の良い疲労感。
口角が上がるを抑える努力は無駄に終わっているが、浮かれてその場ではしゃぐことがなかったのは成長した証であるのか。
「よし、すぐ帰ってすぐ報告しよう……(。´・ω・)ん?」
気分良く帰れると思っていた矢先、ジーンはある気配を察知し戸惑いの表情を隠せないまま振り向くことに。
魔物ではない。危険の接近ではないがここに来るはずのない存在。
「た、助けてくださ~いっ!!」
「クゥゥウエッ!!」
グリューンと、グリューンを預けた宿の番をしていた少女。
点と点が繋がらない組み合わせに対応が遅れてしまったのは、仕方のないことであったのか。
グリューンがジーンの手前で止まるまで、その様子をただ見ていることしかできない。
「え、えっと……何かあった?」
「そうなんです! 魔物が……!」
「魔物が?」
「クエッ!! クゥエェッ!!」
「おわっ!?」
会話を強制的に中断させたのはグリューン。
怒っている、というよりも焦っているような様子に混乱していた頭が落ち着きを取り戻す。
相棒が必死になって伝えようとしてくれた何かに対処するためには自身の力が必要なのだろうと。そうでなければこうして駆けつけてくることはないと。
話は後だとグリューンに案内を促す。
「村で何かあったんだな?」
「クェッ!!」
「お前は怪我しないようにゆっくり来るんだ。背中の女の子も任せたぞ?」
少女を落ち着かせる余裕もない。
足場は悪く、グリューンに乗るよりも自身の足で走った方が早いと判断したジーンは一人で木々の合間を縫って駆けていくことに。
村で何が起きているのか。少女の言葉から、恐らくは魔物に襲われているんだろうと予想はつく。
しかし、それだと自警団は何をしているのか? という疑問が出てくる。
自警団では手に負えない相手であるのか。もしそうであるのなら、自身の力で解決できるのか。
不安だけが大きくなっていく。
強くなったと言っても、それは以前と比べてというだけの話。どんな魔物が相手でも勝てる実力をつけたという話ではないのだ。
「なっ……!?」
林を抜け、村を目の前にしたジーンが見たものとは。
GUGAAAAA!!
GYAIIIAAAA!!
BUGGYAAAA!!
トントンの群れ。群れで行動するなんて話は滅多に聞かないが、現実に起きていることである。目の前の光景は全て現実。
壊された家屋も。倒れた村の人々も。自警団と思われる抵抗する人達も。全ては現実のこと。
避難が間に合った人の方が多いのだろうが、被害に遭った人がゼロというわけでもなかった。
BUGGYAA!!
「うわぁぁあああ!?」
駆ける。
間に合え。それだけを思って全力で駆ける。
一目で自警団が劣勢であると分かるトントンの群れとの戦闘に、一人でも多くの人を救えるようにと駆けていく。
GIGIIIII!!
「邪魔すんなぁぁぁ!」
そんなジーンの前に立ち塞がるのは別にいたトントン。
既に魔闘技を十全に発揮できるようにと準備していたジーンは、棍棒もろともトントンの腹を斬り裂き走り抜けていく。
敵の生死の判断、トドメよりも今は人命の救助が先であるとして懸命にその足を動かして。
「くそっ、間に合わねぇ!」
この状況で有効な自身が扱える中でも最速で発動できるものは何か。
足を止め、攻撃を逸らすことだけでもできないかと魔法を発動させる。
GAAAI!?
言ってしまえばただの突風。攻撃力こそないものの、態勢を少し崩し数秒の時間を稼ぐには十分であった。
「今の内にっ、逃げて……!」
滑り込みの防御。なんとか間に合ったジーンはトントンの一撃を逸らすことに成功する。
ただ、無理な態勢での防御であったために大きく態勢を崩されてしまう。
結果。
他人を救うことはできても自身を守ることができなかった。
叩きつけられる。殴られ吹き飛ばされる。
木造の家屋を破壊しながら転がりそして跳ね回り。
魔闘技を維持していなかったら骨は折れ内臓も傷つき、立ち上がることもできなくなっていたことだろう。
「ふざっけんなよ……!」
自身への怒り。この状況に対応しきれていない自身の力不足への憤り。
それでも。今は立ち上がり、そしてこれ以上に被害を広げないために戦い続けるしかないのだ。
時間さえ稼げば救援が来る、という期待はしない方がいいだろうと。
距離の問題もありすぐには救援など来ない。逃げることもできず、まだ近くにうずくまって泣いている人がいるかもしれない。
そんな人達を誰が助けるというのか。
「俺しかいないだろ! 立って、俺が、やるんだよっ!」
諦めに目の輝きが消えかけていたジーンの目に、再び闘志の輝きが燃え上がる。
負けていいわけがない。倒れてていいわけがない。諦めていいわけがない。
振るう。魔力を帯びさせた剣をトントンめがけて思い切り振るう。
ダメージの残る身体。一歩が重くそして遠く。血が流れる感覚に恐怖しながら、それでも永い一秒を全力で。
他の誰でもなく、自身が生き抜くために戦い続ける。
そう。
格好をつけて誰かのためにと思いながら、心の奥底では怖かったのだ。
死にたくないと、自分のことを考えていたのだ。
死にたくない。死ねない。死ぬわけにはいかない。
本心とも言える感情を剥き出しにして戦う姿に美しさはなかった。だが、力強くあった。
腕を斬り落とす。腹を斬り裂き足を斬り捨て。
一体。二体と、トントンの屍を作っていく。視界に入るトントンを全て倒すために。ジーンは己の身体を酷使していく。
「うわぁぁぁぁああ!!」
子供の叫び声。幸い距離は遠くなく、目先に見える角を曲がった先であろうと予想がついたジーンは攻撃対象を変更。
目の前に、手が届く場所に救える命があるのなら。迷うことなく身体を動かす。
怖くても。そんな感情を超える助けたいという感情がジーンを動かしていく。
「なっ……!?」
「グヒブィヒッヒヒヒヒィ」
走る足を止めそうになる。
うずくまる少年と、その直ぐ近くには一回りも二回りも大きな身体をしたトントン。
師匠であるリーンや敵意のない手練れの者らを除けば、初めて突きつけられる敵からの格上の存在感。個体ごとの個性の範疇を超えていた。
上位種であると直感で理解する。
「あぁぁぁぁぁ!!」
少年に負けず劣らずの叫び。
雄叫びのつもりなのであろうが、それにしては滲み出る恐怖の色が強すぎた。
――それは一瞬。
先の衝撃など比にならない。身体の内側で爆薬が起爆したかのような。
「……………………」
気を失っていた。
それは一瞬のことであったのだと、目の前の光景があまりにも変わっていなかったことで理解する。
生きている。
少年はまだ、生きている。
助けなければ。助けなければと心がそう願う。
「師匠、助けてあげて」
言葉にすらならない掠れた音。
声ですらない耳障りな響き。
誰に届くはずもない希望のない小さすぎる願い言。
――可愛い弟子のお願いなら、仕方ないかな。
夢か幻か。はたまた現実か。
薄れゆく意識の外で叶うその願い。
気付けないのは、ただその場を認識できなかっただけ。
遠く、遠く。誰かが泣き続ける声は子守歌。
深く、深く。子守歌の心地よさを意識することなく眠る。
沈む、沈む。黄泉の国へと攫われるように沈んでいく。
長く、永く。
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冷たく広がるのはコンクリートブロック。ムラのないどこまでも変わらない色合いには果てしない技量を思わせる。
真上からはスポットライトの光り。照らされている円形上に佇むのは、片腕の人間。
全身は金属で覆われ、所謂プレートアーマーというものを装備していた。
僅かに反射するライトの光がチラチラと、眩しく滲む。
不気味なのは、微動だにしていないはずなのにやたらと響く金属の擦れる音。
不細工な響きは耳障りであり耳を塞ぎたくなるはずであるのに、そうしようという気が一向に訪れないのは。つまりは不快ではないということ。
片腕の先に握られているのは鞘。およそ戦える武器ではないのは何か理由があるのか。
恐らくはもう片方に握られていたのが、刃を持つ鞘へと納める刀剣であったのだろう。
二つで一組であるのが本来の姿。
体格の良いその姿。男性なのだろうか。
美しいとさえ思えるその姿。女性なのだろうか。
一頁、進んだかのように。
だらりと伸ばしていた片腕は折り曲げられた。
持つ鞘を眼前に掲げるような恰好へと切り替わる。掲げたものが刀剣であればさぞ格好がついていたことだろう。
音はなかった。不細工に鳴り続ける響きもなかった。
何も一致のしない世界。
空には一つのスポットライト。照らされるのは誰とも知らない者一人。
どこまでもコンクリートが広がっているのが視える気がするのに、少し手を伸ばせば壁に触れてしまいそうなくらいに閉鎖的な空間。
熱くも寒くもない。
片腕であるのは不完全な生の形。何かを得るために生き、果てに何かを失った成れ果て。
――を失うとしても。――を得ることを願うのか。
また、一頁。
鞘を寝かせるような形で突き出していた。
誰かを攻めるようなものではなく、誰かを慈しむように。
少なくともジーンはそう感じたのだった。
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目を覚ます。
トントンの上位種、ドンドンに敗北した記憶に吐き気を思い出し目を覚ます。
身体が抉れていなかったのは日々の努力があったおかげか。あの状況で立ち向かっていってしまったのは、日々の努力のせいであったのか。
「俺は……馬鹿だな」
「ハハハ。今更気付いたのかい?」
「自分が、って強がって。何を優先すべきなのか間違えてた」
「最初から僕に助けを求めておけば、って後悔したのかな?」
「違うんだ。…………うん、違う。最初から皆を助けるには何が一番なのか、って。もったいぶってたわけじゃないし、あの時はそれが最善だって思って動いてた。でも、それって結局は俺の、俺だけの正解だけしか見えてなくってさ」
「それで? 何が言いたいのかな」
「俺、もっと強くなるよ。誰にも負けない強さじゃなくってさ。誰でも助けられる強さが欲しいんだ」
「だったら今はまだ。もう少し、もう少しだけ眠っておくといいさ」
「…………ありがとう師匠。あの子、助けてくれて」
「なに、たまたま近くにいたからね」
「せめて、腹抱えて笑える……もっと、イカレてる冗談……いや師匠にとっては真面目なんだろうけどさ。……それが聞きたかったんだけど、な……」
「君こそ。素直におやすみとは言わないだろう?」
「はは、たし……かに、な……」
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「俺、復活っ」
「ほっほっほ! 回復力は子供の特権かもしれませんなぁ!」
「うっせぇ!」
「おやおや。お変わりの無い様子に私安心しましたよ、はい」
挨拶代わりのやりとりは変わらないようで、でも少し。
変化があるとすれば笑い飛ばす勢いの声色。怒鳴り荒げるかのようなものではなかったということ。
十数時間。
ドンドンにフルボッコにされてから未だ一日と経っていない中で、やはりというべきか不思議な程に身体が軽いのは。
絶好調とまではいかないものの、気分的な部分を加味したら絶好調+3くらいにはなるだろうと自己分析しちゃうくらいの。
「今なら誰にでも勝てる気がするっ」
「ならすぐにでも『これ』とリベンジマッチするかい?」
「うーん! 言葉の綾というかなんというか。気がするってだけなのそこんとこ察して師匠」
リーンにつままれているのは何やら四角い、サイコロを少し大きくしたような、透き通っているのか濁っているのかその半々くらいの透明度の、若干角が丸くなっているキューブ。
一体それは何なのか。
ジーンとしてもそれが何であるのかを全く理解していなかった。
ただ、リーンの言葉と途轍もない魔力を纏っている事実から危ない何かであることを直感的に理解することだけはできていて。
自身の与り知らぬ間に何が起きていたのか、これは聞かなければと思い話を師匠へと振ることになるのであった。
「あぁ、これね。一言で言えばとある状況を形にしたものさ。君が気を失う直前の、あの絶体絶命の状況をわざわざ僕がとっておいてあげてるんだ。感謝の言葉の一つでも聞きたいものだが、ん?」
「それはそれは。どうもありがとうございます、これでいつでもあいつと再戦できるってわけですねお師匠様」
「ほっほっほ! いつになく素直なのは衝撃と共に頭のネジが外れてしまったからですかな?? いや、頭がおかしかったのは前からのことなのですが」
「違ぇよ!? あんたさっきは『変わりの無い様子に私安心しましたよ』とか言ってたよな、適当ばっか言ってるとホント信用なくなるからな?」
「ほっほっほ! 道化師! それこそ道化師のあるべき姿なのでは???」
「あんたいつから道化師名乗ってたんだよ初耳だよっ!?」
全部のことを言葉にする必要があるんですか? なんて言いつつ、盛大に打楽器を打ち鳴らし強引に話を打ち切ろうとするブレメン。
いつものことながら突然の爆音には心の準備が間に合わず、飛び跳ねかける心臓を必死に押さえつけることになるのはジーンだけではなかった。
とばっちりを喰らうリーンは恨めしそうにブレメンを睨みつけるのであった。
師弟ともに耳を塞いでいる間にと、ご機嫌な足取りで逃げていくブレメンを見届けた後。
改めてリーンの持つキューブへと意識が向く。また、その際に自身の受けた依頼のことを思い出す。
「あっ!? 俺ってもしかして依頼失敗しちゃった?」
実際には討伐目標を打ち倒しているのだが、報告もしていないし一体どういった状態となっているのかという疑問。
村のことや、助けを求めてきたグリューンや村の少女のことも。頭が状況を把握したくなってきたせいで次々に心配事が増えていく。
「村は? あの男の子……は師匠が助けてくれたんだよな? えっと、グリューン、俺のことを乗せてくれてたチュンなんだけどさ、そいつと、俺を呼びに来た女の子とか……!」
「まぁ、落ち着いて。一つずつ不安を消していこうか」
ジーンの混乱する頭でも分かるように。
不安という言葉を使うことで感情を客観的に見させて、かつその不安が消えるようにと説明をしていく。
「最初に。皆は無事さ。初期段階での犠牲者以上に被害が広がることはなかった。君の言うチュンも、女の子も無事だよ」
「そ、そっかぁ……」
安堵の籠った呼吸を大きく。
それだけで雲の一つでも動かしてしまえるくらいに、大きく。
そんな間にもリーンが指で弄るキューブの正体は、あの時リーンが駆けつけた状況が保存されたもの。
食料などを出し入れしている収納の魔法に近い方法でそれを成していた。
別空間へと対象を隔離。内部の時間を限りなく引き伸ばし、一日が過ぎても中では一秒にもならないという超常現象。
魔法とはいつでも人知を超えた現象を意図的に引き起こす、いわば夢に描いた絵空事を現実のものにする力。こうしたい、を実現させる力こそが魔法の神髄。
誰にでも扱える力ではないが、誰にでも扱える可能性のある力。
どうして、そんな力が人に与えられているのか。何故、この世界には魔法という力が存在しているのか。
いつか、世界の真実に辿り着く者が現れるまでは。
このまま、当たり前のものとして繋いでいくことになるのだろう。
「依頼は引き続き君の担当になっている。討伐の証拠を出せばすぐにでも依頼は達成したとみなされるだろうさ」
「で、でもトントン以上に危険なやつとか、俺には倒せなかったけど……」
「それはそれ。指定されていた内容が誤りであった、なんて事例は山ほどある。今回みたいに予想外の被害が出てしまうことだってね」
君だからとか。特例であるとか。
そういったことは一切なく、ギルドの仕組み上では当たり前の流れであるとリーンは説明をしていく。
「あの村がどんな状況にあったのかは既に伝えてあるから。君がしばらく報告できないってことも、ね」
「……そのつまんでるやつか」
「そう。君は、あの時の君を超えたという分かりやすい物差しを手に入れたわけだ。次の目標は過去の自分を超えること。具体的な目標ができて良かったね」
「喜んでいいのか微妙な感じなのメッチャ困る」
「あ、ちなみに最終期限は二十日後。ダラダラとやってて一年後とか洒落にもならないからね」
「師匠の魔力も持たないしな。維持するだけでもかなり消耗するんだろ?」
「いや? やろうと思えば死ぬまでできるけど。なんなら死んだ後も遺せるけど?」
「人じゃねーなバケモンかよ。てか二十日とか短すぎね?」
「ハハハ。頑張りたまえよ」
より知識を持つ者がその場にいれば、彼がどれほどまでに規格外のことをやっているのかを正確に把握できていたはずであるのだが、生憎とそんな者はいなかった。
もっとも、たとえそんな人物がいたとしても温度差が広がる一方であったことだろうが。
そして、その日は休養日とし自身の身体の調子を確かめることとなるジーン。
明日からの二十日間に馳せるのは、雨が降らなきゃいいなぁという思いと。
やってやるぞというやる気。本当にできるのかという不安。
単純明快な感情がぐちゃぐちゃに混じり合い、複雑怪奇に絡まる緊張の糸をより強く張っていく。
遠足の前日。そんな風にも言い換えることができるのかもしれない。
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寒い。
夢現なままでもそう感じてしまうほど冷え込んだ朝。
季節的な視点で考えれば、もうそんな時期かと。そう思ってしまうくらいには少し早い気温の変化。
魔法を扱う一流の者であれば、年中を通して自身が快適に思う環境で身を包むことができるのだが。未だその域に届いていないジーンでは、陽の光で空気が温まる前のひやりと肌をつつく感覚を味わうこととなっていた。
『…………』
誰かの声。
耳に届いた音ではなく、頭に。感覚的には心に流れ込んでくる感情の音。
普段のジーンであればそんな異常事態に対し、すぐに頭を覚醒させ対処をしているはずであるのだが。
疲れのせいか、警戒に至る前に無意識に問題無いと身体がそう思い込んでしまう。
寒さを忘れ去り、心地の良い環境に目を覚まそうという気が落ち込んでいく。
陽が昇るにはまだ少し早い時間に起きたのは、誰かが仕組んだのか偶然の出来事か。
『不思議なものだな……これが、縁というやつなのか』
遠く。再び眠りのせいで意識が薄れていく。
それが最初の出会い。ジーンが知らない一幕。彼女だけが知る、彼女だけの記憶。
いつだってそう。ジーンの知らないところでジーンのための何かが進んでいく。
その先にある、どんな結果を望んでのことなのか。
誰がどんな結果を望んだのか。
初めは小さな繋がりだったのかもしれない。でも、それがいつの間にか大きな。
それこそ世界を巻き込んでしまうくらいに大きなものになってしまって。
何かの始まりなんて驚くほどつまらないモノであるのだ。
どんなに小さな願いであっても、それがどこまで成長するのかなんて本人にも分からないものなのだ。
偶然合わさった要素が限りなく大きなエネルギーを生み出すなんて、よくある話。
一つ一つは小さくても、合わせればどこまでも膨らみ続けるのは当然であり。
果てにいる、何かを成す存在が偶然彼であったというだけ。
なんて考えれば、こんなにもありふれた話も奇跡の一頁のように思えてこないだろうか。
ありえたかもしれない終着点を目指す、自覚のない長すぎる旅。
それがジーンの背負ったものの正体。
物事が上手く進み過ぎている? 当たり前だろう、これはそういう世界なのだから。
『成功するはずの世界』なのだから。
初めから全て仕組まれた物語。失敗など許されるはずがないのだ。
決められた通過点に近づく度に大きくなる違和感。
それこそこの世界の根幹。強制力の正体。
もっとも、この観測されている物語が『成功する世界』なのかは最後まで観測しないことには判断できないが。
終着点へと至れる物語なのか。
物語を終わらせないための、いわば繋げるためだけに存在する物語なのか。
はたまた、ゴミカス同然の意味の無い記憶に残す価値すら無い物語なのか。
果たして。
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どこまでも続く雲は何処へと流れるのか。
朝、違和感しかない目覚めを経験したジーンは空を見上げていた。
習慣となっている準備運動をしながらその正体が何なのかを考えるものの、一向にこれだというモノを見つけることができず。
「おはよ~」
「ほっほっほ! 今日も一日頑張りましょう!」
内心その明るさに救われていることを自覚しつつも素っ気の無い態度を貫くのは、お礼の言葉など望んでいないのを知っているから。
呼吸と同じ。
酸素を吸って二酸化炭素を~……という仕組みと同じ。ブレメンの本質を理解しているもとい理解させられたからこそであった。
「あれ、今日の当番って師匠じゃなかったっけ」
「あの方も酷いことをしますよね。私が食料をちょろまかしていることを知ってて、いざという時に脅しの材料として使うんですから」
「いやそれはアンタが全面的に悪いと思う。てか食料盗ってたとか初耳なんだけど」
「ほっほっほ! 今日も一日頑張りましょう!」
「振り出しに戻る、と」
与えられたテキストを使い切ったNPCのような反応はブレメンの癖。
誤魔化しが下手くそとも言える。
そんな態度にブレメンとの会話に興味を失ったジーンは、一人静かになれる場所へと向かいだす。朝食まで魔法の訓練をするためであった。
最早前線基地のようになっている拠点の隅っこ。
一本街道が伸びていて更には野原を見渡せる、景色の良いこの場所がジーンの一番のお気に入り。
「火と、風と」
複数の属性を同時に。
「混ぜて、混ぜて……混ぜれっての! ムズ過ぎだろこれっ」
「違う、そこはこうすると良いんだ」
「……おぉ。なるほど」
属性を組み合わせることでより複雑な効果を持った魔法を扱えるようになる。細かい指定や微調整が可能になるわけだ。
メッチャ熱い水つまりはお湯を作ったり。一直線に伸びるだけであったものを左右に曲げたり、単純に威力を上乗せしたり。
複数の属性を同時に扱う訓練は、魔力の制御が上手くなるというメリットもある。
無駄に消費していた魔力を抑える効果もあるし、魔法を発動するまでの隙を小さくすることもできるのだ。
ただ、それなりに技術が必要になってくるため長い間苦しんでいたのだ。が、それはすぐにでも解決しそうになる。
「……感覚を掴むのが最優先。あの人に教わらなかった?」
「口でしか説明しないんだよ、いっつも」
「…………苦労してるのね」
「そう、なんだよ……?」
誰。
初めて聞く声。初めて見る姿。初めて触れる手。
受け入れていいはずのない状況に身を任せていたという事実に身体の機能が全て止まる。
一言で言ってしまえば、驚き過ぎたわけだ。
後ろから抱かれているようなこの状況。
触れる手から循環する魔力は自身の課題であった技術の習得をサポートするためであるのだろうという何故か冷静に分析することになった脳に処理能力の全てを持っていかれているため次どうするべきかということにまでは考えが回らない。
「あぁ、君達ってばもう仲良くなったのか」
「あ、え……? 師匠……?」
後ろから聞こえる声はリーンのもの。振り向きたくともそうできない状況がよりパニックを加速させていく。
「…………教えてただけ」
「おや、あの出来の悪かった弟子の成長を見られて嬉しいよ。できれば自力で習得して欲しかったんだけどね、うん」
「し、しししし師匠この人は?」
「うん? あれ、まだ聞いてないのかい?」
「…………仮契約が先」
「そ、そういうものなんだね……」
事情聴取。
曰く彼女は、短期間でドンドンを倒せるにまで成長するための秘密兵器なのだとか。
新しい師匠なのかと思えばそれもまた違うらしく。師としてではなく共に戦う者であるとリーンは語る。
実際に戦闘をするのはジーンだけであるのだが、彼女はそのお手伝いをしてくれるとのこと。
「…………そういうことだ」
「あっ、よろしくお願いします」
少々、理解しきれていない部分があるもののいつまでも話をしているだけにはいかない。
無理やりにでも事を進めていく必要があると、面倒な説明を省きたいリーンがせっせと動き出す。
「あの、さっき契約がどうとか言ってましたけど……」
「……私は精霊だからな。共に戦うためには契約が必要なのだ」
「せ、精霊……? 絵本とかに出てくるあの精霊ですか?」
「…………君の言う絵本がどんなものかは知らない。だから分からないとしか言えない」
人助けをした。悪事を働いた。
本に出てくる主人公となる人物によって内容は異なるものの、不思議な力を使って何かを成したというのが共通点。そして精霊という存在の手を借りていたという点も、どの物語にも共通していた。
もしそれが事実を基にした話であるのなら、精霊の力を借りるために精霊と契約をした人物が過去にもいたということ。
あぁ、なるほど。と、ジーンとしても幾分かイメージも湧いてくるというものであった。
「早速だけど契約の方を、といきたいんだけど」
「…………制約は二つ」
雲の流れは思いの外に速かったらしい。
ポツ、そう肌が濡れるのを感じた時には既に雨が地面を濡らし始めていた。
暫くすれば通り過ぎていく雰囲気ではなく、長く続きそうな。
ジーンが感じた予感通り、それからの日々は陽の光りを強く浴びることはできなかった。
「契約破棄と同時に契約中及び前後の記憶を破棄すること。力を行使する際にはお互いに触れている必要があるということ」
「結構、微妙な感じんですね」
「……一時的な契約であれ、本来の手順とは異なる方法での契約なのだ。リスクらしいリスクがないのはそこの男のおかげでもある」
「ハハハ、褒めてくれてもいいんだぞ?」
記憶の破棄はリスクではないのか。ツッコんでいいのか迷った末に自身に関わることだからと、後悔の無いようにリーンへと問いただす。
「リスクではなく必要条件。この制約のおかげで面倒な他のペナルティを回避できていると言っても過言ではないのさ。失うのは記憶だけで、学んだ技術や経験は確かに君のモノになるから安心するといい」
精霊に関しての記憶だけが破棄されるとのこと。
笑い合った記憶や交わした言葉だけがなかったことになると、リーンが説明をしていく。
何だかんだ言って説明をしてくれるのは彼の優しさか。
最初から全部言ってくれればいいのに、と思ってしまうのは自身の甘えなのだろうとしているジーンである。
だからこそ、気になったことは聞いておかないとと気を張る必要があるのだ。『聞かれなかったからね』と言われてしまえば、納得していなかろうが終わりなのだから。
「もう気は済んだかな」
「……では、始めていこう」
本来の手順ではない方法での契約。仮契約と表現していたのはそのせい。
「ジーンの名をここに」
「……フチカの名をここに」
互いの名を刻み合う。魔力での刻印は痕にならず、体内に吸い込まれるようにして印が消えていく。
二人を中心に渦巻く魔力。量ではなく質。
より濃い魔力へと変換され外へと放出されていく。
雨に濡れることを気にする余裕もない。意識が持っていかれそうになるのをひたすらに耐えるしかなく、フチカの手がなければとっくに倒れていたであろうジーン。
強制的に魔力が放出されていく慣れない感覚。意図的にやろうとしても一筋縄ではいかない魔力の放出は、空になるまで続けるのは人の手を借りても難しく。
勝手に力が入るのに意識して力を入れることができず。息を入れることも許されず、時間が経つほどに辛さが増していく地獄。
仮契約であるからなのか。
全てのペナルティを打ち消すことはできなかったという言葉は聞いていた。
契約時に酷く疲労するとも聞いていた。
だがしかし。
「思ってたのと違うんだよなぁ師匠……!」
「ハハハ、君の想像力が欠けていただけではないのかな」
無事に契約は終了し、怒り根性のままに抑え切れない感情の行き場はリーン。
説明不足というよりも、あえてフワッとした表現をしていたことに気が付いたからであった。
魔力は空になり。しかし、立っているだけでも足が震えてしまうのは魔力関係無しに力一杯に踏ん張っていたから。
暫くは魔法も使えない。身体強化もままならない。
そんな状態で何ができるのかな? と、余裕綽々にジーンの相手をするリーンである。
「一発殴らせろ」
「いいよ」
抵抗はするけど、という呟きはワザと聞こえるように。
煽る態度は常日頃から欠かさないとんでもねぇ奴、それがリーン。
分かりきっていた。師匠がどんな人物であるのかある程度は理解していた。そのあとで、地に転がって泣きべそをかいている姿を見て笑われる流れも経験していた。
「ハハハ、君も学ばないなぁ。それじゃ当てられないって――」
それでも喧嘩を売ったのは。
「うぎゃあッ!?」
「……いつまで余裕カマしていられるんだろうな!」
絶対的な自信があったから。
自身の実力ではなく、今まさに契約した精霊の力を信じたから。
「やった! ホントにできたっ!」
「…………通じるのは最初の一回だけ。慢心、ダメ」
「あ、えと、うん。そ、そうだよな」
顔面めがけて突き出した拳。
リーンとしては避けたと確信したのだが、次の瞬間には腹部に強い衝撃を感じることとなる。
目に見えていた姿がまるで幻であったかのように、気付いた時にはジーンの突き出す拳の位置が変わっていたのだ。
衝撃自体はリーンにとって大したことないものであったのだが、驚きのあまりに声が出てしまった。というのが一連の流れ。
初めて師匠に一撃を入れられたという事実に喜び、フチカの元へと飛び跳ねるようにしてその感情を共有しようとするジーンでったのだが。まだ二人の心の距離は近づけていないらしい。
はしゃぐジーンに対し、窘めるような態度をとるフチカなのである。
「ハハ、思ったより強力な力なんだね……」
「…………期待に添えられたようでなによりだ」
「いやさぁ、でもさ。ほら、いきなり制約無視しちゃってるけど、なんで?」
力を行使する際には触れている必要がある。というのが制約の一つであったはずなのに今、フチカの力が使われた時にはジーンもフチカも離れていた。
何故か。
「…………ほら、これだ」
「魔力が続いている……ってこれ反則にならないのかな」
「…………反則もなにもできているのだから気にするだけ無駄だろう。もっとも、これも制限があるみたいだがな」
ジーンとフチカの間に伸びるのは魔力の糸。
それが二人を繋ぎ、触れている判定となったと説明をするフチカ。
加えて、少しずつ後ろへと下がっていき。
「あ、切れた」
「…………二メートルといったところか」
制約の隙を突けるにも限界はあるということ。
本来ならば互いを魔力の糸で繋ぐなんて方法、技術的にも難しいことなのだが。
そこは流石精霊と言うべきなのか。それともフチカ個人の力量を褒めるべきなのか。
リーンとしては後者の説を推しているようであった。
ジーンだけではなくフチカの魔力も空になったのでは? という、次の質問。
それについては簡単であり、空気中の魔力を自身の魔力として使ったというだけ。
その話を聞いたジーンはそんなことが可能なのかと驚愕することになるのだが、リーンにとっては当たり前の技術であるらしく。
「咄嗟のことで失念していたよ、ハハハ」
なんて笑うその内心、グツグツと思いを煮えたぎらせていたリーン。初手でしてやられてしまったのが相当に悔しかったらしい。
次は無いぞと、警戒心をより高めての手合わせになるのはジーンにとっての幸か不幸か。
どちらにせよ、質の良い日々を遅れることに間違いはない。
天気は雨。
気分の下がりそうな陽の当たりではあるが、彼らの心まで陰ることはないらしい。