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4.東京 ‐ 1890年 ‐

 甲板に並び立つカラスとマリーを横目に、アンソニーは椅子に腰かけた。目の前では、公爵が煙管キセルを吸っている。火皿は銀で、その先は濃紺に銀の唐草模様になっている。アンソニーも煙管を取りだし、火を点けた。煙がゆらゆらと立ち上がる。出航時には夏の名残をみせていた空も、高く澄みきって、すっかり秋らしくなっていた。


「もうすぐだね」

「ええ。台風に遭わなくてよかった。明後日には横浜港に着けるでしょう」

「カラスはこの旅行のことも、トワさんへの手紙に書くのかね」

「最初に送る手紙には、書かないと言っていました。結局、五年間書き溜めた手紙も破棄するそうで……マリーと結婚したから、文面を書き直したいと」

「五年前に手紙を預かったときは驚いたが……私たちもああすれば、アリーとミカに言葉を遺せたのかもしれないね。住所を聞いておけばよかったな」

「そうですね……カラスに尋ねられました。僕やあなた、それにミカとアリーの話を、いつか手紙に書いてもいいかと」

「なんと答えたんだ?」

「きみにまかせる、と。あれから10年ですからね。ミカたちに何か伝えたいかと聞かれたら……伝えたい気持ちはありますが、じゃあ何を、となると自分でもよく分からなくて。だって……彼女たちはもう彼女たちの暮らしを送っているでしょうし……19世紀のことなんて……忘れているかもしれないでしょう?」

「……そうだね。カラスはなんと?」

「彼も迷っていました。迷って……最初の手紙には、書かないことにすると。七カ月が過ぎて、トワも少し落ち着いた頃だろうから……ミカとアリーの存在を伝えて、大学の友人や勉強より、彼らを探すことに夢中になってしまわないようにと。自分の生活を楽しんでほしいと言っていました。それにミカたちも五年経っているのだから、もう自分たちの生活があるだろうと。トワが訪ねることで、迷惑にならないかと気にしていて。だから幾らかの時間をおいて、二通目か三通目の手紙で伝えるつもりみたいです」

「そうか……でもトワさんが、アリーとミカに出会えたら面白いだろうね」

「そのときは、なにか伝えたいことはありますか?」

「そうだな…………きみの言うとおり、いざとなると……難しいものだね。でも何か伝えられるかもしれないと、そう思うのは悪くない」

「ええ……僕もですよ。もう忘れられてるかもしれないけど…………それでも、カラスとトワを通じてミカたちに想いを伝えられるのなら……ちょっといいなと思ってるんです」


 潮風が吹き、マリーは白い帽子を手でおさえた。ひらひらと舞う青いリボンに、カラスの指先が戯れている。アンソニーの視線に気づくと、彼は笑いながら片手を上げた。



 横浜港に着いたのは、11月中旬の金曜日だった。公使館が手配した案内人が、波止場で四人を出迎えてくれた。アンソニーと公爵は横浜で所用があるという。カラスとマリーはひと足先に東京にむかい、午後に落ち合うことになった。

 案内人と四人分の荷物を積み上げ、二台の人力車が横浜停車場へむかった。アンソニーと公爵は別の人力車に乗り、居留地のグランドホテルを目指した。


 グランドホテルのロビーには、ひとりの男が立っていた。西洋人の二人連れを目に留めて、男は足早に近づいた。洋装姿のつり目の男は、アンソニーたちの前でお辞儀をした。

「町田と申します」

 彼の手配は、秀人を通じてグランドホテルが行なった。依頼人の名はアンソニーだ。警戒されるかもしれないと、公爵の名は出さなかった。行先を尋ねられ、アンソニーはひと言告げた。


「きみの家に行きたい」




 居留地からそう遠くない、平屋造りの長屋だった。町田が引き戸を開けると、美賀子が火鉢のそばで繕い物をしていた。夫に続く、ふたりの西洋人の姿を目にして、彼女はぴたりと手を止めた。驚きに見開かれた瞳は、男たちの足元に沈んでいった。再び顔を上げたとき、彼女は毅然と前を見据えていた。町田に軽くうなずいて、美賀子は立ち上がり、土間のそばの台所で茶の支度をはじめた。

 アンソニーと公爵は、火鉢の奥に腰をおろした。町田も引き戸のそばに腰かけて、美賀子が三人に茶を差しだした。引き戸に影がゆれ、子どもの声が聞こえてきた。引き戸が勢いよく開き、男子が部屋に飛びこんできた。


「かあさま!」

「だめよ! お客様です。外に行ってらっしゃい‼」

「きみ、こっちへおいで」


 穏やかな声で呼びかけられ、男子は戸惑うように客人をながめた。男子はそっと母親と父親に目をやった。母親は首を横にふり、父親はわずかに縦にふった。男子はにっこりと笑って、公爵の傍らに立った。


「名はなんという?」

友芳ともよし! 父さまと同じ名前なんです」

「ふむ、年はいくつだ?」

「今年で10歳になります」

「そうかそうか。人見知りもせぬ。聡くて良い子だ」

 町田が公爵の言葉を伝えると、友芳は嬉しそうに頭を下げた。

「友芳、父さんたちはお客様と話があるからね。少し外に出ておいで」

「はい、父さま、母さま。お客様、失礼します」


 公爵たちに礼をして、友芳は通りのむこうに駆けだした。


「よいご子息をお持ちでいらっしゃる」

「……はい。腕白ですが、素直なよい子です」

「あなたに似たのかな。それとも、父親でしょうか」


 美賀子の瞳は澄んでいた。屋根に隠れて見えない秋空のように澄んでいた。その下で、紅色の唇がふっと上がった。


「どちらにも似ている気がします。腕白な気性はあたしゆずり、素直で優しい気性は父親ゆずりなのでしょう」

「……あの子は、素直で優しかったですか?」

「はい、とても」

 白い額を畳にすりつけ、美賀子は深く頭を下げた。

「…………どうかご容赦を」

 座礼する女を、公爵はただ眺めていた。

「……おれからも頼みます。友芳を手元に置くことをお赦しください」


 美賀子と並んで、町田も静かに頭を下げた。

 アンソニーの方眉が跳ねあがった。

 その隣で、公爵が彼らにむかい、黙って頭を下げたのだ。


「お顔をお上げください!」

 美賀子の高い声にも動じず、公爵は同じ姿勢をとっていた。

「……感謝しているのです」


 狭い部屋に、低い管楽器のような声が響いた。


「あなたは息子を愛し、その子どもを産み育ててくれました。この憧れの国で、息子は友人と愛する女性と出会うことができた…………よかったと思っています。あの子はこの国を訪れることができて幸せでした。短い人生でも……きっと幸せでした。あの子と仲良くしてくれて、ありがとう」


 静かな嗚咽が、美賀子のものか、町田のものかは分からなかった。もしかしたら、公爵自身のものだったのかもしれない。アンソニーは三人から目をそらし、ひっそりとハンカチを取りだした。


「最初は会わないつもりでした。しかしいざ出航の日が近づくと……どうしても息子の忘れ形見と、あの子が愛した女性を見てみたいという……誘惑に勝てませんでした。私こそお赦しいただきたい。もう二度と会いません。美賀子さん、町田さん。どうか私の孫を……マイケルの息子をよろしくお願いします」


 部屋の奥の障子から陽が差しこんでいる。淡い光が三人の背中を染め、アンソニーは眩しそうにまばたきした。




 横浜停車場に案内して、町田はふたりに頭を下げた。ホームでは機関車が白い煙を吐きだしている。母国を思わせる光景と、耳慣れないカラカラと鳴る下駄の音に、アンソニーは笑みをこぼした。公爵のあとに足を踏みだし、ふいにアンソニーは背後を振りかえった。


「ドイツ語を学ばせるといいよ」

「はい?」

「友芳くんの子が生まれたら……つまりあなたの孫だね。ドイツ語を学ばせたほうがいい。まあ……ただの異国人の戯言だけど」


 にやりと笑い、アンソニーは列車に乗りこんだ。




「ドイツ語の話までしてよかったのか?」

「美賀子さんの孫娘がドイツ語に堪能なのは、きっと僕が伝えたからですよ」

「……ややこしい話だね」

 流れる景色を目で追って、公爵は唇を上げた。

「アリーとミカは……どうして一年ずれてやって来たのだろう」

「そうですね……すべてマイケルの計算づくだったとか?」

「そうか。てっきり間違えてしまったのかと」

「マイケルに怒られますよ」

「ははっ…………怒られたいものだ」

「…………きっとよかったんですよ。一年ずれたから、あなたはアリーを息子にできた。ミカとアリーが同時に来てたら、ふたりで協力して、さっさと元の時代に帰ってたかもしれません」

「そうだね……おかげで息子が三人も出来てしまった」


 遠くに田園を眺めながら、公爵は嬉しそうに両手を握りしめた。



 横浜停車場は木造の二階建てだ。外壁は石張りで西洋風の駅舎だった。大岡川に架かる弁天橋をわたり、人力車は停車場の広場で停まった。マリーは目をかがやかせ、首を上へ横へとのばしている。カラスは彼女の手を握り、目の前の景色に見入っていた。着物姿の女たちや洋装姿の男たちが、彼のそばを通りすぎていく。耳に届く彼らの声は、古めかしいが、カラスのよく知る言葉だった。広場の左手には、幾つもの人力車が停車している。中央の給水塔には、車夫や子どもたちが集まっている。ホームでは黒い機関車が煙を上げている。


(……俺はいま、横浜にいるのか)


 カラスは声もなく、一世紀以上前の日本の景色を眺めていた。


 案内人と列車に荷物を積み、三人は東京の新橋停車場にむかった。案内人は公爵たちと合流するため駅舎に残り、カラスはマリーと人力車に乗りこんだ。待ち合わせ場所は芝公園である。

 増上寺ぞうじょうじを左手に進み、カラスは料亭のそばで足を止めた。この会員制料亭・紅葉館こうようかんの跡地に、東京タワーが建設されるのだ。


「待ち合わせは13時だよね。なかで待つ?」

「うん……もう少しここにいてもいい? 寒い?」


 マリーは首をふり、つないだ手を握りしめた。公爵たちと合流して、この紅葉館で昼食をとる予定だった。カラスは木陰に座りこみ、料亭の玄関をながめた。立派な身なりの男たちがたむろして、ときには人力車や馬車が停車して、男たちが玄関の先に消えていく。

 料亭の背後には青空がひろがっている。カラスはぐっと首を上げた。


(……あと70年後にはもう、ここに東京タワーが建ってるのか)


 しかしその景色を、カラスは永遠に見ることがない。首が痛くなるほど見上げても、視界に入るのは青空だけだった。そこに在るはずのものを探すかのように、カラスは空を見上げつづけた。ふいにマリーが彼の背後にまわりこんだ。


「マリー?」


 まぶたに温かな感触がふれ、

 目の前を暗闇がおおった。


「ねえ、カラス」

「うん?」

「ここに東京タワーが建つんでしょう?」

「……うん」

「教えて。どんなタワーなの?」

「……そうだな。昨年、パリにエッフェル塔が出来ただろう? 形はあれに似てて……でもこっちのがもう少し高い」

「すごい。どれぐらい?」


 カラスは指先を、地面から空にむけて一直線にのばした。


「高さは333m。近くから見上げたら、首が痛くなるぐらい空の先まで続いてるんだ」

「すごいねえ」

「色は朱色で、デッキとか部分的に白いとこもある。夜になったらライトアップされて、暗闇のなかに浮かびあがって、遠くからでもよく見えて…………」

「……ねえ、カラス。私とあなたは、いま、東京タワーの前にいるの。お願い、私をタワーのなかに連れていって?」

「……うん。まず一階のチケットカウンターで入場券を買うんだ。マリーは初めてだから、トップデッキまで行こう。地上250mまでエレベーターで上がるんだ。デッキは円形で窓ガラスが連なってて、東京都心が一望できるよ」

「カラスの家は? 見える?」

「うーん、どうだろ。見えても豆粒みたいで分かんないと思う」

「豆粒かあ……かわいい。それから?」

「それから……メインデッキに下りて、ゆっくり見てまわる。ガラスの床もあるんだ。俺はちょっとクラクラするけど」

「見たい見たい!」

「うん、マリーは好きそう。その後はせっかくだし、土産物をぶらぶら見る、かな」

「それから? そのあとは?」

「後は……マリー、お腹は空いてる?」

「うん、空いてる!」

「じゃあ昼めしかな。タワーで食べてもいいけど…………あのさ、ファーストフードでもいい?」

「もちろん! お肉を挟んだパンだよね?」

「そう。こっからなら……浜松町の駅にむかう途中にあったかな。そこで俺は、ダブルチーズバーガーとポテトとアイスコーヒーを頼む。サイズはLで。マリーは……チーズバーガーとホットケーキと……バニラのシェイクでもいい?」

「うん! 美味しそう!」

「じゃあ……窓ぎわの席に座って、一緒に食べて……よかったら…………俺のポテトも半分食べる?」

「いいの? それじゃ私のホットケーキも半分あげる。甘いのとしょっぱいのって一緒に食べたら美味しいもんね!」

「…………うん。ありがとう。マリー、苺の……シェイクも美味いよ」

「そっかあ。じゃあ次はそれにしようかな」


 マリーの手の下で、まぶたがじっとりと濡れていた。目の前の光景は、カラスがかつて望んだものだった。五年前の東京で、絶対に叶うことはないと知った未来だった。そんな未来の光景を、いま、明治時代の東京で、カラスは目にしていた。マリーの手の暗闇のなかで、くっきりと浮かんで見えた。21世紀の東京で、手をつないで歩き、並んで座るふたりの姿が。


「それから? それからどうするの、カラス?」


 耳元でマリーが優しくささやいた。


「それから……映画でも観にいこうか? 俺が前、動く写真って言ってたやつ。浜松町から品川にでて。俺の好きなハリウッドでもいいけど、マリーが好きそうな日本の恋愛映画とかでもいいよ」

「じゃあ今日はハリウッドにする。次は私が観たいのでいい?」

「……うん、ありがと。ポッポコーンとドリンクも買おうか。平日の昼間だし、まわりから席はなして賑やかな場面でつまんだら、そんな気にされないと思う。塩味とキャラメル味とバター醤油味、どれがいい?」

「……ぜんぶ食べたい」

「ははっ、じゃあ全部買おっか。俺はアイスコーヒーでマリーはアイスティーでいい? それともコーラにする?」

「しゅわしゅわのやつね! コーラにする!」

「うん。それで見終わったら夕方になって……晩めしは外食でもいいけど、駅前の商店街で弁当でも買っていこうか?」

「そうしよう。私たちの家はどこなの?」

「俺は目黒に住んでるから……そこからそんな遠くないアパートを借りる。都立公園をぬけて、俺たちの家に帰って……テレビを見ながら弁当食って、風呂に入って……寝る」

「一緒に?」

「……うん」

「じゃあ、今とおんなじね」

「…………うん」


 涙があふれて止まらなかった。鼻の奥がじんじんと熱い。


「ね、カラス。独りで思い出さないで。私も一緒に連れていって。カラスの思い出のなかで、私も21世紀を見てまわるから…………ね?」

 カラスは首を縦にふった。声はかすれて出なかった。

「ね、唯一。19世紀でも21世紀でも、一緒にいろんな場所にいこうね」

「…………うん」


 手がはなれ、午後の日差しに景色が溶けていった。


 車輪の音が聞こえ、彼らの脇を通りすぎて止まる。玄関に人力車が停まり、公爵とアンソニーが降りていた。マリーからハンカチを受けとり、カラスは顔をこすった。これから昼食をとって、その後はマイケルの墓参りをして、帝国ホテルで荷ほどきをする。あの老舗のホテルはまだ、数日前に開業したばかりだった。夜は上野の精養軒に行くつもりだ。それから明日は、天気がよければ、王子稲荷神社に参拝しようかと話している。




 見上げれば、空を鴉が飛んでいた。

 澄みきった青のなかを、前へ、前へと。

 この空の果ては英国につながっている。

 朝陽がのぼり、夕陽がしずみ、

 めぐる歳月の彼方は現代の日本につながっている。



 彼女たちが、未来のなかでこの過去を思い出すのなら、

 俺は、過去のなかで未来を思い出しながら生きていく。



 カラスは目を閉じた。

 料亭は東京タワーに姿を変えて、男たちはスーツを着こなし、散策路を制服姿のカップルが歩き、木立の奥にビル群がそびえ立ち、車のクラクションが鳴り、スマホの着信音が聞こえる。


 カラスは目を開けた。

 玄関に公爵とアンソニーが並んで、そばを羽織り姿の男が通りすぎ、洋装姿の女学生がふたりで歩き、木立の先には青空が、背後から人力車の車輪の音と、車夫の息づかいが聞こえる。



 義父が笑って、アンソニーが手を振っている。

 俺はマリーと手をつなぎ、足を一歩ふみだした。

◆活動報告◆

あとがきのようなものを活動報告に書きました。ミカとアリトの五年間についても、後半に(プロット形式ですが)載せています。

https://mypage.syosetu.com/mypageblog/view/userid/2158306/blogkey/3007055/


◆トワの物語◆

来年末(2023年12月)か再来年初め(2024年春)になりそうですが、トワが主人公の長編を構想中です。ミカとアリトも登場するかもしれません。ちょっと先のお話ですが、いつかまた、トワの活躍をご覧いただけましたら幸甚です(^^)


皆さま、エピローグまでご覧いただき本当にありがとうございます!嬉しいです。どうか穏やかな梅雨とたのしい夏をお迎えください。

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