3.英国 ‐1885 ~ 1888年‐
馬車は木立のなかをぬけ、屋敷の正面玄関に停まった。石造りのアーチから三階の屋根までを見上げ、カラスはため息をついた。
(なんだこれ……学校かホテルじゃないのか?)
クリブデン公爵家の領地は広大だった。敷地の門を通ったあとも、さらに10分ほど馬車は走った。七月の初旬にマリーがラムゼイの館に移り、数週間後には、カラスもまたアシュリー邸をはなれ、クリブデン公爵家の養子となった。バッキンガムシャーに向かう馬車には、アンソニーも同乗した。久しぶりに公爵家を訪れるのだという。
◆1885年・七月◆
公爵家に移って数日後のことだった。その日の晩餐は、いつもと違い来客がいた。サザランド夫人。公爵の弟の妻、つまり義妹だそうだ。
「……ミスター・サザランド。もうお屋敷は慣れたかしら?」
「いや、大きすぎてびっくりしてます。アンソニーの館も大きかったけど、それ以上で……」
「僕の館はロンドンだからね。こちらは公爵家の本邸だから勝手もだいぶ違うだろう」
「いやほんと、屋敷のなかで迷子になりそう……」
軽やかな笑い声が響きわたった。サザランド夫人は声の主を見て、懐かしそうに目を細めたが、すぐに澄ました笑みを公爵にむけた。
「それでお義兄様、今度は彼を跡取りに……」
言葉はそれ以上続かなかった。一人のフットマンのせいだった。この春、五年間勤めたフットマンが、別の屋敷で執事に抜擢されて辞職したらしい。そして新たに雇われたのが、彼、トーマスだという。トーマスはいい奴だ。カラスが頼み事をすれば、嫌な顔ひとつせず引き受けてくれる。くれるのだが…………トーマスはうっかり者だった。それもかなりの。彼が給仕する銀の大皿にはポテトがのっていた。そのとき、サザランド夫人は公爵の顔をじっと見つめていた。彼はテーブルに並んだワインに目を引かれていた。今晩、自分もおこぼれに与れるかもしれないと思ったのかもしれない。サザランド夫人は肘を突きだした。もっとよく公爵を見ようとしたのかも。肘はトーマスの腕を直撃し、大皿は傾いて、トーマスが慌てて目を戻したときには…………熱々のバターまみれのポテトが、すでに宙を舞っていた。
「っっっ⁈⁈⁈」
声にならない声を上げ、サザランド夫人が立ち上がった。不運だったのは、その拍子にポテトはドレスの胸元を滑り落ち、さらに奥に潜りこんだことだった。慌てたトーマスの手から大皿がはなれ、鈍い音が立ち、残りのポテトも夫人のドレスに着地した。
サザランド夫人はきっとトーマスを睨みつけ、胸元を押さえながら、そそくさと晩餐室をあとにした。扉が大きな音を鳴らした。トーマスはおろおろと周囲を見まわし、意を決したように夫人のあとを追いかけた。公爵の眉がぴくぴくと動いていた。必死で笑いを堪えているらしい。アンソニーは呆れた顔を公爵にむけ、チラチラと扉を見ながら、追おうか追うまいか迷っている様子だった。カラスはナイフとフォークを置き、席を立って扉にむかった。
彼女はすぐに見つかった。小階段の陰の椅子に座り、真っ赤な顔を扇であおいでいた。
「あの」
「なに?」
「氷は誰か用意してますか」
「あのフットマンに取りに行かせたわよ」
「よかった。ポテト熱いですもんね。ぜんぶ取れました?」
「取ったわよ」
「火傷とか大丈夫ですか」
「まあ少し……ひりひりするけれど」
「薬を取ってきます。ここで待っててください」
「薬?」
「はい。手持ちのがありますから。あ、怪しいやつとかじゃないんで。これでも一応、医師を目指してるんです」
「医師? 公爵家の跡取り息子が?」
「え……跡取り息子はあなたのご子息のジョージさんですよね? そう公爵が言ってましたけど」
「…………そうなの?」
サザランド夫人は目を丸くして、疑うようにカラスを見上げた。彼は笑ってうなずいて、小階段を駆け上がった。彼の部屋は三階の北棟にある。以前は、アリーという養子の部屋だったらしい。金色を基調とする室内装飾は、アリーの瞳を模したものだという。公爵から内装は好きに変えてほしいと言われたが、彼はこのままがいいと答えた。特にこだわりはなかったし、金色にかがやく夜の室内は幻想的で、わりと気に入ったからだ。カラスの答えを聞くと、公爵は嬉しそうに目尻にしわを寄せた。アリーは上海に戻ったというが、きっと今でも大切に思っているのだろう。
カラスは薬を取りだして、再び階下におりた。
「まだあまり召し上がってませんよね。薬を塗ったら、また食事に戻りましょう」
「いらないわ。あまり食欲がないし。いつも沢山は食べないから」
カラスは視線を下げて、夫人の細い腰を見つめた。
「コルセット……もう少し緩めたほうが」
「なんですって?」
「コルセットで締めつけすぎると、内臓や胸郭が圧迫されたり変形したりするんです。いつも食欲がないんですか?」
「ええ」
「だったら内臓が圧迫されてるせいかも。緩めたほうがいいです」
「いやよ。体型が崩れるなんて絶対にごめんだわ」
「ぜんぜん崩れてなくてきれいですけど……」
きょとんと首を傾げるカラスに、サザランド夫人は押し黙った。
「健康によくないと美容にもよくないと思います。体型のためならコルセットじゃなくて、ストレッチや筋トレはどうですか?」
「……ストレッチ? 筋トレ?」
翌朝、アンソニーと公爵が、ホールをこっそりのぞき見ていた。
「あれは……なにをしているのだろうか」
「ネコのポーズと言ってましたよ」
「……?」
「インド帝国のヨガですよ。ミカが美容にいいって言ってた」
「…………」
「…………」
「…………21世紀の日本人だろう?」
「…………21世紀の日本人ですよ」
ホールでは、ヨガマット代わりにアクスミンスター製の絨毯が敷かれ、カラスとサザランド夫人が並んで四つ這いになり、ぐーーーっと伸びをしていた。
◆その少し前◆
七月の下旬、アシュリー邸をはなれる数日前に、サラが館を訪ねてきた。
そのひと月前、カラスが寝こんでいた六月の初旬にはもう、庭師頭の引継ぎのため、アルフレッドが館に滞在するようになっていた。
「じゃあ、秋になったら結婚するんだ」
「まあね。まだ予定だけどさ。庭師頭のガイさんが、小屋を半分譲ってくれるって言うんだ。ジョニーも一緒にって」
「おめでとう! ほんと……よかった」
「まだ決まったわけじゃないよ」
白い頬を薔薇色に染め、サラはふいと顔をそむけた。サラたちがホワイトチャペルを離れると聞き、カラスは胸を撫でおろした。切り裂きジャックの事件が、ずっと気がかりだったのだ。扉が控えめに叩かれて、アリスが顔をのぞかせた。
「カラス、お話し中にごめんなさい。仕立て屋さんが注文品を持ってきて、サイズを確認してほしいって言うんだけど」
「あ、うん。ごめん、サラ」
「いいよ、あたしも庭師小屋をのぞいて帰るから。ああ……そうだ。アシュリー様はいるかい? ちょっと挨拶しておきたいんだけど」
「どうかな、確認して……」
「カラス、大丈夫よ。サラ、わたしが案内します。部屋にいると思うから」
アリスにうなずき、サラは席を立った。
「ありがとう。じゃあね、カラス。あんたなら、どこに行っても大丈夫さ。公爵家の養子だなんてすごいじゃないか。元気で暮らしなよ」
「うん、サラも元気で。結婚式には呼んでくれよ」
はにかんだ笑みをうかべ、サラは彼の手を握りしめた。
サラとアリスを見て、アンソニーはにっこりと笑った。
「めずらしい組み合わせだね」
「お茶をお持ちします」
アリスは軽く微笑んで、部屋をあとにした。
「それで? 僕に挨拶だって? そんな畏まらなくてもいいのに」
軽快に笑う青年を、サラは真剣に見つめていた。
「……もしかしてアルフレッドとの結婚のことかい? 大丈夫だよ。僕もハリエットもきみを歓迎している。母さまは「殿方を操縦するコツを教えてもらおうかしら」なんて呟いて父さまをぎょっとさせたぐらいだ。弟や妹たちは……まあそういう年頃だからね。でもきみの人柄を知れば、すぐに打ち解けるはずだよ」
彼の優しい声音に、サラはそっと首をふった。
「お気遣いありがとうございます。ただ……すみません。こちらに伺ったのは、あたしの話じゃないんです。カラスの養子のことで」
「カラスの?」
「はい。今回の養子の話は、あなたがクリブデン公爵に打診したと聞きました。あなたは公爵のご子息と友人同士だと……そのご子息は亡くなったんですか?」
アンソニーは息をのみ、両手で髪をかき上げた。
「ああ……そうだ。カラスから聞いたのかい?」
「はい、勝手にすみません。あたしが教えてくれって頼んだんです。ほんとうに彼は……ミスター・サザランドは亡くなったんですか?」
「うん……海難事故でね」
「……おかわいそうに」
か細くつぶやいて、サラは一枚の紙片を差しだした。その表面を見るや、アンソニーは顔色を変えた。彼女にうながされ裏面を見ると、さらに驚愕の表情をうかべた。
「……これは」
「五年前、公爵家のミスター・サザランドからいただいた名刺です。屋敷のメイドが世話になったお礼にと。まさか……亡くなっていたなんて……」
「ちょっと待て。これはアリー・サザランドの名刺だろう? きみが会ったのは、黒髪に金の瞳のミスター・サザランドか?」
「そうです」
「屋敷のメイドというのは?」
「黒髪……いや、栗色の髪だったっけ。ミカという少女で……」
「ミカ⁈」
「はい」
「ミカとアリト、いや、アリーに会った⁈」
「はい。K夫人の下宿で」
五年前、ホワイトチャペルで出会った少女の話を、サラは彼に打ち明けた。肘掛けを手で握りしめ、アンソニーは一心に耳を傾けていた。
「……じゃあきみは、あの下宿にミカと泊まって、彼らはあそこを訪れたのか?」
「はい。ミカはあたしの命の恩人です。あれから全然会う機会はなかったけど、カラスの養子先がクリブデン公爵家だって聞いて……ああ元気にしてるかなって……でもまさか亡くなって」
「生きてる。生きてるよ。亡くなった息子はマイケルだ。アリーはカラスと同じ養子で……上海に戻った」
「上海に?」
「ああ……彼は、公爵の弟のウォルドーフが、上海から連れてきた青年だった。公爵家で一年暮らしたけど、英国の風土が体調に合わなくて……上海に戻ったんだ」
「そうでしたか。ミカは?」
「ミカも家族のもとに帰った。彼女は記憶喪失でね。公爵家で働いていたんだが、家族が居場所を突き止めたんだ。今は自分の家で……しあわせに暮らしているはずだよ」
「そうですか……でも……ふたりは惹かれ合ってると思ったのに……離ればなれになったなんて……かわいそうですねえ」
すみれ色の瞳を瞬かせ、アンソニーは驚いた様子でサラを見つめた。アリスが部屋に入り、茶器をテーブルに並べていく。きびきびと動く指先を眺めてから、アンソニーは顔を上げ、彼女に声をかけた。
「アリス。きみも休憩にして座りなよ」
「アンソニー、いえ、アンソニー様。わたしはまだ仕事が……」
「きみの初恋の話を、サラに聞かせて欲しいんだ。公爵家の若様とメイドが、駆け落ちした話をね」
アンソニーは上着から懐中時計を取りだして、裏蓋を開いてみせた。金の縁取りの丸い写真を見て、サラがあっと声を上げた。
「ミスター・サザランドとミカ……」
「と、僕だ。公爵家にはふたりの写真がたくさん残ってる。今度カラスを訪ねたときに、見せてもらうといい」
アンソニーは写真をひと撫でして、アリスに笑顔をむけた。
「きみの話が終わったら、もう一度、サラの話を聞かせてもらおう。イーストエンドで出会った公爵家のメイドの話だよ、アリス」
翡翠色の瞳が見開かれ、じわじわと潤んでいった。
「もしかして……ミカの……」
優しく目を細め、アンソニーは長椅子の端をぽんぽんと叩いた。アリスは銀のトレーを置いて、さっと彼の隣に腰をおろした。
初夏の午後、アシュリー邸の一角で、アリスは鈴のような声で語りはじめた。
◆1888年・六月◆
季節は六月の初旬だった。カラスが公爵家の養子になって二年が過ぎた。キングズ・カレッジに入学してから今日まで、時間は飛ぶように流れていった。クリスマスやイースターの休暇には、バッキンガムシャーの屋敷に帰っていたが、普段の週末は課題をこなすだけで精一杯だった。しかし毎年この週末だけは、カラスは必ずジェームスの館を訪れていた。そう、マリーの誕生日である。
「女性がなにを喜ぶかだと……? そんなこと私のほうが知りたい」
ジェームスは額にしわを寄せ、少年のように口をすぼめた。昨年の五月のことだった。
「マリーもハリエットも、なにを贈っても喜んでくれるのだ……逆になにを贈っていいのか分からぬ」
マリーへの贈り物の相談をしたら、こんな答えが返ってきた。
「アンソニーにも聞いてみた?」
「ああ。あいつは手慣れすぎていて、あまり参考にならん……いや、したくない」
憮然とした男の顔に、カラスは思わず吹きだした。彼も以前、さりげなくアンソニーに尋ねてみたことがある。「そうだねえ……人妻への贈り物なら、ご主人に悟られないように○○で、令嬢に義理で贈るなら○○あたりかな。相性を試してみたいけどそんな深入りする気がない令嬢なら○○で、娼婦に贈るなら……え? やっぱりいいって?」無邪気な顔で小首を傾げられ、カラスは曖昧に笑ってごまかした。
彼女と出会った最初の年は、カラスが火傷で寝こんでいて、誕生日を祝えなかった。二年目は、なにを贈ればいいのか迷いすぎて決められず、結局アルフレッドに教わって花束をつくった。マリーの喜びようはカラスの予想を超えていた。花束はドライフラワーになり、いまも彼女の寝室に飾られている。その経験から三年目は、なにか形に残る物にしようと銀製の手鏡を贈った。そして今年は……マリーと出会ってから四年目、彼女は16歳の誕生日をむかえる。現代では高校生だが、この時代の英国では社交界デビューが目前で、結婚だってできる。節目の歳だからこそ、なにか特別なものを贈りたかった。
五月に入り、カラスは週末毎にリージェント通りを歩きまわった。そしてようやく、リバティで贈り物を選んだのだった。
六月の週末、ジェームスの館を訪ねると、いつものように応接間に通された(ジェームスは絶対に、マリーの部屋で二人きりにさせてくれなかった)。執事と入れ替わるように扉が開き、マリーが飛びつかんばかりに駆けてきた。
「カラス‼」
「誕生日おめでとう、マリー!」
彼女を軽く抱きしめて、カラスは贈り物を差しだした。彼の顔をじっと見つめ、マリーは頬を赤らめて、そっと包みに指をのばした。
「いつも、ありがとう……」
包みの中身を見るや、彼女の頬がさらに染まった。
「すてき……‼」
今年の贈り物は、日本の扇子だった。
骨が鼈甲で出来ていて、扇面には黒い絹が張られている。絹には金糸で花模様が描かれている。黒と金とを基調とする東洋らしいデザインだった。
「もうすぐ社交界デビューだろう? 晩餐会や舞踏会でも使えるかなって」
「使う‼ ぜったい使うね、カラス‼」
扇子を閉じては開き、ひらひらと風をカラスに送り、マリーは嬉しそうに笑みをうかべた。そんな仕草が可愛すぎて、カラスはそっと目をふせた。
「カラス、私ね、16歳になったよ」
「うん。おめでとう、マリー。すごいなあ、出会ったときはまだ12歳だったのに……もうすっかりおとなの……女性……っていうか……」
カラスは視線を上下させて、頬を火照らせてうつむいた。実際、マリーはすっかり大人びて見えた。長い金髪は結い上げられて、頬はほんのりと紅く染まり、唇は紅を塗ったように艶やかで、緑のドレスの裾は優雅な波のようで…………とてもきれいだった。
長椅子に腰かけた彼のほうへ、マリーはぐっと身を乗りだした。
「あのね、カラス……私、16歳なの」
「うん、おめでとう、マリー」
「……16歳なのよ」
長椅子の背に両手がおかれた。椅子の背面とマリーの腕にはさまれて、カラスは閉じこめれる格好になった。
「うん、16歳だね。社交界デビューは今年? 来年?」
「今年。この社交期に女王様に拝謁して、それからデビューする予定なの。ジェームスはそんなに急がずに、来年か再来年でもって言ってたけど……私が今年にしてってお願いしたの」
「そっか。ジェームスの言うとおり、来年でもいいんじゃない?」
ジェームスの気持ちが、カラスには分かる気がした。社交界は貴族たちの思惑が渦巻く劇場である。大事な妹をその舞台に上げる日を、少しでも先延ばししたいのだろう。カラスも同じ気持ちだった。そんな思いを知ってか知らずか、マリーは睨むように見つめてくる。
「……カラス。私、16歳になったのよ」
「……うん」
「…………16歳は、結婚できるのよ」
泣きそうな表情があらわれて、カラスは息をのんだ。マリーは両手で彼の頬を包みこみ、その顔をのぞきこんだ。
「私、早く大人になるって言ったでしょ……なるべく早くデビューして、大人になろうって……大人になってカラスと…………でも……カラスはちがった? けっこん……したいって思ってるのは、私だけだった?」
子どものように真っ赤になって、マリーは睫毛をふせた。両手で華奢な肩をつかんで、カラスは首を力いっぱい左右にふった。
「いや⁈ したいに決まってるだろ‼」
潤んだ瞳で見つめられ、カラスは言葉が止まらなかった。
「したいけど! 16歳はなんていうか……俺は今年で23歳になるし……現代ならサラリーマンと女子高生が結婚って思ったらそれはなしだろってか……」
「へ?」
「だから! その……つまり……マリーの問題じゃなくて俺の倫理観の問題であって……ここは19世紀だけど……俺は現代人だし……一応……」
「へっ?」
「うんまあとにかく‼ 18歳‼ 18歳まで待とうって決めてて‼ 俺のなかで……なんていうか、けじめっていうか。だから……あと二年したら……」
「……結婚、してもいい?」
「いや、結婚してほしい」
カラスは口をつぐんだ。
(…………うん? これって……もしかして……)
花が咲くように、マリーが顔をかがやかせた。
「うんっ‼」
「…………え? いや……俺ちゃんと二年後にプロポーズしようって……どこに連れて行こうかなとか……なんて言ってとか……え……いや待って⁈ ちょ‼ やり直し‼ マリーごめん‼ 聞かなかったことにして⁈ もう一回やり直させてくれ‼」
「だめ。もう聞いたもん。約束ね、カラス」
にっこりと笑われて、カラスは肩を落とした。マリーは可憐な笑い声をたて、彼の耳元にささやいた。
「わかった。忘れる、忘れるから。だいじょうぶよ、カラス。二年後まってるね」
「……うん。それにまあ、社交界デビューしたら、マリーも気に入った奴が見つかるかもしれないし」
「……そんなの、あるわけないのに」
氷点下のまなざしを向けられて、カラスは苦笑いをうかべた。
それは自分のエゴだと分かっていた。社交界でいろんな奴と出会って、自分以外の男との未来も視野に入れてほしい。カラスは折にふれて、マリーにそう言っていた(そして睨まれていた)。その言葉は一見、マリーに選択肢を与えるものだった。しかし本心では、なりゆきで自分と結ばれるのではなく、他の男たちと出会ってもなお、彼女に自分を選んでほしいと願っていたのだ。
今年の贈り物は、日本の扇子だった。
社交界で見知らぬ男たちに囲まれても、手にする扇子を見るたびに、マリーは彼のことを思い出すだろう。そんな身勝手な願いから、カラスはその贈り物を選んだのだった。
「……ごめんね、わがままで」
「いいよ。私もわがままだから」
マリーはふわりと笑って……やわらかな唇が押しあてられた。
彼がだめだと言っても、マリーはいつも口づけをやめない。
彼女は温かな、夏の夕立のようで。
毎年、誕生日のたびに、カラスはその雨を味わうことになるのだ。
■おまけ・1887年■
「あ、じゃあアンソニー、これまで本命の子にはなにを贈ったの?」
「……本命の子?」
「うん。人妻でも義理の令嬢でも深入りする気のない令嬢でも娼婦でもなくて。ほんとに好きな子はいなかったの?」
「……………………イブニングドレス」
「ドレス?」
「いや……あれは姉さまの借り物だったから……結局、僕が彼女に贈ったのは……ラベンダーの軟膏だけか」
「ああ、あの軟膏? へえ、意外だな。アクセサリーとかは?」
「宝飾品は高いから要らないとか言われそうだったし……そもそも軟膏だってタダでは受け取ってもらえなかったし……舞踏会はなんだかんだその後が最悪だったし……」
「ア、アンソニー?」
「……………………髪の毛」
「はっ⁈」
「……僕の髪の毛を贈った。最後の夜」
「えっ⁈ え……そうなんだ。他には?(一緒に寝るような相手だったのか……)」
「…………他……………………キスマーク?」
「はっ⁈ そ……そうなんだ(やっぱりそういう関係だったのか……)」
「…………うん」
「えっと……じゃあ本命の子に贈ったのは、軟膏と髪の毛とキスマーク?」
「…………うん」
アンソニーは遠い目をして、両手で顔を覆ってうなだれた。
カラスは笑顔で見守りながら、心のなかで呟いた。
…………だめだ。やっぱり全然、参考にならないな。
※カラスに真相が伝わるのは、三年後のことでした。