1.東京 ‐20XX年‐
ゴミ袋を二つ、ゴミ置き場に持っていき、ミカは緑の制服を脱いだ。「おつかれさまでーす」交替のバイトに声をかけて、髪をほどいてコンビニをあとにした。大学院の試験も秋で終わり、この冬は多めにシフトを入れた。都立公園をぬけて駅に向かおうとする途中、ひとりの青年が目についた。
青年はベンチに座っていた。プラタナスの並木が影をのばし、梢のあいだから茜色が瞬いている。彼の黒髪も、木製のベンチも夕陽に染まっていた。その青年には見覚えがあった。一昨日コンビニで、ホールのクリスマスケーキを買ってくれた人だった。彼は本を読んでいた。紫の表紙が目立つ、分厚い高価そうな本。ミカはそっと首を傾げた。先日と様子が違い、その端正な顔はあどけなく、涙をこらえた子どものような表情をうかべていた。
(……なんかあったのかな。でも声、かけないほうがいいよね)
横目でうかがいながら、その前を通りすぎると、ひらりと足元に紙片が滑りおちてきた。本に挟んでいた物のようだ。彼が手をのばすより先に、ミカがそれを拾い上げた。新郎と新婦の写真だった。手のひらサイズでセピア色、ずいぶんと年季が入ったものに見えた。まるで……一世紀もの時を超えて、21世紀にやってきたかのような。
「ありがとうございます」
青年は鼻をすすって、写真を受けとった。顔を上げ、ミカを見ると驚いた様子をみせた。
「へへ、一昨日はどうも。お買い上げありがとうございます。ケーキ、食べきれました?」
「はい。うち、わりと甘党だから」
「よかった。あの、これどうぞ」
ミカはハンカチを差しだした。青年は少しの間のあと、会釈して、ハンカチで目のふちをぬぐった。
「…………なんかありました? あの……そのう、もし話して楽になるんなら」
青年は目を見開いて、迷うようにミカを見て、ふっと写真に目をむけた。
「兄が……結婚したんです」
彼の視線をたどり、ミカも写真を見つめた。新郎は、穏やかな目をした日本人。新婦は芯の強そうな西洋人。美しく、優しい雰囲気の夫婦だった。
「おふたりともお似合いですね。国際結婚なんですか?」
「はい。兄の嫁は……英国人です」
ミカは目を丸くした。彼女が英国から帰り、もう五年の歳月がすぎた。それでも、懐かしい気持ちは今でも変わらない。ミカは微笑みながら、写真のふたりを見つめた。
「日本に住んでらっしゃるんですか? それとも英国に?」
屈託のない質問に、青年は自嘲の笑みをかえした。
「…………英国です」
目の前の苦い顔を見て、ミカは胸が痛くなった。しまった。聞いちゃいけないことだったんだ。
「その本、ずいぶん古そうですね」
「百年以上前の古書です。ポーの詩集で……友人の蔵書で、兄が送ってくれたんです」
「原書で読めるんだ、すごい。お兄さん優しいんですね」
「…………はい」
右手の広場から、子どもたちの歓声が湧きあがった。冬休みなので、思い思いに集まって遊んでいるのだろう。青年はうつむいて、両手でハンカチを握りしめていた。肩が小刻みに震えている。ミカはスマホを取りだし、素早くタップして、それからベンチに腰をおろした。膝頭がふれない程度に距離をおき、ミカは彼の背中をさすった。青年はびくりと跳ね、やがて小さな嗚咽をこぼした。その声が消えるまで、ミカは優しく手を動かした。青年がハンカチで顔をこすり始めると、ミカは話題を変えてみようと、自分の首元から鎖をたぐり寄せた。
「その写真、ヴィンテージ風ですね。あたしもそういうの好きで。こんなの持ってます」
金色の懐中時計を取りだして、裏蓋を開き、円形の写真を見せた。ミカと並んで少女が座り、その背後には三人の男が立つ、モノクロ写真だった。ミカたちは白と黒のメイド服、男たちは黒いジャケットにタイを巻き、歴史映画のような装いだった。
青年は、食い入るように写真を見つめている。
「あ、この服はなんていうか……コスプレ? ていうかね」
「…………誰? この男」
「あ、その人は……友だち。アンソニーっていうんだ」
まるで幽霊を見たかのようだった。恐れと驚きをあらわにして、青年はゆるゆると首を左右にふった。
「…………うそだろ」
「え?」
「…………誰? あんた」
青年の脆さは影を潜め、挑むような表情があらわれた。
「は? 誰って……」
鋭い視線にとまどいながらも、ミカはふと、懐かしさが胸をよぎった。
(……そうだ。五年前も、アンソニーたちから「きみは誰?」ってよく聞かれてたっけ)
「あたしは羽柴ミカ。大学四回生だよ」
「おれは真山永遠。大学一回生……や、そういうことじゃなくて」
「うん」
「…………おれも会ったことあるんだけど? アンソニーに」
ミカは言葉を失くして、隣に座るトワを見つめた。
(……………………え?)
「羽柴さんは? なんで彼に会えたの?」
「ミカでいいよ、みんなそう呼ぶし。あたしは…………行ったから。アンソニーがいるところに」
「………おれも行った。アンソニーがいるところ」
ふたりは探るように視線を交わした。
先に口を開いたのは、ミカだった。
「タイムトラベルした? 19世紀の英国に」
「うん」
こくん、と一度頭をふって、トワはとぎれとぎれに話しはじめた。
この春、この世界から永遠にいなくなった兄の話を。
トワは顔にハンカチをあて、照れたように笑った。
「ごめん、ハンカチぐちゃぐちゃにして。クリーニング出して返すから」
「ははは、いいよ。気にしないで。なんならあげるし」
「いいよ、返すよ」
まぶしそうに目を細め、トワは彼女を見つめた。
「あんたは? あんたの話も聞かせてよ」
「うん、あたしはね……」
ミカは懐中時計の写真を見つめ、ひとつひとつ語り聞かせた。
五年前の冬、クリブデン公爵家ですごした日々を。
トワは目を見開いて、驚きの声を上げた。
「じゃあ……アンソニーも公爵も、この未来のことを知ってるんだ?」
「うん。話しちゃった」
「兄貴は……そのこと……」
「たぶん、アンソニーたちからは話さないと思う。未来のこと知ってるよーなんて。口止めしてるし。だけどお兄さんが打ち明けたら、きっと話してくれると思うよ」
「兄貴……手紙でマリー、あ、お嫁さんには話したって。そのうちアンソニーにも話すかもって書いてた……」
「うん……じゃあきっと、そのときはアンソニーも話すと思うよ。21世紀のこと。山手線の通勤ラッシュやばいよねとか、新作ドリンク全部飲みきれないのに毎回頼みたくなっちゃうとか、コンビニまるごと19世紀にタイムトラベルさせられたらいいのにとか、なんかいろいろ」
「え……めっちゃ雑談ばっか……」
「あ! 歴史的なあれこれも、別にちゃんと話してるから!」
ミカは苦笑いをうかべた。猛勉強して(鬼教師がそばにいた)国立大に滑りこんだ今なら、あの頃よりは呆れた目で見られずに教えられるんだけどなーーと思いながら。
「じゃあ……兄貴以外にあっちでも……21世紀のこと知ってる奴がいるんだ」
「うん」
「あっちでも……兄貴、こっちのこと話せるんだ」
「うん」
「兄貴は……たぶんマリーに打ち明けたあとも、あんま自分のこと話さないと思うんだ。あいつの性格なら、あっちの世界に慣れようとして……21世紀のことは自分のなかに閉まってんだろなって」
「……うん」
「でもそっか……話せるんだ、兄貴…………よかったな」
トワの目に、また涙が滲んでいった。頬に涙をこぼしながら、しかしその顔は喜びにあふれていた。
「よかった……よかったなあ……兄貴」
トワは鼻水をすすり、恥ずかしそうに目をふせた。
「おれ……ずっと、おれのせいで兄貴はあっちに独りぼっちなんだって……思ってて。マリーと結婚できたのはよかったけど……それでも、21世紀のことなんて誰も知らない世界で、たった独りで生きてかなきゃならないんだって……そう思ってて……」
「大丈夫。いつかきっと、アンソニーや公爵と話せる日がくるよ……てかたぶん、二人とも話したくてうずうずしてると思う。お兄さんに話せるって知ったらめっちゃ喜んでぐいぐい来そう……それに和食のレシピもいろいろ残してあるんだ。あ、公爵家とアンソニーんちのなかだけでね。お兄さん、公爵家の養子になったんならトンカツとか食べてるかも」
「……まじかよ……ははっ、そっか。そっか……」
鼻声で笑い、トワは手の背で涙をぬぐった。
ミカは微笑みながら、おおきな背中をぽんぽんたたいた。
「よかったね、真山くんも」
「おれもトワでいいよ。……なんで?」
「あたしは二人であっちにいたから。帰ってくるときも二人だったし。あっちでもこっちでも話せる相手がいて……だから淋しくても、独りだって思ったことはないんだ。でもトワは……お兄さんのこと知ってるの、あんただけなんでしょ?」
「……うん」
「この七カ月のあいだ、ずっと独りで抱えてたんだね。辛かったね、よく……がんばったね」
トワはぶるぶると頭をふった。
「おれはいーんだ、全然。辛いのは兄貴なんだから……おれにそんなん思う資格なんてないんだから」
ミカは懐中時計を首に戻して、写真を握りしめるトワの手をつかんだ。薄く黄ばんだ、本の見開きに手がかすった。
「あのさ。あたしでよければ話し相手になるし。聞かせて? お兄さんのこととか。トワが見聞きした19世紀のこととか。ジェームスっていう友だちが出来たんでしょ? アンソニーの家にも行ったんだ? どんな家だった? あたしも見てみたかったな。なんでもあんたが話したいこと、話してよ。いつでも聞くから」
つかんだ手に手が重ねられ、熱い視線がミカにそそがれた。
「……ありがと、ミカ」
トワは潤んだ瞳で彼女を見つめた。
「あんたが……運命の相手だったらいいのにな」
「へっ⁈ やっ‼ 運命の相手は……もういるから……ふたり。これ以上はいっかな」
「ふたり?」
訝しげな声に、ミカはにっこりと笑みをうかべた。
「うん、ふたり」
ミカは懐中時計の鎖にふれて、コートの上から鎖骨をなでた。
◆
トワの手元をのぞきこみ、ミカは小さく声を上げた。
「あたし、お兄さんと会ったことあるかも!」
「えっ⁈ いつ⁈」
「まってまって……えーーーっと。今年の春、昼間のシフト入ってたときだ。服が泥まみれで、両手もケガしてて……大丈夫かなって思ったひとに似てる」
「今年の春? いつか分かる?」
「思い出す! ちょっと待ってね…………んーーーーっと」
確かあの日は、バイトの高校生が風邪ひいたって店長から電話がきて…………。
「四月の下旬……土曜日だった。お昼すぎぐらい」
「……兄貴が帰って来てたときだ。なんか一日中寝こんでて」
「あ! うん、スポーツ飲料買ってたし。体調悪そうだった」
「…………兄貴だ」
「そっか。すごいね。あたしもお兄さんに会ってたんだ。そっかあ……あんとき19世紀から戻ってきてたんだ」
ミカは懐かしさに目を細めた。写真のなかの新郎が、遠くはなれた友人のように感じられた。セピア色の写真と古書を眺めて……ミカはふと、目を見張った。
「あのさ、トワ。この写真とか本って……送り主は、クリブデン公爵家の現当主なんだよね?」
「うん。兄貴、手紙を公爵家の金庫に預けてるらしいんだ。21世紀の当主が送ってくれる手筈みたいで」
「へえ! すごいね。あのさ……それ、送り主の現住所も書かれてる?」
「いや、差出人は無記名なんだ。消印はロンドンだったけど」
ミカは嬉しさに目をかがやかせた。
「手がかり、見つけた……!」
「え?」
五年前に英国から帰って以来、ミカたちはクリブデン公爵家を探していた。現代の公爵家一族とコンタクトが取れないか、ネットで検索してみたが無理だった。バッキンガムシャーのお屋敷は、戦後に何度か持ち主が変わり、今ではホテルになっている。彼らの末裔がどこにいるのか、まるで見当がつかなかった。そう、今日までは。
(もしかしたら、ロンドンにいるかもしんない……‼)
満面の笑みを前にして、トワが顔を赤くしたとき。
ざくざくと砂利を踏みしめる音がした。
それから、低く不機嫌そうな声が、ふたりの頭にふってきた。
「……なにしてんだ」
「アリト! すごいんだよ‼ ちょっと聞いてよ‼」
トワの手から手をはなし、ミカはコーヒーを受けとった。アリトはトワの手をにらみ、眉間にしわを寄せたまま、彼にコーヒーを差しだした。
「え?」
「頼まれた。こいつに。おまえのぶんも買ってきてくれって」
トワは驚いた顔で、アリトとミカを交互に見つめた。
「ありがとう。金、払います」
「いいよ! おごり。会えて嬉しかったし。あ、ありがとね。あとでお金渡すし」
「いらねえ」
顔を上げたミカの頭に、ぽんと大きな手がのせられた。
その手を置いたまま、アリトはじっとトワを見下ろした。
トワは視線を受けとめ、その意味が分かったとでも言うように、にっと笑ってみせた。
「はじめまして。真山永遠です」
「……はじめまして。羽柴有人です」
冬の公園で、三人はベンチに座り、遠い時代の思い出を語りあった。