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或る船上の孤独

作者: 黒森牧夫

 朝から、まるで夕暮れの様な空が広がっていた。隅から隅まで雲ひとつ無く澄み渡り、真っ白な太陽がその冴えざえとした光を万遍無く眼下の世界に降り注がせてはいたのだが、空全体に何か白い薄絹のヴェールの様なものが均等に延べ広げられている感じで、見上げると自分が何か深い水の底に居て、厚く隔てられた水面を見ているかの様な錯覚を覚えた。

 港を出る時、遅い明け方の濃い霧の中でまた新しく養分を吸い取った私の憂鬱は、海上に出て日が昇り、霧がすっかり晴れてしまってからもずっと私の許を離れず、私は重い身体をやや固めのチェア−にぼってりと沈めた儘、ずっと取り留め無く空回りする思考を延々と繰り返していた。

 甲板には私の他には人気は無かった。元々そう賑わう様なルートではないと聞いているし、それに今は観光のシーズンからも外れている。海の上にしてはやけに乾いた空気は素肌にはピリピリと痛い位の寒さだったこともあって、日光がさんさんと照り輝いていたにも関わらず、もっと暖かい時分であれば日光浴をする薄着の肉体がごろごろとその上に並んでいたであろう、甲板上にきちんと並べられた木製のチェア−には、私ひとりしか居なかった。 

 図らずも得られたこの束の間の孤独の中で、目的も筋道もごちゃごちゃになった私の思考は、何時の間にか自然と、私が最近獲得した新たな孤独の方へと向かって行った。

 何も見えず、何も聞こえなかった振りをして、何も云わずに凝っと波の立てる泡の渦を見詰めていたあの時のことが、何時までも治らない小さなささくれの様に、ふと不規則に蘇って来ては、ちくちくと私の心を面白半分に突き刺して、無邪気で残酷な子供の様に笑い乍ら逃げて行った。私はそれらを敢えて振り払おうとする気力すら湧いて来ない儘に、ぼんやりと、何故私はあの時声を掛けなかったのだろうと云う、もう何十回も何百回も空しく繰り返した徒な問いを、再び頭の中で反芻した。

 何度考えてみても、はっきりした答えは出て来そうになかった。唯何となく理解出来るのは、あの時の私は、架橋し様の無い溝を、果てし無い懸隔を、二人の間に感じ取っていたのであって、それは私が仮令声を掛けようが何をしようが永遠に———彼女が彼女であることを止め、私が私であることを止めない限り———埋めることの出来ないものだと云うことを、心の深い層で間違え様も無くしっかりと理解していたのだろうと云う、(まこと)に頼り無げな———或いはそれが頼り無げに見える、と思い込もうとしていただけかも知れないが———推測だけだった。私の魂は生まれ落ちたその瞬間から孤独だった。私の魂の深淵を覗き込んで恐怖したのは私であって、彼女ではなかった。どれだけ言葉を尽くしたとしても、どれだけの行為でその想いを証明しようとしたとしても………決して越えるこの出来ぬ壁があるのだと云うことを、そもそもの始めから、私は殆ど本能的に知っていた。今回の結果は、それが偶々いざ具体的な行動を求められる場面になって、表面にまで浮かび上がり発覚してしまったものに過ぎない………その事実が、何よりも私の心を重くさせた。

 尤も、他の可能性も全く考えられないと云う訳でもなかった。単に拒絶されると云う可能性に恐れを()して臆病になっていただけかも知れなかったし、或いは妙なプライドが邪魔をして、高がこんなちっぽけな存在を何を重大視する必要があるのか、と云う暗黙の価値判断が働いたのやも知れない。或いはまた、ポオの言うところの「天邪鬼」の天使が私の耳許でそっと如何わしい呪文を囁き、全ての人間の行いは皆それぞれの幸福を求めて行われると云う、あの古の賢人の(まこと)に結構な定義を傍若無人にもあっさり無視して、その時の私に開かれていたかも知れないもっと別の諸可能性を、みすみす自らの手でそのトバ口で試しもしない内に潰させてしまったのかも知れなかった。無論、そんな考えは私の気に染むものではなかった為、私がそうした考えを扱う際には何時も、治らない傷口をくりくりと弄繰(いじく)り回す様な一種変質的な調子になるのだったが。

 孤独には慣れている私でも、時として、この世界を誰か私以外の自我を持った独立した人間と共有したい、誰か私の魂の奥底を覗き込むだけの能力と性向を持った魂と分かち合いたいと云う欲求に悩まされることがある。予期も準備も何の前触れも無しに遣って来るそうした衝動は、ひどく、寂しい、と云う感情を私の中に産み落として行く。この広漠たる宇宙の中で唯一人取り残され、孤立し、誰にも知られず、この存在の瞬間の証明を余りにも大き過ぎるものに対して空しく投げ掛け乍ら生きて行くこと………それが耐え難いものに思えて来る瞬間は、幾ら眼差しをより大きものへ、もっと大いなるものへと向けようと努力したところで、所詮このちっぽけな身がそれだけで支え切れる筈もなく、私を苛み続けることを止めようとはしないのだ………。

 "気質だ………自分から孤独を呼び込んでしまうこの私の気質がいけないのだ………"

 日の高い内に袖を捲っていた所為か少し日焼けしてしまってピリピリと痛み始めて来た腕の皮膚に、若干冷たさを増した風が当たるのを意識し乍ら、私はそう心の中で独りごちた。今更変え様もないものを持ち出して来てしまったことで、私は何だかもう何もかもがすっかりどうでもよくなってゆき、次第に引き締まってゆく大気の中に気懈さをだらしなく放散させ乍ら、両手を腹の上で組んで、今にも威厳を持って死の床に臨もうとしている老人の様に、そっと、ゆっくり目を閉じた。

 ———もう何も考えるのは止そう………。

 そう決めてしまうと、私は時間を掛けて要らぬ感覚を少しずつ遮断してゆき、鼓膜や全身の皮膚を震わせる振動も、冷たい微風も、瞼の裏を薄らと灼く赤い仄めきも、少々座り心地の悪い椅子の感触も、耳朶を脈打たせている血流も、粗く静かな呼吸も、全てを重く沈潜して行く体の重みの中にじわじわと溶け込ませて行った。主に精神的なものによる重苦しい疲労感が、私を自分の内側へ、内側へと押し込めて行ったが、体はぐったりとして休息を必要としていたにも関わらず、眠気は遣って来なかった。私は唯殻を閉じた貝の様に自分の中にひっそりと閉じ籠り、真っ暗な世界の中の一つの点になった。

 忌々しいことに、私の目は再び開いた。どの位の時間が経ったのだろうか、外の世界がもう一度私の中に入り込んで来ようとして来た時、辺りの様子がすっかり違っていることに気が付いた。

 それはまるで夢、それも飛切りの悪夢の中でしかお目に掛れない様な、巨大な日輪だった。真っ白な円から下界を貫きに差し伸べられる真っ白な光の放射が、奇妙にぼやけ且つ透き通った大気と混じり合い、円の輪郭を判らなくさせ、恰もそこに巨大な光の塊が現出したかの様に見せていたのだった。その白さは先程までのお上品な白絹の白さとは違って、溶鉱炉の中で途轍も無い高熱に焼かれてどろどろと溶け、渦を巻いている鋼の白さだった。その余りの巨大さに、海一面がキラキラと真っ白に照り輝いて波立っていた。

 私はその光景を呆然と眺め乍ら、ここに私の憂鬱が、はっきりと形を採り、この広い宇宙の中で確かに位置を占めたことを知った。

 暫く固まっていた私の身体に何かが触れる感触があった。豊かな髭を生やしたノルウェー人の船員が、一向に気付こうとしない私の肩に手を掛け、英語でこう声を掛けて来ていたのだ。

 「もう直き到着しますよ」

 成る程首を巡らせてみると陸はもう直ぐそこに迫っていた。私は鷹揚な振りをしてゆっくりと二、三度頷いてみせると、手荷物を纏めに行く為にアームに手を掛けて立ち上がった。連絡船は日を真横に受けて接岸態勢に入っていた。

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