ファーストキスとオリックスバファローズ
オリックスが好きな人向けのよく分からない小説です。
ちなみにオリックスバファローズです。バッファローズではありません。
頭の中が真っ白になったまま、俺はずっと北森さんとキスをしていた。
ファーストキスというものは、いったいどれくらい時間をかければいいのだろうか。そんなこと誰も教えてくれなかったし、調べたこともなかった。
5秒か? それとも10秒なのか? いや、そもそもスタートした時間が分からないな。でも、時計を見る余裕なんてなかったし。
でも、まさかこんなことになるなんて思ってなかった。まさか今日が、人生で初めてキスをする日になるなんて思わなかった。もし、昨日の俺に「おい、あした北森さんとキスするからちゃんと歯磨きしとけよ!」と言っても俺は絶対に信じないだろう。なにせ俺は疑り深い男なのだ。なぜなら、オリックスファンだからである。
そんなことを考えながら、俺は北森さんの唇からようやく自分の唇を離した。
時間にして23秒くらいか。これは長すぎるのか? それとも短い部類か? 誰か統計を取ってないのか? 経験のない男はいろいろと不安になるのだ。
北森さんがゆっくりと目をあけた。
潤んだ瞳で俺を見る。可愛すぎてやばい。やばいぞ。こういう時はなんて言えばいいんだ?
「……ありがと」
俺はおもわず北森さんにお礼を言った。いいのかこれで?
ファーストキスをしてお礼を言うのは変かもしれないが、でも、俺の正直な気持ちだった。だって、「おいしかった」と言うのも変だ。遊び慣れてる男じゃあるまいし。
かといって「気持ちよかった」とも言えない。いや、気持ちはよかったんだが、それではまんま童貞ではないか。ここは素直にお礼をいうのがベストのはずだ。
俺が女の子とキスする機会など一生ないと思っていたから、感謝の気持ちは有り余るくらいにある。北森さんはマジ天使。
「……あ、あの……わたしこそ……ありがとうございます」
目が覚めると俺はリビングにいた。
テレビではプロ野球の中継をやっている。
オリックス対ソフトバンク
9回裏2アウトでソフトバンクが3対0で勝っている。あと1アウトで試合終了だ。しかし、塁上には3人のランナーがいる。つまり満塁。ここでもしホームランが出れば逆転満塁サヨナラホームランだ。
打席にゆっくりとT-岡田が入った。これは俺がオリックスファンだからよく分かるのだが、岡田はあまりこういう場面にそんなに強くはない。たぶん心根が優しい人なのだ。だから、筋金入りのオリックスファンなら、こういう時はどこかで駄目だろうなあと思っていたりする。申し訳ないと思うけど。
しかし、俺には確信があった。岡田がホームランを打つという確信が。岡田らしい滞空時間の長い美しいホームランを打つ確信が。(ホームランの軌跡に限っていえば、日本でもっとも美しいホームランを打つのは岡田だ。これだけは間違いない)
やがて大歓声がテレビから聞こえてくる。
岡田らしい滞空時間の長い美しいホームランが京セラドームの5階席に吸い込まれた。
少し照れたような表情の岡田がダイヤモンドをまわる。
俺は岡田がホームベースを踏むのを見届けて立ち上がった。
だとすれば、今日は5月の14日。つまり、北森さんとキスをする前日だ。
もう何度目だろう。最初のことはよく覚えている。
放課後の図書館で、偶然ふたりきりになった。
ずっと好きだった北森さん。最初は緊張でまともに話せなかったが、少しづつ打ち解けた。
もう、こんな機会はないと思い切って告白した。
「わたしも……ずっと水野くんのことが好きでした……」
この時の気持ちは何度味わっても変わらない。
生きていてよかったと心から思った。
嬉しそうに涙ぐんでいた北森さんはとんでもなく可愛かった。とてつもなく可愛かった。
北森さんは俺の胸に顔をうずめた。彼女の華奢な肩と、それに似合わないくらいに大きな胸が俺の心を激しく揺さぶった。
しかも、ああ、神様。あろうことか、北森さんは、俺の腕の中で、目を閉じたのだ。
俺はこの時ほど自分を呪ったことはない。
いくら鈍感な俺でも分かる。自分の腕の中にいる女の子が目を閉じるのは、けして眠たいからではない。
なぜ俺は、前日の夜に餃子などを食べてしまったのか。いや、原因は分かっている。俺が母さんに食べたいと言ったからだ。つまり母さんは悪くない。母さんの手作り餃子は破壊的な美味さだ。父さんはいまだに「この餃子で結婚を決意した」と言ってるくらいだ。それはそれで母さんに失礼だと思うが、母さんも「餃子で胃袋をつかんでやったわ」と言っているので問題はない。いや、今は餃子が問題なのだが。
なんというか、俺は前夜に少なくとも餃子を30ケは食べていた。母さんはいつも100ケ以上の餃子を作るのだ。しかも、母さんの餃子はニラがたっぷり入っている。これがほんとに美味い。美味すぎる。
そんな俺が、今でも餃子の余韻が口の中に残っているこの俺が、天使のような北森さんにキスなんてできようか。
じゃあどうすればいい。目を閉じてその時を待っている北森さんに向かって「ちょっと歯を磨いてくるから」とでも言うのか? 歯磨きなら昨日の晩も今日の朝もしている。でも胃の中の餃子の香りはどうしようもない。
こうなったら息を止めて絶対に唇を開けない覚悟でキスするか。いや、そんなファーストキスは嫌だ。それに、罪悪感が半端ない。飲酒検問に引っ掛かって絶望しているドライバーの気持ちがちょっと分かった。「呑んでません」と言いたい気持ちが今ならよく分かる。
かといって、「またの日にしようか」なんて言って、またの日が来なかったらどうするつもりだ。チャンスの神様は前髪しかないと言うではないか。通り過ぎてから髪の毛を掴もうとしても後ろ髪はないんだそうだ。というか、チャンスの神様のヘアースタイル奇抜過ぎるだろ。
どうしようもなくなって切羽つまった俺は、何を考えたのか、心の中で前日に戻りたいと念じた。
タイムリープってやつだ。残念ながら、ここにはラベンダーも自転車もパンティーも電子レンジもなかったが、とにかく俺は念じたのだ。
もう一度、俺に岡田のサヨナラホームランを見せてくれ!と。
そして今だ。
これで岡田のサヨナラホームランを見るのは何回目だろうか。
自分のあずかり知らぬところで、こんなにサヨナラホームランを打ってるとは岡田もびっくりだろう。いや、実際に打ってもらってもオリックスファンとすれば一向に構わないのだが。
最初は1回戻ればすべて解決だと安易に考えていた。しかし、人間というものは意外に欲深いのだ。
母さんに餃子の日をずらしてもらい、その晩はうどんにしてもらった。
実を言うと、香川出身の父さんの手作りうどんがこれまた絶品なのだ。
「このうどんを食べて結婚しようと思ったの」
母さんはそう言いながら父さんのうどんを美味しそうに食べた。まあ似たもの夫婦だな。いまだに手を繋いで買い物に行くほど仲が良いし。
その日はあっさりしたきつねうどんで腹を満たし、俺は北森さんのとのキスに備えて歯を3回磨いた。そのうえ朝も磨き、昼休みにも磨いた。
もうこれで完璧だ。しかし、北森さんが目を閉じた瞬間に俺は気づいてしまった。5時間目の体育の時間。俺はめちゃくちゃ汗をかいてしまっていた。これでは口臭はよくても体臭が気になるではないか。なぜ着替えを持ってこなかったのだ。馬鹿か俺は。
たのむ岡田。もう一度、俺にサヨナラホームランを見せてくれ。
なんでだ! 俺は自分を呪った。せっかく着替えも用意して、柔軟剤の香り漂う身体になったというのに。北森さんの大きめの胸の感触に、俺の息子が反応しているではないか。
タイムリープのおかげで、どうやら北森さんの身体を感じるくらいの余裕があったらしい。
しかし、今じゃない。この先には必要になるかもしれないが、まだファーストキスの段階だ。
こんなことなら、昨日の晩に自家発電をしておくべきだった。こんなロマンティックな雰囲気で股間を固くするなど言語道断だ!
すまない岡田。もう一度、俺にサヨナラホームランを見せてくれ。
そうやって何度も何度も失敗を繰り返しながら、俺はようやく満足できる状態になった。
しかし、そのあとも、キスをしようとして鼻が当たってやり直したり、位置が気に入らなかったり、唇のひび割れが気になって前夜の風呂でリップクリームを山ほど塗ったり、キスも何度もやり直した。
そして、ようやく、理想のキスをすることができたのだ。
もうとてもファーストキスとは呼べないが、北森さんにとってはファーストキスのはずだ。
思い出に残るファーストキスができただろう。
そして俺は、北森さんと付き合い始めた。
初めてのデートの場所はもちろん京セラドームだ。
ふたりで声はあげてオリックスを応援した。
そして、その日の試合。9回裏ツーアウト。3対0で負けている場面で、岡田に打席が回ってきた。もちろん満塁だ。
「ここで打ったら凄いね」
「うん、でも岡田はこういう場面ではあまり打たないんだよなあ」
「そんなことないと思う。絶対に打つよ」
彼女の予言どおり。岡田の打球はライトスタンドの5階席に吸い込まれた。
まわりのファンも、僕も、北森さんも大騒ぎだ。
ホームベースを踏んだ岡田に大声で「ごめんなさい」と言った。こんな謝罪ならいくらでもしたい。
横にいる北森さんも嬉しそうだ。
そして、彼女は俺の耳に顔を近づけて言った。
「水野くんが上手にキスができるようになったのは、岡田選手のおかげだもんね」
彼女はそう言って、びっくりする俺の首に手をまわした。
そして、「オリックスっていいね」と言って、笑いながらキスしてくれた。
最後までお読みいただきありがとうございました。
宮城と紅林の名前を憶えて帰ってください。