王太子様の秘密・3
「リンネ様は、できるものとできないものの差が激しいですね」
三十分後、私の課題の回答を見て、テレンス先生はため息をついた。
日本の高校生の知識があるのだから、計算などはお手の物だが、文化とか国語については、もともとリンネが持っている知識しかない。記憶をたどってもあまり出てこないところをみると、リンネは頭の出来があまりよろしくなかったようだ。
「レオ様は……はい。問題ありませんね」
対してレオは賢かった。課題の紙には次々に丸がつけられていく。
私は負けたような気分になりつつ、彼を横目で見たが、勝ち誇った顔を返されただけだ。
(なんか悔しい!)
続いて、メイドたちによって、お茶とお菓子が用意された。
「休憩ですか?」
私が満面の笑顔で聞くと、テレンス先生は穏やかに返した。
「休憩がてら行儀作法のお勉強ですよ」
お菓子が食べられるのはうれしいが、これでは休憩にならない。不満だ。
まずは先生から、注意すべき点が語られる。
招待されたときはまず、主催者に挨拶をする。座順が決められているはずなので、勧められるまで椅子には座らない。お茶を飲むときは音を立てず優雅に、などなど。
「リンネ様、小指が立っております」
「う……申し訳ありません」
カップを掴むと、どうしても小指が立ってしまう。カラオケでマイクを握ったときと同じ原理だ。
(いや、普通立つでしょ。なんでレオは立たないのよ)
恨みがましく見つめると、彼はツンとそっぽを向いている。
「レオ様は笑顔が足りませんね。お茶会で、とくにもてなす側になる場合は笑顔が大事です」
「俺は男だ。茶会など開催しないのだから問題ない」
「男にも社交はございますよ。チェスなどの遊戯をしながら、招待客に気を配らなければなりません」
「む」
わかりやすくレオがむくれた。けれど、反論したりはしない。これは必要だと納得しているものには、愛想はなくても取り組んではいるようだ。
(王太子様だもんね。やりたくないからって逃げたりはできないか)
レオへの認識を深めながら、お茶会は続いていく。
「さあ、お茶会を盛り上げるために大切なのは会話です。せっかく同じ年代のお相手に来てもらえたのですから、交互に話題を出して、会話を盛り上げてください」
テレンス先生からは、なかなかに無茶ぶりの課題が出された。
席にふたりきりにされ、先生は離れた窓際の近くに椅子を置いて座る。遠くから観察してチェックするつもりのようだ。
(いや、いきなりは無理でしょ。……でも、先生の期待のまなざしがつらい。日本人なので、空気読んじゃうんだよ、私は)
「えっと、レオ様は今日なにを食べました?」
「……いきなり食べ物の話題か?」
がんばって出した話題を一蹴され、私はムッとした。
「じゃあ、なにを話せばいいんですか」
「一般的には天気だろう! あたり障りのないところからいくのが普通だ」
(ご飯だってあたり障りないじゃんよ。どうせいいもの食べてるんでしょうに)
しかし、ここで王太子相手に噛みつくわけにはいかない。私はぐっとこらえて、言われた通りに天気の話を振った。
「じゃあ、いい天気ですから、この後お散歩でもしませんか」
「散歩?」
「ええ。先日も思いましたが、庭園のお花がとても綺麗なので」
口もとに手をあて、完璧なる令嬢スマイルだ。
(どうよ、これで文句ないでしょう?)。
「そうだな……」
レオは、ちらりと先生に目をやると、突然立ち上がった。
「では、そうしよう」
「あ、レオ様、リンネ様。駄目ですよ、今は勉強の時間で……」
「これも社交の勉強だ。ついてこい、リンネ」
レオはそう言って部屋を出ると、こちらの足の速さなど計算に入れていないかのように力強く走りだす。
普通の令嬢なら置いていかれてしまうような速さだが、私は平気だ。体ができあがってなくとも、引きこもりの王太子に負けるほど遅くはない。甘く見てもらっては困る。
「遅いですよ、レオ様」
私はダッシュをかけてレオを抜いた。予想外だったのかレオは目をむいている。
「ちょ、お前っ」
「先に行きますよー」
カーブで膨らみすぎないようにスピードを調整し、左足に力を込め、体を押し出す。久々の走る感覚は気持ちがよかった。
もっともっと走っていたいのに、すぐに息が上がってしまうこの体が恨めしいくらいだ。
リンネには体力がない。庭園の入り口に着く頃には、すっかり息が上がっていた。
(体幹ももうちょっと鍛えないと。カーブで体を支える力が弱かったもんなぁ)
やがて、レオが息を切らしながら追いついてくる。
「お前っ、なぜ俺を置いていくんだ」
「だって先生から逃げるなら、本気で走らないと」
「そんな汗だくの令嬢、見たことがないぞ」
「そう、この程度で汗をかいちゃうなんてよくないですよねぇ」
私は、レオの言葉に生返事をしながら、思うようにならない体を鍛えることを考え始めていた。まだ八歳だ。ぶよぶよしたこの足も、すぐに筋肉をつけることができるだろう。
走り込みをするのは簡単だが、この国の貴族令嬢には、運動が推奨されていない。学園の運動の授業は、ほぼダンスの練習で、運動らしいことといったら、ボールを投げて受け止めるという覇気のないドッジボールくらいだ。走ることは、どちらかといえば、はしたないことだとされていて、令嬢がやろうとすると、家の者から全力で止められる。
(貴族女性にふくよかな人間が多いのは、絶対にそのせいだよ)
「レオ様。体力づくりに毎日走りませんか?」
「は?」
「ほら、私もレオ様もまだ若いですし、筋力つけないといけないと思うんですよ」
そこで私は、レオと一緒に走ろうと考えたのだ。王太子様と一緒に、といえばなんでも許可が下りる気がする。
(私だって私的な時間をこうしてレオのために使っているわけだし、ちょっとくらい私がやりたいことを入れ込んだっていいだろう。いいよね、うんって言え!)
目で訴える私に、レオはあきらめたようにうなずいた。
「わかったわかった。……まったく、お前は変な奴だな」
「そうですか?」
「俺のことが怖くないのか? ……その、見たんだろ?」
レオが左腕をさする。
そこで私は思い出した。マントを剥いだとき、彼の二の腕に、大きな落書きがあったことを。
「あの落書きは、自分で書いたんです?」
「は?」
「腕になにか書いてありましたよね。消えなくなったんでしょう? わかります、若気の至りってやつですよね。まあでも、レオ様若いんだし、成長するうちに消えますよ」
この世界に油性ペンはないはずだが、きっと消えにくいインクでも使ってしまったのだろう。消えなくなって、恥ずかしがっているのかと思えば、ツンツンした態度もかわいく思えてくる。
生温かいまなざしを向ける私に、レオは異物を見るような視線を向けてきた。
「……お前、馬鹿だろう」
「失礼な! これでも成績は悪くないです」
「頭がいい間抜けというやつだな」
「ひどい!」
あながち間違いでもないので否定もできない。私は不満を隠さずレオを見つめる。彼は彼で、それきり黙ってしまった。
しばらく沈黙の時間が流れた。気まずくて居心地が悪い。どうにかしたいけれど、固く口を結んでしまった彼に無理やり話しかけても、和まないこともわかっていた。
(やっぱり男の子とは体で語り合わなきゃ駄目かな。同じ釜の飯を食うとか、同じ苦労をするとか、そういうことで男子とは友情が生まれた気がする)
かつての経験を思い出して、私はこの場でできる最良の方法を提案した。
「レオ様、ここでトレーニングしましょう」
「は?」
「いいですか、私のやることをまねてくださいね」
始めたのは、ストレッチだ。大会のときのウォーミングアップや、ランニング後の整理体操的な意味合いでやったもので、体幹を鍛えたり筋肉をほぐしたりする。
ところがやり方はわかっても、リンネの体はうまく動いてくれない。初めてやるレオも同じで、私たちはバランスを崩して座り込んだり、痛い痛いとわめいたりしていた。
「まったく、なんなんだ、この体操!」
「でも絶対、体が鍛えられますよ! っていったーい」
「痛いと言いながら、笑ってるじゃないか、変態め」
「レオ様だってそうでしょ!」
私が汗だくになりながら笑っているのを見て、レオはついには笑いだした。初めて見るレオの笑顔は、ずいぶんとかわいらしく、私は、レオとの間にあった見えない壁が薄くなったような気がした。