エピローグ
最近、王都ではこんな噂話が広がっている。
レオ王太子がこれまで引きこもりだったのは、リトルウィック出身のジェナから呪いをかけられていたからで、それを救ったのが、聖獣から特別な力を授かったふたりの聖女――彼の婚約者であるリンネ・エバンズ伯爵令嬢と友人のローレン・レットラップ子爵令嬢――だというものである。
それはクロードが意図的に流した噂なのだけど、彼の予想通りに広がっていて、今や私とローレンは一躍時の人だ。
私が目覚めてから、レオは一週間休暇を取るように言い、私を城から出さなかった。自らも学園を休み、代わりに家庭教師を呼んで、学園の授業に遅れないように万全な体制を整えつつ、私のそばから離れない。もうどこもおかしくないと言っているのに、超一流の医師を主治医につけ、食事の介助を自らしてくれるかいがいしさに、国王様はあきれた様子だ。
王妃様はうれしそうに、日に一度は冷やかしにやって来た。前からなんとなく思っていたけれど、今回の件で確信した。この世界にロマンス小説があれば、この人絶対ハマっていると思う。
クロードはいつも通りの飄々とした態度で、「ふたりとも、婚約破棄の申し出は、破棄していいんだよね」と雑務処理を引き受けてくれた。
「あの、クロード」
「なんだい、リンネ」
あの告白の日以降も、クロードは変わらずお兄ちゃんのように接してくれる。だから私も、以前と変わりなくいられるように、甘えることにする。
「また狩りに行きたい」
「……リンネは相変わらず無謀だね。学園通いも普通にできるようになってから、しばらくたたないと許可できないな」
「えー!」
「えーじゃないよ。当然でしょう。まったく、いつまでたっても子供みたいなんだからなぁ」
今まで通りのやり取りに、私はすごくホッとした。
そこで、視線の圧を感じる。レオが、じっとこちらを見ているのだ。
「レオ……なに?」
「いや。お前たちは仲がいいなと思ってな」
これは嫉妬だろうか。いやでも、今までもずっとこんなふうだったじゃない?
クロードはくすくす笑いながら、持っていた本で軽くレオの頭をたたく。そんな仕草もお兄ちゃんぽいなぁと思う。
「レオは相変わらず嫉妬深いね。心配しなくても、僕はちゃんと君たちのこと、祝福しているんだけどな。それに、これから魔術院の立ち上げだなんだと忙しいんだ。女性に夢中になっている暇もないし」
クロードは、今回の研究結果をもとに、ハルティーリアにも魔術を復活させようとしている。まずは魔術が得体の知れないものだという民衆の先入観を変えるところからだ、と今回の私とローレンの功績を周知させ、魔術は人を癒すものだという切り口で攻めるつもりらしい。
『あの人、優しそうな顔してるけど、結構サド! 私の体はひとつしかないのに、持ってくる仕事量がえぐすぎる!』
と、すっかり広告塔にされたローレンは、時々私に愚痴を言いにくる。
『でも、ローレンは、力を使えば使うほど魂が綺麗になっていってるけど』
そう言うのはソロだ。彼は魂の色を見ることができ、最初にローレンに出会ったときは、焦りと不安で黒ずんで見えたらしい。最近になって、彼女の魂からは、にごりがとれてきたのだそう。
『イリスはちょっと汚れているくらいが好きって言っているけどね』
ローレンの聖獣は、ソロの妹コックスらしい。生まれて一年もたたないのに自立精神が旺盛で、しっかりしている。何年たっても子供でいたがったソロとは大違いだ。
「リンネ、入るぞ」
扉がノックされ、レオとうしろに侍女が連れ立ってやって来る。
「食事の時間だ」
侍女がお盆にのせた食事を持っていて、私のベッド脇に座ったレオに手渡して、すぐに出ていった。
「ほら、口を開けろ」
「レオ、甘やかすのやめてよ。私は自分で食べられます」
もう寝ていなくたっていいくらいなのだ。なのに、体力がしっかり回復するまでは寝てろ寝てろってうるさいんだから。
「ちぇ、食べさせるのが楽しみなのに」
拗ねるレオからお盆を受け取り、自分で食べ始めてから、思いついたことを聞いてみる。
「そういえば、レオ、いつの間にか女性恐怖症も治ったんだね」
さっき、お盆を受け取るときに侍女が至近距離に来たのに、顔をゆがめることもなかった。
「ああ。すっかりな」
「腕の呪文が消えたから?」
「いや、腕の呪文は魔法陣を描くためのもので、魔法陣は悪魔を呼び出すための召喚魔法らしい。女性への恐怖心は単純に俺の精神的トラウマだったようだ」
「じゃあどうして治ったんだろ」
「お前が上書きしてくれたからじゃないか?」
そこから、レオは今まであまり詳細に語ることのなかった昔の心情を教えてくれた。
八歳で監禁されたとき、狂気の表情で針を刺すジェナ様が恐ろしくて仕方なかったのだそうだ。助け出された後も、女性が近づいてくるとジェナ様の顔が頭にちらついたそうだ。だけど、私がレオの胸に針を刺していたとき、脳裏に浮かぶジェナ様の顔が、やがて私の顔に変わっていったらしい。
「お前が泣きながら針を刺している姿は、恐怖からはほど遠かったからな。ひたむきでいじらしくて。……俺は抱きしめたくて仕方なかった」
それで、彼の心を支配していた恐怖が消えたような気がしたのだという。
どうでもいいけど、そんな話、真顔では聞いていられない。恥ずかしい。
呪いが解けてからこっち、レオは愛情表現をあらわにしすぎだ。
食べ終わり、お盆を渡すと、レオはそれをサイドテーブルに移してから、思い出したように胸ポケットを探った。
「そうそう、お前に、渡すものがあるんだ」
「え?」
「あの日は突っ返されたが……」
取り出されたのは、婚約破棄を申し出た日に見せられた紫水晶と真珠で作られたブドウ型のかわいいペンダントトップがついたネックレスだ。
「これ……」
「突っ返されたときはショックだったがな」
レオは中腰になり、私にそれをつけてくれた。鎖骨の間で、小さく揺れるブドウがかわいい。
最近のご婦人たちに人気があるのは、肌にぴたりと張りつくような平面のものなので、日本でよく見るこのデザインはハルティーリアでは珍しい。
「綺麗ね。それにこの水晶、レオの瞳の色みたい」
「それと、改めてお前に伝えておくことがある」
おもむろにレオが咳ばらいをした。大事なことを言われる空気に、私も思わず背筋が伸びる。
「リンネ・エバンズ」
「はい!」
引き締まった口もと、真摯に私を見つめてくる紫水晶のような瞳。
頬のあたりに熱を感じる。前から顔はいいなと思っていたけれど、気持ちを自覚してからは、見ているだけでドキドキしてしまうようになった。最近のレオはまぶしすぎる。
「俺はお前を愛している。幼い頃から、ずっとだ。ほかの女に目移りしたことなど、一度もない。俺には、お前しかいないんだ。だから、婚約は破棄しない。お前がクロードを好きでも、お前を手放したくないんだ!」
まっすぐな愛情表現が、痛いくらいに突き刺さる。もう私を殺す気ですか。
それにしても、ひとつ引っかかることがあるんだけど……。
「え、っと。私、べつにクロードを好きなわけじゃないけど」
「は? だって婚約破棄したいって……」
「あれは、レオを救うには私がいちゃ駄目だって思ったからで……。クロードはお兄ちゃんみたいなもんだよ」
さらりと言ったら、レオは力が抜けたように座り込んだ。
頭を抱えて、はあと大きな息をつく。
「……なんだよ。俺はこれからどうやってお前を振り向かせようかと必死に考えていたのに」
うなだれるレオが、とてもかわいい。ドキドキして、照れくさくて逃げたいくらいなのに、うれしく
て顔がニマニマしてしまう。ああ好きだなぁと改めて思う。
私が頭をなでると、恥ずかしそうに上目遣いで見られた。男の人の上目遣いって妙に色気があるなぁ。ドキッとしちゃう。
「ねぇ、レオ。私とずっと一緒に走ってくれる?」
「体力が続く限りは」
「私より先に死なない?」
「それは善処するとしか言いようがない」
「私、王太子妃には向かないと思うんだけど、そこはどう思う?」
「向かないと思っているのはお前だけじゃないのか。ローレン嬢も、お前は自分を犠牲にしてでも他人を守る人だと言っていたぞ。王妃は、時には自分よりも国家を思わねばならないことがある。お前にその資質がないとはとても思えないな」
ローレンがそんなこと言ってくれたとは意外だ。なんだか気恥ずかしくなっちゃう。
「お前に足りないのは、俺を好きじゃないってことくらいだ」
「え? 好きだよ。それは本当」
反射で答えたら、レオの顔が真っ赤に染まる。
あ……なんかしまった。また恥ずかしいことを言ってしまったかもしれない。
「だったら、十分だろ。ほかになにが必要なんだ」
レオの顔が近づいてくる。なんとなく目をつぶってそのときを待つと、やわらかな唇が、そっと私のそれに触れてきた。
うわあ、キスをしている。レオと? なんか変な感じ。
ものすごくドキドキして、気恥ずかしくて、誰もいないはずなのに周りが気になっちゃうけど、その反面、ずっと触れていたいとも思う。
恋をするのって、こんなにたくさんの気持ちを自分の中に抱えることなんだね。
すごく大変そうだけど、ずっと私に寄り添ってくれたレオとだったら、なんでも乗り越えられるような気がする。
「ずっと一緒に走ってやるから。ずっと俺のそばにいろ」
吐息交じりに彼の声が耳に届く。私はそれがうれしくて、思いきり彼に抱きついた。
「レオ、大好き」
「……リンネ」
感極まったような声ののち、ゆっくりとレオの手が背中に回る。
私はようやく、自分の無事と彼の無事を実感することができて、心の底からホッとしたのだ。
*
時は流れ、今日は卒業式だ。
学生と卒業生の保護者が出席していて、講堂は人で埋め尽くされている。
式辞を読むのはレオで、来賓として出席している陛下は、涙目でそれを見ていた。
……うん。本当に親ばかだよね。
「私がこの学園に通ったのは、ほんのわずかな期間です。けれど、ここで得た友は一生の宝となるでしょう」
いつの間に友達をつくったんだ。おかしくない? 私なんてずーっと通っていたのにローレンしか友達いないけど。
「ねぇ。レオ様こっちばっかり見てない?」
にやにやと笑いながら私に耳打ちするのはローレンだ。
「そう?」
「あれ、絶対褒めてほしいアピールだよ。レオ様、リンネの前だと子犬みたいだよね」
「そうかな」
私たちの会話を聞いていたのか、周りの女生徒もうんうんとうなずきだす。
「悔しいですけれど、レオ様はリンネ様しか見ておられませんものね」
ポーリーナ嬢が苦笑する。
私がレオを救った話と、その後私が回復するまでのレオの献身的な介護は、ローレンにより美談となって伝わっていた。おかげで、学園に復帰してから、みんなが妙に優しい。
「あたり前よ。リンネはレオ様の命の恩人だもの!」
得意げに言うのはローレン。なぜ私よりあなたが誇らしげなのだ、とは思うけれどまあいいや。
せっかくのレオの晴れ姿を、目に焼きつけておく方が大事だもん。
式が終わると、卒業パーティが催される。
主役は卒業生たちなので、在校生である私たちは適当に誘ってくる相手と踊ったり食事をしたりしていればいい。この料理がおいしいので、ひと月前から楽しみにしていた。
「リンネ。踊ってくれるか?」
だが、早々にレオが誘いに来てしまったので、私は目の前の食事に別れを告げねばならなくなった。
少し膨れていると、「なにを怒っている」と頭上から声がした。
もうほかの令嬢とだって踊れるはずなのに、レオは今も適当に理由をつけて私としか踊らない。
結果、私はずっとレオと踊ることになるので、彼とのダンスは慣れたものだ。呼吸するように踊ることができる。
「べーつにー。ただ、狙ってた蒸し鶏を食べ損ねたってだけ」
「また食べ物か。後でいくらでも食わせてやる。先に学園の男たちに見せつけてやらねばならないからな」
「なにを」
「お前が、俺のものだということだ」
微笑まれるのと同時に腰を引き寄せられ、レオが私の額にキスをした。
周りからざわめきが生まれるものの、レオはなに食わぬ顔でまた踊りだす。
なんてことをしてくれるのだ。こんな……こっぱずかしい。
「お前が好きで好きで仕方ないんだと、みなに教えておかなければ」
いや、それはやりすぎだ。王太子たるもの、毅然としていればいいと思う。女にうつつを抜かしているなどと言われたらどうするのだ。
いさめようとしたけれど、急に音楽がアップテンポになって、それどころじゃなくなった。
「え? 早くない?」
周りで踊っていた人たちが、ついていけなくなって動きを止める。
レオは楽団の方を向き、くすりと笑ってみせた。
「ローレン嬢の計らいのようだな。ついてこれるだろ。リンネ」
負けん気の強い私は、当然うなずく。
「そりゃ。もちろん!」
クルクルと回りながら、私は楽しくなってきていた。一緒に走っているときみたいだ。徐々に周りから音が消え、私とレオの息遣いだけが響く。触れた手の先から、ワクワクした気分が生まれてくるみたい。
夢中になって踊った後には、割れんばかりの拍手が待っていた。
どうやら、このテンポの速い踊りについていけたのは、私とレオだけだったようだ。
「みんな、ありがとう。俺はこれからも、彼女と共にこの国を守っていくことを誓う」
極めつけに、みんなの前でプロポーズまがいのことをされた。勘弁してほしい。
ツンツン王太子だったくせに、この変わりようはなんなのだ。
なんだかわけがわからないけれど、この世界は、『情念のサクリファイス』の結末とは違う方向にいってしまったらしい。
だけど、みんなが笑っているから、これはこれで、いい結末だと思うことにしよう。
【Fin.】




