『力』の発現・2
彼は神妙な顔をして、私に一枚の紙を見せてくれた。
「いいかい、リンネ。こっちの黒字で書かれているのが、レオの胸に刻まれている魔法陣だ。そしてこの赤字の部分を、リンネに書き足してほしい」
黒字の二重円の外側に、赤字で三角の模様と呪文が書かれている。三角の模様は呪文の効果範囲を示しているようで、三方から円を囲むように三つ配置されている、その周囲に呪文を書くのだけれど、呪文部分が複雑で、これを正確に刺すのはなかなか難しい。
「私に……できるかな」
「そこはリンネにがんばってもらうしかない」
「うん」
わかっている。レオを守りたい。どうしても生きていてほしいのだ。そのためになら、どんな努力でもする。
決意したものの、私の顔は青ざめていたのだろう。
「リンネ」
横になっているレオが、私を呼んだ。彼の紫水晶みたいな瞳には、泣きだしそうな私が映っている。
「レオ……大丈夫?」
「それは俺が言いたい。お前こそ顔が青いぞ。なんなら走ってくるか? 元気になるだろう? ……今は、一緒に走ってやれないけど」
「馬鹿、なに言っているのよ。自分が大変なときに」
こんな緊迫した場面でなにを言うのだと思ったけれど、レオのいつもと変わらない調子に、私の心は少しだけ和んだ。
「はは、怒るな。……っ」
だが、レオが急に顔をしかめた。ビクンと体を跳ねさせて、痛みをこらえるように、ギュッと目をつぶる。そのうちに魔法陣がぼんやり光って、六芒星の書きかけの線が一気に二センチほど伸びた。
「呪いが進行した……?」
その瞬間を見るのは、初めてだった。
血を吸って進行するものだとは聞いていたし、たまに痛むとも言っていたけれど、あまりに淡々と語られていたから、そこまでひどい痛みだとは思っていなかった。けれど、一気に彼の顔は青ざめ、呼吸もやや荒くなっている。間違いなく、呪文がもたらす症状だろう。
「リンネ、時間がない」
「わかってる」
私は自分の胸に手をあてた。
(落ち着いて、私)
願いながら、『手当て』すると、自分の体の中の魔力が循環し、震えは止まった。
私は息を吸い込み、クロードにうなずいてみせた。
レットラップ子爵から差し出されたインクに針をつける。普通のインクよりも粘質が強く、引き上げたときにもインクは針先にしっかりまとわりついていた。
私はそれを、レオの胸にそっと刺す。
(うう。痛そう)
自分が刺されたわけでもないのに、痛いような気がしてしまう。詰めていた息を吐き出して、再び針をインク壺に戻す。あとは繰り返しだ。
レオは痛みに顔をしかめていたけれど、声には出さず、ただ静かに私の手もとを見つめていた。
女性恐怖症となったあの日を、追体験しているようなものだ。怖いだろうし、つらいだろう。彼が感じている苦痛は、正直私には想像しきれない。
私はクロードから見せられた紙の通りに、レオの肌に針を刺していった。三角をひとつ、またひとつ。
けれど途中で、再び魔法陣の線が伸びていく。
「また? 進行が早すぎる!」
クロードが悲鳴のような声をあげた。
私は、自分の手が震えてくるのがわかった。
集中力が途切れ、胸に宿る弱気にとらわれてしまう。
本当に私で大丈夫なの? 小説のヒロインはローレンなのに。
もしここで失敗してしまったら、目の前でレオが死んでしまうかもしれない。私のせいで、すべてが駄目になってしまったら、どうすればいい?
手の震えが止められない。自分に『手当て』をする精神的余裕さえ、なくなってしまった。
「リンネ、もっと力を抜け」
私の様子を眺めながら、レオがつぶやく。
「でも」
「失敗したっていいんだ。お前が不器用なことくらい、俺だってクロードだって知ってる」
レオがとんでもないことを言いだすので、私は睨んでしまった。
「よくないよ。失敗したらレオ、死んじゃうんだよ? 本当にわかってるの?」
思わず怒ってしまったけれど、レオは微笑んだままだ。
「俺は、後悔はないんだ。この八年間を思い出せば、楽しい記憶ばかりだった。命を預ける相手がお前で、よかったと思ってる。ここで終わったとしても悔いはない」
ほら出た、無欲。冗談じゃない。死んでもいいなんて、八十歳過ぎたおじいちゃんになってから言うことだよ。もっと生きる意欲を見せてよ。
「私は、嫌だよ」
腹が立っているのに、涙があふれそうだ。悔しいし、悲しい。レオが、生きることに執着してくれないことが。
「嫌……って言っても、仕方ない。そもそもこの呪文はお前のせいではないし、責任なんて感じなくていいんだ」
「責任とかじゃなくて、ただ嫌なんだよ。自分が役立たずなのが嫌だし、訳のわからない魔術なんかでレオを失うのが嫌。レオがいなくなったら、私この先、誰と走ればいいの!」
レオが目を見開く。私は吐き捨てるように続ける。
「ほかの誰も、一緒に走ってなんかくれない。レオだけだもん」
私が救ってくれたとレオは言うけれど、救われていたのは私の方だと思う。
突然、前世の記憶がよみがえって、パニックになっていた私はおかしな言動もいっぱいした。あきれたり驚いたりしながらも、レオはそれを全部受け止めてくれた。一緒に走ろうって言ったときも、私の気が済むまで付き合ってくれた。
走り終えて空を見上げたあの時間に、私がどれほど救われていたか、レオはわかっていないんだ。
「ひとりになったら走れないよ、レオ。私にはレオしかいないのに、どうして平気で置いていこうとするの」
自分でも驚くほど、弱気な声がでた。
助けてほしい。独りぼっちにしないで。
レオを助けようとしている私が、彼に助けを求めるなんてなんかおかしいけれど、私には頼る人がレオしかいない。
「ひとりは嫌だよ。レオと一緒にいたい」
ひどく甘えた声が出て、私は恥ずかしさにうつむいた。
「リンネ」
レオの声に、力がこもった。
先ほどまでと違うその力強さに、私は顔を上げた。彼は手を伸ばし、私の左手を、励ますように握りしめる。気のせいかもしれないけれど、瞳に生気が宿ったように見えた。
「わかった。生きる」
突然、はっきり宣言された。
レオが生きる意欲を見せてくれた。それが私にはとてもうれしい。それだけで、私の胸にも勇気が生まれてきたような気がした。
「絶対にひとりになんかしない」
「うん、……うん!」
さっきとは違ううれし涙が込み上げてきて、私の頬を伝っていく。
「泣くなよ」
「これは、感動してるからだもん」
私はもう一度針を握りなおし、レオの胸の魔法陣へと手をあてた。
すると不思議なことが起こった。体の中から、急速に魔力が吸われていく。それは私の手から針を伝って、レオの体の中へと吸い込まれていく。
やがて、未完成な魔法陣が光り出した。まぶしすぎて、周りが見えなくなるのと同時に、さらに体から魔力が吸い取られていく。
「リンネ?」
レオの声がする。だけど私は、体から魔力をすべて搾り取られて、自分の体すら支えられない。
やがて、レオの胸の魔法陣がかすんでいくように見えたけれど、それが、私の視界がかすんでいるからなのか判別がつかなかった。
「ティンー!」
朦朧とした意識の中で、ソロの叫び声を聞いた気がする。だけど、本当にソロがいたかどうかは、そのまま意識を失ってしまった私には、わからなかった。




