私だけじゃなかった・5
湯あみを終え、あとは寝るばかりの状態で部屋にいると、ノックの音がした。
「入れよ」
姿を見せたのは、予想通りクロードだ。
「思ったより落ち着いてるんだね。レオ」
クロードは苦笑しながら室内に入ってきて、俺の私室に備えつけられているソファへと腰を下ろした。
「なんの用だ?」
「様子を見にきたんだよ。リンネの発言について、君がどう思っているかも聞きたかったし」
俺は、クロードの向かいに腰を下ろした。
「悪魔に殺されるというやつか? さすがに驚いたが、あの魔法陣が胸に描かれ始めたときから、そう遠くないうちに死ぬのだろうとは思っていた。だからべつにショックはないな」
「そう」
むしろ、クロードの方が疲れた顔をしている。
彼は長いまつげを伏せ、言葉を捜しているかのように、しばらくの間黙っていた。
俺自身は、自分のことだからか、思いのほか冷静に受け止めていた。
この呪文が、おもむろに成長を始めたのは三年前。一年かけて線を胸のあたりまで伸ばし、そのあとは、円を描き始めた。
クロードと一緒に魔導書を調べ、これが魔法陣を描く呪文だったのではないかという結論に行き着いたのは、二年前だ。
魔導書によれば、魔法陣とは本来は床や地面に描かれ、召喚魔法に使われるものらしい。なにかを呼び出すときや、逆になにかを転移させるときなどに使われるそうだ。
胸の上に描かれ始めたことから、俺たちは心臓をどこかに転移させるのではないかと結論づけていた。
とはいえ、現実に対応策はない。どんな施術法をもってしても、描かれた呪文を消すことはできなかった。ココテインだってリンネの『手当て』だって、痛みは消してくれても、魔法陣の成長を止めることはできなかったのだ。
線が伸びるときに体が激しく痛むが、それ以外で日常生活に不便はなく、不安にさせるだけの内容をリンネや母親に教える気にはならなかった。死ぬのが自分だけなら、被害はそれだけだ。
王家の後継者は、俺がいなければ傍系に移るだけ。そしてその場合の王位継承候補者はクロードであり、人柄からいっても能力からいっても、なんの問題もない。
だから、俺はリンネには魔法陣のことを内緒にしたまま、最期の時を迎えるつもりだった。
「リンネにその情報を教えたのは誰なんだろうな」
ずっと疑問に思っていたことを口に出す。
「味方であればいいけどね。リンネが騙されていたら困るよ」
クロードが心配そうに言う。だが、それに関しては、自分でも意外なほど安心していた。
「ああ見えてリンネは疑り深いぞ。学内の友人だってほとんどいなさそうだった。そのリンネが信用すると言いきっているんだから、大丈夫なんじゃないか?」
単純で感情がすぐ表に出るリンネは、上手に嘘をつくことなどできない。リンネが信用するというくらいなら、そいつはいい奴なのだろう。
だが、クロードは納得しきれていないようだ。
「リンネがどれだけ信じていたとしても、国にとって有益な人物かどうかは別問題だ。魔法陣の内容を知っているならば、ジェナ様の関係者という線が濃厚だろう。そうでなかったとしても、リトルウィックの関係者ではあるよ。野放しにしておくわけにいかない」
「……なら、調べてくれ」
渋々そう告げると、クロードは不満そうに口を真一文字に結んだ。いつも笑顔の彼がこういう表情をするのは珍しい。
「なんか怒っているのか?」
「なぜ君がそんなに落ち着いているのか、理解に苦しむよ、レオ」
「そっちこそ、なぜそんなに熱くなってるんだよ、クロード」
「君が死ぬかもしれないと知って、平気でいられるわけがないだろう?」
軽く机をたたく。
いつも穏やかで笑顔を絶やさないクロードが、感情をあらわにするのが珍しかった。
「俺が死んだら、次期王はおそらくクロードだ。それを喜ぶ気にはならないか?」
クロードは、俺のはとこにあたる。現状では、王位継承第三位にあたるが、第二位であるクロードの父親は、年齢から順当にいけば、父上よりも先に死ぬ。つまり、クロードが事実上の王位継承第二位だ。
「怒るよ、レオ」
「もう怒ってるじゃないか」
「僕は、君があきらめているのが気に入らないんだよ」
あきらめてなどいない。ただ受け入れていただけだ。呪文は消せない、ならば受け入れるのが一番傷つかない。それが誰も傷つけない最良の方法だと思っていた。
ほうけた俺にため息を吹きかけて、クロードは立ち上がった。
「僕は君を生かすために九年費やしてきたんだ。熱くなって当然だろう。魔法陣が完成するまでに、まだ時間はある。やれることは必ずあるはずだ。それに、リンネのことをどうするつもりだよ。あの子を未亡人にする気じゃないだろうね」
「まだ結婚していないだろうが」
「婚約者にまでなれば同じようなものだよ」
クロードはそう言うが、リンネは最初から、解消前提でこの婚約を受けていた。
「あいつが俺と婚約したのは、……ただの同情だ」
クロードはじっと俺を見つめていた。あきらめたような顔が気に入らないのか、不機嫌そうに眉を寄せている。
「レオは考えが独りよがりすぎるよ。君に死ぬ覚悟ができていても、僕やリンネはそうじゃない。君が死んだらリンネが泣くだろ? 好きな女性を泣かせてもいいのかい」
「そのときはクロードがいるじゃないか。お前だってずっと、リンネのことを……」
クロードの体がびくりと跳ねる。兄のように恋人のように、クロードの瞳がリンネを追っていたことくらい、気づいている。そのたびに俺は、嫉妬まがいの感情に胸が焼けそうだった。
だが、クロードはゆっくり首を横に振った。
「あいにくだけどね、僕はもうだいぶ前に、気持ちの整理をつけている。リンネは君にこそ必要な人だ。相手のいる女性に横恋慕するほどマゾじゃないよ」
「俺には、な。だがリンネにとってはそうじゃない」
リンネは俺を、幼馴染み以上には見ていない。いつだって、大人なクロードの方に心を許している。
「リンネの気持ちを思えば、俺は婚約などするべきじゃなかったのかもしれない――」
それでも、そう遠くない未来に死ぬのかもしれないと思ったら、少しだけ欲が出た。せめて死ぬまでの間だけでも、リンネを独占したくなったのだ。
本当は、学園には戻らず、放課後をリンネと走り回って過ごしたかった。復学を受け入れたのは、あまりにリンネがしつこかったのと、婚約を了承させるのに、都合がよかったからにすぎない。
リンネに伝えるには、あまりにも独りよがりで情けない願いだ。だから、〝復学のための女よけ〟という建前は、俺にとって都合がよかった。
これまでの思いを、神妙に告げると、クロードはぱたんと魔導書を閉じ、その太い本で俺の頭をたたいた。
「痛いじゃないか」
「馬鹿なことばかり言うからだよ。僕はあきらめないよ。君を死なせない方法があるはずなんだ。そのためにずっと研究しているんだからね。見くびらないで欲しい」
目の前で、あきらめているのはお前だけだと突きつけられ、苦しくなる。死がわかっているならば、あきらめたほうが楽だ。その方が、余計な希望を抱かなくて済む。そう思うのに、クロードはそんな俺を馬鹿だという。
「俺は……」
「リンネを泣かせたら承知しないよ、レオ。君はもっと欲張りにならないといけない」
そう言うと、クロードは、これ以上は聞かないとばかりに部屋を出ていった。
俺は、胸のざわつきを抑えられないまま、目を伏せた。




