引きこもりの王太子様・1
「ティン!」
甲高い声が聞こえて、私は深い夢の中から引っ張り出された。とはいえ、まだ目は開かない。開けたくない。高校生はいくら寝ても寝足りないのだ。まどろみのなかで、必死に抵抗する。
(まだ朝じゃない。気のせい! もうちょっと寝かせて!)
「ティン!」
しかし、声は止まらない。そのうちに、頬になにかふわふわのものが押しつけられた。
(く、くすぐったい……!)
頬をかこうとして手を動かすと、指がふわふわのやわらかい毛とぶつかった。これはどう考えても人間ではない。そこで私はようやく目を開けた。
「ええ?」
目に入ってきたのは、白く小さな獣だった。私の頬に、ふわふわの尻尾を擦りつけている。
(犬? でも尻尾が太すぎる。 むしろキツネっぽい? え、でもキツネの鳴き声って『コーン』じゃないの?)
獣は、私が目を開けたのに気づくと、満足げに「ティン」と鳴き、背中を向けて走りだした。
「え、ちょっと待って……」
獣を追おうと立ち上がったとき、私は、自分の姿が変わっていることに気づいた。
「え? ええ? なにこれ」
鏡がないので顔を見ることはできないが、確認できるすべてが違っていた。胸まであるウエーブの金髪。袖口にふんだんにレースが使われた水色のドレス。透けるように白い肌、甲高い声。身長も、今までよりもずっと低い。
それに、いる場所もおかしかった。太陽は中天にあり、あたりは花がいっぱいで蝶々まで飛んでいる。どう考えても外だ。
(外で寝ていたなんて、あり得る? これ、まだ夢の中なんじゃないの)
そう期待して頬をつねったが、無情にもものすごく痛い。
「待って。落ち着こう、私」
私は自分の胸に手をあてる。昔から怪我をしたときや不安になったときにこうしているので癖になっているのだ。
治療することを、日本語で『手当て』と言うが、あれは医療が発達していない頃、本当に病気や怪我を、手をあてて治していたことからついたと言われている。
私は子供の頃から足が速く、有望選手として多くの大きな大会に出てきた。当然、怪我も多く、精神的にもつらいことが多かった。そこで、メンタルコントロールの一環として『手当て』を始めたのだ。気休めかもしれないが、実際に、怪我も心もよくなるような気がしたのだ。
「うん。落ち着いた」
私は大きく深呼吸をした。すると今度は、滝のように記憶が流れてきた。
金髪の女の子の、生まれてから八歳までの記憶だ。名前はリンネ・エバンズ。伯爵である父親と母親に溺愛されて育った、ちょっとわがままな女の子だ。動きは鈍く、どんくさい。けれど、あざといところがあり、母親に似たつり目の美しい顔で周囲の大人を篭絡し、これまでとくに困ったこともなく生きてきた……ようだ。
「なに今の記憶……?」
情報量が多すぎて、私の頭が追いつかない。ただ、最後の記憶と思われるのが、花壇に足を引っかけて転んだところだ。それは、庭園の遊歩道で倒れている現状とも一致する。
「わからない。誰か説明してよ」
体が『金髪の少女のもの』である以上、リンネの記憶が正しいに決まっている。だとしたら凛音の記憶はなんなのか。
「異世界転生とかいうやつ? それとも、この体を乗っ取っちゃったとか?」
私自身は読んだことがないけれど、琉菜が読んでいた本では定番の設定だと言っていた気がする。要は、他人の体に心だけ入り込んでしまったと考えればいいのだろう。
(つまり、私はリンネ・エバンズになってしまったってこと? 同じ名前つながりとか?)
不思議と、リンネの基本知識は、記憶を探るとポンと出てくる。
いきなり違う人生を歩むなんて、ピンとこないけれど、なんとかなるような気はした。
(でも、こんなところでひとりでいるのはきっとまずいよね。保護者を捜さなくちゃ)
ついでに、今の自分が、本当にリンネ・エバンズであるかどうかも確かめたい。鏡が必要だ。
だが、庭園に鏡などあるはずもなく、一番手近と思われた窓は背が届かない。
(まずは庭園を抜け出すことからかな)
目標を定め、改めて周囲を確認する。ここは庭園で、遊歩道の両側にレンガ積みの花壇があり、赤、紫、黄色と色とりどりの花が綺麗に並び咲いている。
花壇の奥には石壁が見え、見上げると、それがそびえ立つ城の一部であることがわかった。
(遊歩道もそこそこ広いのに、いったいなににつまずいて転んだんだろう、私。どんくさいなぁ)
凛音のときならば絶対にしないであろう失態に、恥ずかしくなってくる
体の自由度を確認する意味も込め、私は走ってみることにした。靴も皮製だし、ひらひらのドレスを着ているから大したスピードは出せない。でも、転ばずに走れていることに感心した。
凛音がはいたことのあるスカートの長さは、制服が最長で、せいぜい膝下五センチ程度だ。足にまとわりつく長さのドレスを上手にさばけるのは、きっとリンネの体に身についている所作のおかげだろう。
(機動力はあるのはありがたいよね)




