流れる月日と進行する呪文・2
* * *
腕に針を刺したような痛みを感じて、俺は目を開けた。
あたりはまだ暗闇だ。俺は、自分で体を抱きしめるようにして、痛みが治まるのをじっと待った。
人を呼ぶことはない。毎晩とは言わないが、数日に一度のペースで痛むため、すでに慣れっこになっている。
この文字をおばに刺されてから、もう六年。俺は十四歳になっていた。
(だが、痛む場所が変わったな)
今までは、文字が刻まれた場所が痛かった。だが最近は、少しずつそれより上が痛むようになっていた。
(ココテインがあればいいんだが)
リンネが二年前にくれた不思議な飲み物は、疲労を回復するだけでなく、腕の痛みもとり去ってくれた。あれ以来、定期的にもらって、腕が痛んだときに飲んでいる。ちょうど数日前になくなったばかりで、まだ新しいものをもらっていないので、今は我慢するしかない。
リンネは、『手当て』でこの文字を消せないのを悔しがっているが、ココテインをもらえただけでも、ずいぶんと楽になった。
俺は寝返りを打ち、大きく息を吐き出した。リンネのことを考えていると、心が軽くなっていく。彼女には振り回されることも多いが、あの前向きさに、ずいぶん救われている。
「落ち着いてきたな」
痛みの治まった腕を離し、俺はランプに明かりをともした。そして服を脱ぎ、あらわになった上半身を鏡に映す。
腕の入れ墨の文字を確認する。最初は黒かったそれは、刻まれてからのこの六年間に、少しずつ赤黒くなっていった。
微妙ではあるが、変化は変化だ。だが、これが、いい方向に向かっているのか悪い方向に向かっているのかが判別できなかった。
そして今日は、さらに違った変化があった。
「線が伸びてる?」
文字の先が、まるで血管をなぞるように五センチほど肩の方に向かって伸びていた。
「なんだ、これは」
今までにない変化に俺は焦った。
五年前、リンネが『これが古代文字に似ている』と言ってから、クロードは古代語について調べている。魔術書の入手にずいぶんと苦労していたようだが、今年に入って、ようやく入手先が見つかったと言っていた。最近は寝る間も惜しんで読んでいるようだ。
その後、クロードはなにか手がかりを掴んだのだろうか、と考えていると、突然ノックの音が響いた。
「誰だ!」
深夜に訪問者が来るときはろくな連絡じゃない。
焦って叫ぶと、「僕だよ。起きているのかい、レオ」とクロードの声がする。
俺はホッと息を吐き出し、慌ててベッドに投げ出したままの夜着を身に着けた。
「入っていいぞ」
すぐに扉が開けられ、夜着の上にガウンを羽織ったクロードが顔を見せる。
「窓から君の部屋に明かりがともったのが見えたから気になってね。大丈夫かい? 具合が悪い?」
人好きのする笑みで、彼はそう言う。
おばのもとから救出されてしばらくの間、クロードは俺と同室で寝てくれた。悪夢に怯えて何度も起きる俺に怒ることもなく、落ち着くまでずっと、背中をさすってくれていた。
俺にとって、クロードは全幅の信頼を置ける相手なのだ。
「お前はずっと起きていたのか?」
「いろいろわかってきたからね。調べきってしまいたかったし」
クロードが魔術書を見せてくれる。
寝る間を惜しんでまですることではないと言いたいけれど、彼がそうやってかけてくれる気遣いがうれしくもあり、俺はかける言葉を見つけられない。
「なにかわかったか?」
「うん。この文字が古代語で、呪文であることは間違いないね。レオ、……魔法と魔術の違いってわかるかい?」
クロードの問いかけに、俺は首を振った。
「魔法とは、超常的な力であり、使える人間は限られている。対して魔術は、人工的に再現した超常的な力を指すんだ」
「違いがわからない」
俺は素直に答える。
「リンネが見せてくれた、あの癒しの力は魔法だ。法則性もよくわからないし、再現もできない。ただ、リンネだけが使える力だ。そうだろ?」
俺はこくりとうなずく。リンネは呪文を唱えるでもなく、ただ願うだけでやってのけた。
「対して、君の腕に刻まれた呪文は〝魔術〟だ。魔術は、こんな教本が作られるだけあって、一定の手順と道具、材料がそろえばある程度再現することができる。逆を言えば、魔術は構造がわかれば破壊することもできるはずなんだ」
頭の中に光が差したような気がした。少なくとも、対抗不可能な力ではないことに希望が湧く。
「ただ、残念ながら、僕にはまだ、君の腕に刺された呪文の目的も構造も掴めていない。手に入っている魔術書は入門書だから、これ以上のことはわかりそうにないんだ」
クロードの顔に少し疲れが見える。
「調べてくれるのは助かるが、ちゃんと寝ないとクロードが倒れるぞ」
「わかってるよ。つい、夢中になってしまっただけだ」
クロードはやわらかく微笑んだ。その気遣いに感謝しながら、俺は笑い返す。
「で、君はどうして起きたの? なにかあったのかい?」
「腕に痛みがあってな」
「痛み? ちょっと見せてくれる?」
促されるまま、袖をまくり上げて腕を見せた。クロードもすぐに、呪文から伸びた線に気がつく。
「どうしたんだい、これ」
「わからない。確認してみたら伸びていた。風呂に入ったときは気づかなかったから、痛みと共に伸びたんじゃないかと思うんだが」
「まるで呪文が生きているようだね。よく見てレオ、この線、細かな文字で書かれている」
明かりを近づけてじっくり見れば、たしかに線は細かな文字が並んでできたものだ。
「気持ち悪いな」
「やっぱりもっと上級書を調べないと駄目だね。この呪文は成長して新たな効果を引き出すのかもしれない」
クロードが疲れたようにため息をつく。たしかに頭の痛くなるような変化だ。
(これ以上、なにが起こるんだ? 人間全員に触れなくなるのか。それとも、命を脅かされるのか)
無意識に身震いをした俺を、クロードが心配そうに見つめた。
学園を卒業し、王城での執務にあたるようになったクロードは、魔術研究のチームを立ち上げた。ごく少数のメンバーで構成されていて、機密保持が楽になったぶん、調査がはかどるようになったとクロードは言っている。
「今度、交易商から上級魔導書を入手してもらえる手はずになっているんだ。それが届けば、もっと多くのことがわかると思う。……とりあえず呪文に変化があったことだけは、報告しておくね」
「父上にか?」
「王妃様も心配している。それにリンネも」
「リンネには言うなよ」
心配して泣かれても困る。リンネは感情豊かで、すぐ怒ったり泣いたり笑ったりする。笑われるのはいいが、泣かれるのは嫌だ。
「どうしてだい? リンネは君の数少ない理解者だ。全部わかっていてもらった方がいいんじゃないのか?」
「リンネの『手当て』でも消せないような呪文だぞ? いたずらに心配させたくないと言っているんだ」
「あの子なら大丈夫だろう。むしろそれを上回る勢いで君を救ってくれる」
その言い方が引っかかった。誰にでも愛想はいいが、誰のことも信用はしていないクロードが見せるリンネへの信頼に、胸がざわつく。
「なにかあったのか、リンネと」
「いや? ……ただ、前から思っていたけれど、おもしろい子だよね。ついこの間、ただ疲れていただけだったのに、落ち込んでいるように見えたらしくて、心配してくれてさ。それでリンネ、なんて言ったと思う?……一緒に走ろうだって」
クロードは苦笑している。俺もその場面を想像して、思わず笑ってしまった。
「リンネは走れば誰でも元気になると思ってるんだ。……で、走ったのか?」
「疲れていたから遠慮しておいたよ」
「そうか」
クロードの返事に、俺はホッとした。
走らなくて正解だ。走り終えた後のリンネを見たら、誰だって魅了されるに決まっている。目をキラキラとさせて、とても楽しそうに笑う。汗だくのくせに綺麗に見えるなんて反則だ。
(ほかの誰にも見せたくない。あの笑顔は、俺だけのものにしておきたい)
「とにかく、リンネには呪文の全容があきらかになるまでは伝えないでくれ。できれば母上にも」
「仕方ないね。でも陛下には報告するよ。僕は陛下から君を頼まれているんだから。いいかい?」
「わかった」
渋々ではあるが、俺はうなずいた。自分を大切に思ってくれる父親の愛情を、複雑な気分で受け止めながら。
「じゃあ、この話はここまでにしよう。レオ。ちゃんと寝ないと、体が持たないよ」
「それは、一言一句残らずお前に返す」
クロードはくすりと笑うと、俺をベッドに誘導した。寝つくまでいるつもりなのか、自分は椅子を持ってきて座る。
「おやすみ、レオ」
「……おやすみ」
夜の静けさに、クロードの息遣いが交じる。落ち着かずに、俺は何度も寝返りを打った。頭の中で考えていることが、口をついて出てしまいそうで怖かったのだ。
俺は自分の手のひらを見た。十四歳になり、手の大きさは大人のそれと同じくらいにはなったが、それだけだ。なにも守れないどころか、自分のことさえままならないほど弱い。
対してクロードはもう十八歳。この国の成人であり、大人だ。得体の知れない呪文についても、根気よく調べ、少しずつでも結果を出してくれる。実直で穏やかで人に優しい。俺にとって、目指すべき理想の男だ。
そばにいれば、誰でもクロードに好意を抱くだろう。
だから、リンネが、クロードに笑いかけると変に胸が軋む。俺にとってリンネは唯一の人でも、彼女にとってはそうじゃない。
『クロードは、リンネが好きか?』
答えを聞いてしまったら後悔するに違いない質問を頭から追い出したくて、俺は再び寝返りを打った。




