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この世界の彼方まで  作者: 黒宮涼
この世界の彼方まで 主なき雫
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序章

 ――恐ろしいもの来るぞ。災害よりももっと恐ろしもの。覚悟せよ、大切なものすべて捨てる覚悟ぞ――


                         『大神様の予言書』より一部抜粋


         *


 かつてその国は、神の国と呼ばれていた。そこは人間と神々が仲良く暮らしていた。しかしいつしか神々はその国からいなくなり、残されたのは友を失った人間たちだった。

 神々がいなくなってしまった理由を知る者はいない。

 ただ、空の上で人間たちを見守っているのかもしれないとかの者は言った。

 真実を知る者はいない。


         *


 大きな雷鳴がとどろき、音を反響させていた。

 雨が降っているように見えるが、それが本物ではないことを窓から見つめていた少年は知っていた。彼の名はシノグ。本来の名前であったものは捨て、今はただのシノグだ。しかしあえてかつての習わしであった苗字をつけるのなら、ハヤミ・シノグだろうか。ハヤミはシノグの恩人の苗字だ。シノグは彼のことを先生と呼んでいる。

 こちら。地下都市メイにシノグが来てから一年半。ハヤミ・ヒイラギと出会って一年になる。ヒイラギと出会う前の記憶はあまり思い出したくないが、今日のような日は嫌でも思い出してしまう。

 シノグは窓の外から視線を外し、身の丈に合っていない白衣を着たままベッドに寝転がる。顔の左側を、長い前髪をかきあげながら左手で抑えた。

「どうしたシノグ。顔が痛むのか」というヒイラギのいつもの声が、今日は聞こえなかった。

 今朝、ヒイラギは「大事な用がある」と言っていた。そんな日は大抵、シノグは研究所で一人きりだった。自分を置いていってまで済ませなければいけない用。とはいったい何なのか。最初のころは自分も連れて行けとごねたが、最近は言わなくなった。大人になったからではない。ヒイラギがいつもどこへ行くのか察したからだ。

 地上都市彩。シノグが最もおそれるその場所。思い出したくもない陰惨な記憶がある。突如として襲ってくるそれに対抗するすべを、シノグは持たない。ただもだえ苦しみ、のた打ち回り、息をするのも億劫になりながらヒイラギのことを思い出し、落ち着きを取り戻す。その繰り返しだった。

 顔なんて痛むはずもない。――ないのだから。そこにあった肌の色も眉の色も瞳の色も。存在しないのだから。ただ影のような闇が残っているだけなのだから。

 そうして、どのくらいの時間が経ったのだろう。研究所と名だけついた屋敷の扉が開く音がした気がした。

 シノグは閉じていた目を開ける。彼のいる部屋から研究所の入り口まではわずかながら距離があり、扉の音が聞こえるはずもないのだが。ヒイラギに早く帰ってきてほしい気持ちからか、いつもより耳がよく働いた。

 シノグはゆっくりと起き上がり、ベッドから降りた。

 白衣のしわを手で撫で伸ばしながら、部屋の扉を開け、廊下へと歩いていった。

 屋敷の広間へでると、まず目に入ってきたのはヒイラギの姿だった。ヒイラギは大事そうに白い布にまかれた何かを抱えている。


「先生。おかえりなさい」


 シノグはヒイラギの姿に安堵しながら声をかけた。

 しかし彼は返事をする代わりにこう口にした。


「ああ。シノグ。申し訳ないね。すぐに湯を沸かしてくれるかい」


 困ったように眉を寄せるヒイラギに、シノグは濡れるはずもない雨にあたったからヒイラギがそう言ったのではないと理解した。ヒイラギはシノグの返事も聞かずにそれに視線を落とす。


「あぅ……あぅ……」


 布の隙間から、赤ん坊のように小さな手が伸びた。助けてと言わんばかりに、一生懸命に伸ばしていた。その手を、ヒイラギの大きな手が掴む。


「大丈夫だ。カナタ」


 消えてしまいそうなかすれた声を出して、ヒイラギは赤ん坊の手を愛おしそうに自分の頬に触れさせていた。

 その様を、シノグは初めて映画を鑑賞しているときのように当惑しながら見ていた。ヒイラギのそんな表情を、シノグは今まで見たことがなかった。自分にすら向けたことがないように思える。一瞬だけ心の中がざわついた。


「先生。それはいったい――」


 シノグは首をかしげる。


「後で説明するよ」


 ヒイラギはシノグのほうを見て柔らかく笑った。けれどその姿は疲弊しているように見えたので、何も聞かず言われたとおりに動こうとシノグは思った。


「あぅあぅあ……」


 赤ん坊がシノグのほうへ手を伸ばした。シノグは思わずその手に触れる。小さくて温かくて柔らかい手だった。

 それが三人での生活の始まりであり、すべてだった。シノグはこの日のことをずっと忘れないでいようと心に誓った。

 カナタの小さな手を、ずっと守っていこうと思った。



         *


 群青色の空が昇る煙で黒く染められていく。

 地上都市唯一の山の中腹に建てられた火葬場には職員である背の高い青年と、遺族であるまだ年端も行かない少年がいるだけだった。それまで主流だった埋葬は衛生上の理由からつい最近廃止されたばかりで、見慣れない真新しい建物だったが、その色は煤でも被ったように灰色をしていた。

 少年は唇を真一文字に閉じ、必死に涙をこらえている様子だった。見かねた職員は彼に声をかけようとしたが、やめておいた。話しかけるなとその背中がいっているような気がした。こうしている間にも母親の遺体は煉獄れんごくの炎に包まれて天へその身を還しているだろう。

 少年の名は季野吉之きのよしゆき。たった一人の肉親である母親を亡くしたばかりだった。頼れる親戚などはいない。母親からその存在すら聞いたことがなかった。それには理由があった。

 母親の出生が地上都市彩ではないこと。これを知ったのは母親が病気で亡くなる直前だった。ではどこから来たのか、吉之は尋ねるまでもなく理解した。母親は地下都市メイの出身だったのだ。それは絶対にあり得ないというわけでもなかったが、畑でとれる人の足みたいな形をした大根ぐらいに稀だった。 

 どこかで拾ってきたのではと思うくらいのぼろ箪笥の奥深くには、似つかわしくないほど煌びやかな衣装が仕舞われていたことを、吉之は知っていた。ずっと疑問に思っていた。売ればいくらかの金になるはずなのに、どうしてだろうと。そうしたらうちは貧乏ではなくなるし毎日のように畑仕事をやらなくても良くなる。メイにだって住めるようになるかもしれないのにと子どもながらに思っていた。

 この土地の地下には都市がある。貴族や王族。富裕層だけが住める。お金さえあれば労せず暮らせる場所だった。


「お父さんを恨まないでね」


 と母親は言い残してこの世を去った。

 父親の存在があるということさえ吉之は知らなかった。誰からも教えてもらう機会などなかった。父親はメイにいるらしいという情報だけが吉之に残されたものだった。名前をリクといった。名のある貴族なのかどうかさえ吉之にはわからない。

 身寄りのない吉之はどこへ行く当てもなかった。齢十二歳。今後はひとりで暮らすつもりだった。この年齢の子どもがひとりきりで生きていけるのかと疑問ではあるが、吉之は母親が生きていた頃から教育学校などというものには通ってはおらず、衣食住さえ何とか出来れば暮らしていけるはずだった。

 そして時を見て父親を探そうと思っていた。


「なぜ母を捨てたのだ」


 と吉之は彼に問うつもりでいた。

 それにはまず地下に降りなければならない。お金があれば今すぐにでもいけるはずだが、そんなものはなかった。お金を必要としない方法をなんとか探り当てることに尽力しよう。このとき吉之はそう決意していた。

 しかしそれを許さない大人たちがいた。吉之は拒否したが、火葬場の青年の余計な親切で孤児院に入れられてしまったのだ。

 それからの数年間で吉之は父親への憎悪を膨らませてしまっていた。施設では誰とも話さず、いつもひとりでいた。吉之は孤独の中、憎しみという一つの感情だけを育ててしまった。

 ある時ついに地下へ降りる方法を見つけてしまった。その時の喜びようと言ったらなかったが、困ったことにそれはあるものを身につけなければならなかった。

 吉之は孤児院で初めてのわがままを言い、人生で初めての学校へ通うことになった。

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