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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

死んだはずの先輩が、毎日家に帰ってくるんですが

作者: 鳥籠茶

結果と考察は必ず分けること。


ごちゃまぜにしないこと。


結果を無視しないこと。


考察は、結果に基づいて行うこと。


それが私が、先輩に教わったこと。



先輩から教わったことを記憶の中で反芻していると、ポケットの振動でメッセージアプリの通知に気が付いた。アプリを開いて内容を確認する。そこに書かれていたのは、教授からの論文を催促する連絡だった。


論文の〆切は二週間後だ。まだ一度目のチェック提出も済ませていないことを考えると妥当な連絡、というよりは、緊急に近い連絡だろう。


私はそのメッセージに『明日までには必ず提出いたします』と返信を入れると、アプリを落としてスマホの電源を切った。手にしたそれを、ソファの向こうに投げる。がん、という鈍い音が響いたが、壊れてないと思いたい。論文自体は九割がた完成している。ただ私は、自分自身の結論のために、ひとり駄々を捏ねて提出していないだけだ。


私は薄手の毛布を頭から被り、それ以上論文について考えるのをやめようとする。これ以上完成を先延ばしにすれば投稿はできないだろうな。頭の片隅で、まだ理性的な部分の私が考える。しかしながら、それでも構わない。そう、理性以外を担当する私が判断してしまい、残りの思考は塗り潰された。


窓の外から、嫌に眩しい光が部屋に降り注ぐ。まだ早い時間だ。一日がこれから始まる合図。私は目を細めると、私を照らそうとするそのスポットライトから隠れるように、床に腰を下ろしてソファの蔭へと潜り込んだ。ソファのひじ掛けに頭を預け、手探りで床に落ちているはずの灰皿を拾う。重量のある灰皿を引き摺ると、ジャージのポケットに手を入れる。寝る前にポケットの中を空にしたことを思い出して、ふう、とため息を吐いた。どうあっても、この身は焼かれる運命らしい。


床に手をつき、ゆっくりと体を起こす。この短時間で陽はさらに高く昇り、もはや部屋には赤く照らされていない空間の方が少なくなっていた。運動不足でぎしぎしと鳴る体を持ち上げ、見慣れた部屋を見回す。何年も見た部屋。もともと物の少ない部屋なので、目当ての物はすぐに見つかった。ソファ脇のローテーブルに捨てられた、シガーマッチとカッター。それとモンテクリストを一本だけ拾う。ソファに座り直すか、床に座るか。一瞬だけ悩んだ末に、私は再び床に座った。なんとなく、今はソファには座りたくなかった。それは、日に当たるのが嫌だっただけかもしれないし、ソファに座ると嫌なことを思いだしそうになるからかもしれない。本当のところは、私にもわからない。少しだけもやもやした気持ちを抱えたまま、カッターでモンテクリストの口を切る。ぱちん、と爪を切ったような軽い音が部屋に響いて、吸い口が葉と共に灰皿へと落ちた。マッチを箱から取り出して、火を点ける。じっ、というマッチを擦る音の後に、その先端から火が上がる。


赤く照らされた部屋の中で、一際強い赤が、手元に灯る。


影を照らすような赤が。


手元を揺らす。


私は大きく息を吸って、ふう、と吐き出す。


シガーを吸う前なのに、その呼気は重くて苦い。


「どこまでが結果で」


どこからが。


私の結論は、まだ出ていない。



+++++++++++++



「ただいま」


玄関先から、やや落ち込んだ、それでいて明るめの声が聞こえてくる。少し前までは、先輩が帰ってくるたびに身を縮こまらせるような寒さがリビングまで届いていたのだけれど、今日は久しぶりに平気だった。どうやら少しづつ、春の気配が近づいているらしい。私はソファから少しだけ身を乗り出すと、廊下の先でビニール袋を抱えた先輩を見る。


「おかえり」


「おかえり、じゃなくて。手伝ってよ」


「夕飯は?」


「今日は鍋がいい」


そんないつものやり取りの後、ぱたぱたと靴を脱ぐ音と、ビニール袋を抱える音、そしてどたどたという廊下を歩く音が耳まで届く。手袋のままビニール袋を抱えて現れた先輩は、ソファに寝転がったままの私に非難がましい目を向けると、手にした袋をずいっと私の眼前に突き出した。袋の端から飛び出したネギと大根がその存在を主張しているときに私は、大根が入っている鍋料理について思いを馳せていた。


「もう、サキちゃん。映画見てるだけなら運ぶのくらい手伝ってよ」


「料理は私が作るんだから、大目に見てよ。それよりミナさん。大根、何に使うの」


先輩は袋を床に置くと、マフラーと手袋を脱ぎながら頭を振った。癖のある赤茶色の髪が、花火のようにぱらぱらと広がり、照明を反射して瞬く。私はその眩しさに、ちょっとだけ目を細める。


「大根はね、安かったから買っちゃったんだ。サキちゃんはどうやって食べたいかな」


そうはにかむと、先輩は手際よくコートとマフラーをハンガーラックへと掛ける。そこには、先輩の掛けたコート以外には私のパーカーだけがぶら下がっていて、先輩は明日もそのコートを着るんだろうな、なんてことを思った。


「大根は、おでんか。ぶり大根くらいしか思いつきませんね」


「いいね、おでん。明日はおでんが食べたいなあ」


先輩は、先ほどまでの不機嫌さが嘘のように、鼻歌交じりに台所へと向かっていく。その姿を見て、思わず笑ってしまう私がいた。私より二つも年上なのに、こうしてみるとまるで年下の妹みたいだ。先輩が子供っぽいのは、別に今に始まったことじゃなく、同じ研究室に在籍していた時からそうだった。外向きの先輩は、身内の贔屓目を抜きにしても、私なんかじゃ比べ物にならないくらいに優秀だった。できる人だった。私が博士課程に進んだのは、進んでしまったのは、彼女に憧れを抱いたからだと言ってもこれっぽちも過言ではない。先輩が私と同じ年齢だった時には既に、海外の著名な論文誌に二本目の論文を投稿し、奨励賞を受賞していたことを考えると、少しだけ胃が締め付けられる気持ちになる。ただそんな先輩も、家では後輩の作る夕ご飯に一喜一憂し、ちょっとしたことで機嫌の移り変わる、子供のように純粋で可愛らしい人だった。


私は適当に流していた映画を止めると、ソファから身を起こす。急に体を起こしたからか、軽い眩暈を覚える。くらくらする頭を押さえつつ、ローテーブルに置いてあったマグカップを手に取ると、中身をぐいと飲み干した。とうに冷めてしまって風味が抜けたコーヒーからは、苦みと、嫌な酸味だけが舌に残る。私は二つ息を吸うと、気分を落ち着けて、それから声を出した。


「先輩、料理は私がしますから。先輩はソファでゆっくりしていてください」


返事はない。私は不安になって、もう一度声をかけようか、少しだけ悩む。時間にして一秒か二秒。もう一度だけ声をかけようと思ったそのとき、台所から声が聞こえた。


「ねー、サキちゃん。お酒知らない」


私はほっとして息を吐くと、もう一度口を開いた。


「お酒も私が出しますから」



+++++++++++++



「食後にコーヒーでも淹れましょうか」


言いながら、私は棚からコーヒーミルを取り出す。先輩が取り出しやすいように、ダイニングキッチンの上から二番目の棚が、コーヒーミルの定位置だった。セラミックの手回し式コーヒーミル。電動のミルは、良いものを使わないと豆に熱が加わってしまって、風味が損なわれてしまうらしい。これも、先輩から教わったことのひとつ。輸入食料品店で買った豆をスプーンですくい、ミルへと移す。心地よい香りも、テレビの音も、がりがりという豆を挽く音が上書きしていく。がり、がりがり。がりがり。そんな音の嵐の中でも、先輩の声だけはクリアに届く。


「ねえ、サキちゃん」


がりがり。


「結論は、出たかな」


がりがり。がりがり。


「論文の提出は、まだ先なので」


ダイニングキッチンのカウンターの向こうで、先輩はゆっくりと首を振る。


その二つの瞳は、まっすぐと私に向けられている。


私は先輩から目を逸らすと、ドリッパーに紙のフィルターをかけた。お湯を沸かすために、冷蔵庫を開ける。ミネラルウォーターのボトルが二本と、チーズの切れ端。あとは卵が一個と、缶ビールが一本だけ。本当は、もう買い物に行った方がいいんだろうな。そんな考えを振りほどき、ミネラルウォーターのボトルを取り出した。挽いたばかりの豆をフィルターに移して、電気ケトルに水を注ぐ。ちょうどボトルが空になったので、ラベルを剥がしてシンク下のゴミ箱に捨てた。そろそろゴミも、捨てないと。


ゴミ箱から視線を上げると、微笑む先輩と目が合った。なんとなく嫌な予感がした。


でも、知っている。私には何もできない。


「子たちよ、わたしはまだしばらく、あなたがたと一緒にいる。あなたがたはわたしを捜すだろうが、あなたがたはわたしの行く所に来ることはできない」


今だけでも耳が聞こえなければ、どれだけよかっただろうと思った。テレビから漏れる雑音も、しゅーしゅーという電気ケトルの音も、先輩の声を遮ることはなかった。きっと耳をふさいでも、先輩の声は聞こえただろう。


「……十三章ですね」


ヨハネによる福音書の十三章。三十三節。口から出てきた精一杯の言葉だった。


「うわ、すごい。よく知ってるね。さすがサキちゃんだ」


先輩は、嬉しそうに微笑んだ。にこにこと、その両目を私へと向ける。


電気ケトルがしゅーしゅーと音を立てる。私はケトルを手に取ると、お湯をドリップポッドへと移す。蒸気がたちまちに視界を奪って、先輩が(もや)のように霞んで見えた。


「先輩が、論文の内容を逆引きできるのと同じですよ。私の場合は、たまたま知っていただけです」


別に私は、敬虔なカトリックではない。ユダヤの言葉も知らない。ただ、読んだことがあるだけだ。聖書は、私が学生のうちに読んでおこうと思ったリストの、上から五番目くらいの本だった。一般的な教養として。或いは安っぽい言い方をしてしまえば、世界的なベストセラーだから。それだけの理由でしかなかった。


お湯をドリッパーへと注ぐと、こぽこぽという音と、香りが立ち上る。私は落ちる雫を、じっと見つめる。


「先輩は、私にいましめを与えたいんですか」


ぽた、ぽた、と音を立てて落ちる雫が、器を満たしていく。その光景は、私に砂時計を想起させる。


ポットに残された雫はもう、そう多くはない。


「そういう訳ではないんだけどね。ただ、そろそろ結論を出さないと」


いつまでも、待ってはあげられないから。


ドリッパーから垂れる雫の音が、秒針のように時を刻む。


ぽた。ぽた。


きっとここが、限界だったということなのだろう。


恐らく、先輩はすべてをわかっていた。いや、私にだってわかっているはずだ。


きっと、先輩は聖書を読んだことはなかったと思う。それでも、私にだけわかるように、引用をしたのだ。


『なぜ、今あなたについて行くことができないのですか』なんて。そんなことを先輩が望んでいないことだって、わかっているはずなのに。


たった今淹れたばかりのコーヒーを、マグカップに注ぐ。私はひとり分のマグカップだけを持って、リビングのソファへと場所を移した。ゆっくりと腰を下ろして、カップの縁から上る湯気をぼっと眺める。いつの間に移動したのか、湯気の向こう側に先輩がいた。テレビの前で穏やかな笑みを湛えて、じっと私を見ている。コーヒーを口に含むと、酸味と苦みが唇を濡らす。鼻を抜けるコーヒーの香りが、いつもより少しだけ強く感じられる気がした。


ソファ脇のローテーブルに手を伸ばして、モンテクリストとカッターを取る。マグカップとは対照的に、ステンレスの刃はとても冷たい。カッターでぱちん、とモンテクリストの先端を切ると、ぱらぱらと葉がテーブルへ落ちた。


先輩は、私がシガーを吸おうとすると、少しだけ寂しそうな顔をした。今までに私がシガーを吸うときは、大抵は嫌なことがあった日だったから。先輩はそれを知っていて、私がシガーを吸っているときだけは、私を一人にしてくれた。


先輩がどこかへ行ってしまうのを目で追ってから、私はマッチで火を点ける。


じっ、じっ。


じっ。


マッチは湿気てしまっていたのか、なかなか火が点かなかった。それでも何回かマッチを擦ると、三回目にようやく、その先端から大きな赤が点いた。くるくるとシガーを回して、その先端を炙る。


私はきっと、私の考察が間違っていることを、誰かに証明してほしかったのだ。


私が帰りを待たなければ、もう先輩は帰ってこなくなってしまうんじゃないかという、考察を。


あの冬の日に、先輩が帰ってきてしまった日から。今日まで続く、この過ちを。


この毎日を抜け出してしまったら、私が終わりにしてしまったら。きっともう、先輩は永遠に帰ってこない。そんな気がして。ずっとずっと駄々を捏ねて、現実という結果から目を背けていたのだ。

ふう、と息を吐く。紫煙は空中に漂い、徐々に希釈され、そして消えた。私の吐息と部屋の空気が撹拌されて、その違いが判らなくなるまで眺めた後、コーヒーをもう一杯だけ飲んだ。まだ長いシガーを灰皿に押し付けて、私は席を立つ。


家を出る前に、久しぶりに鏡を見た。そこには、あからさまに不健康で、頬のこけた、可哀そうな少女が映っていた。たった数週間で、ここまで変わってしまうものか。私は、久しぶりに声を上げて笑った。


曰く。


『私自身の灰と灼熱から、この幽霊は現れた』


『金輪際、彼岸から来たのではなかった』


私の方が、よっぽど幽霊だと思った。もっと早くに思い出せばよかったのだ。


先輩の教えを。


考察は、結果の上に或るということを。


結果は変えようがないのだから。


ハンガーラックからパーカーを取り、袖を通す。まだ肌寒いかもしれないが、コートの季節はとっくに終わっている。


家を出る前に、廊下とリビングを振り返る。火がきちんと消えていることを確認して、ポケットから鍵を出す。


「さようなら。そして、行ってきます」


いってらっしゃい。


ドアを閉める直前、ほんの一瞬だけ、先輩が手を振っているように見えた。



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