彼の話1
気が付けば周りには人がいなくなっていた。
PCのディスプレイで時間を確認すると23:32と示されている。
私は大きく体をそって背中や肩の固まってしまった筋肉を伸ばす。
今やっている仕事は納期が明日だがこの分だと明日の午前中には終わりそうだ。
作業中のファイルを保存し、業務日報を書いてPCの電源を落とす。
社内には私以外誰もいないことを確認し、会社の戸締りをして私は会社を出た。
駅には今まで飲んでいたのか、明らかにテンションの高いサラリーマンや、声の大きな大学生が電車を待っている。
周りの騒音を遮断するように私はイヤホンを耳に付けいつもより大きな音量で音楽を流す。
電車が駅のホームに入ってくるとすでに超満員といった様子だった。それでも多くの人は何とかスペースを見つけて人を押し込み乗り込んでいく。私も他の人と同じように人を押し込んで乗り込む。車掌のアナウンスとともに扉が閉まり何とか出発すると車内に少しだけスペースが生まれる。私はできるだけ立って居やすいポジションを確保し、スマートフォンでニュース記事を読み漁る。
雑音は音楽で遮断し、視界はスマートフォンの画面で回りが見えないようにできる。だが、臭いはどうにもならない。
電車内には様々な人が入り乱れ何とも言えない臭いになる。
汗、酒、化粧、香水、整髪料、清缶剤、体臭。
会社に通い始めたときはこの人の多さにも臭いにも心底うんざりとしていたが、それももう慣れてしまった。気にならないといえば嘘になるが、新入社員の時のように気持ち悪くなり途中の駅で降りてしまうこともなくなった。
会社から30分ほど電車に揺られ、乗換駅に到着する。そこからまた別の路線で30分ほど揺られて最寄り駅に到着する。
電車の扉が開き私は人にもみくちゃにされたコートを整えながら改札を抜ける。
外の冷えた空気は電車の中で熱くなった頭に心地よかった。
帰宅途中の商店街にあるタバコ屋の脇に設置してある灰皿で一服する。
これが私の日課だった。朝会社に行く前、夜自宅に戻る前、必ず私はここで煙草を吸っていく。
この時ようやく私は今日の終わりを実感できる。
最近では喫煙者への風当たりが強くなった。煙草が値上がりし喫煙所もどんどん撤去されている。
いつしかこのタバコ屋のわきに設置されている灰皿も撤去されてしまうかもしれない。そう考えると少しだけ寂しさを覚えるがこれも時代の流れなのだと割り切れた。
世界は常に動いている。世界の流れに取り残されてしまえば淘汰されるのは仕方のないことだ。
そんな壮大なことを考えているといつも見慣れている商店街に見覚えのないものがあった。
露店だ。
遠目では何を売っているかわからないがこんな時間に店を出しているなんて珍しい。
人通りも全くないので商売にならないだろうに。
私は吸い殻を灰皿に捨て露店を覗いていくことにした。
露店を出していたのは女性だった。
サイズの大きい灰色のプルオーバーパーカーのフードを目深にかぶり「いらっしゃい」と気だるげな声で答えた。
彼女の前に並んでいる商品はピアスやイアリング、髪留めにブレスレッドといったアクセサリー類だった。
手元にはニッパーやヤットコなどの工具、接着剤やハサミ、爪楊枝、定規、それから何かの部品や皮の紐などがあり、店の商品を作っているらしい。
一通り商品を眺めたがどれも女性向けで、私が身に着けられそうなものは無かった。
私が立ち去ろうとすると「ちょっと待って」と店主に呼び止められた。
「おじさんにはこれ。」
そう言って彼女が差し出したのは紺色のレザーブレスレッドだった。
「おじさんにはこれが似合うよ。」
確かに他のアクセサリー類とは違い、男性が身にいつけていても不思議ではないデザインだが、それでも私に似合うかどうかは別問題だ。そもそも私は普段アクセサリーの類を一切身に着けない。ピアスやネックレス、ブレスレッドといったものに特別関心はない。
「なぜこれを私に。」
「うーん。特に意味はないよ。でも、何となくおじさんにはこれ。」
そう言って彼女は私の方に少し手を差し出しブレスレッドを手に取るように要求してくる。
「これ、値札が張られていないけど、いくらなんだ。」
「いくらがいい?」
急に売りつけてくると思えば値段は私に任せるのか。押しが強いのか弱いのかよくわからない。
私は改めて差し出されたブレスレッドを観察する。よくできているとは思うが素人が作りましたという感じは否めない。少なくともアクセサリーショップに並べるには少し作りが甘いように思う。
「そうだな。100円といったところか。」
「おじさん厳しいね。」
彼女は少し考えた様子だったが「じゃあ100円でいいや。」と言ってブレスレッドを私に渡した。
私は100円を彼女に渡し、ブレスレッドを鞄にしまった。
「毎度あり。」
「一つだけ訂正したいんだが、私はまだ二十代前半だ。おじさんという歳ではない。」
「そうなの?なんか見た目が完全にサラリーマンだからもっと年上なのかと思ったよ。だとしても私より年上だけどね。」
「そうなのか?だとしたら君は今いくつなんだ?」
「女の子にそうゆうこと聞くのはよくないよ。」
そう言って彼女は笑った。
「だが、もし十代だとしたらこんな夜中に露店商なんてやっていたら危ないだろう。親御さんが心配するぞ。」
「おじさんお節介だね。そんな心配いらないから大丈夫だよ。それより明日も平日なんだからきっと仕事でしょ?早く帰って寝なよ。」
確かに私はこの子と何の関係も無い。
余計な心配なのだろう。
そもそも私は他人の生活に口を出せるほど立派な生活をしているわけではない。今日明日のことを考えるだけで精一杯の日々だ。
「確かにそうだな。私には関係のないことだった。ブレスレッドありがとう。大切に使わせてもらうよ。」
「おお、諦めるの早いね。」
「心配されたいのか?」
「ううん。前にも同じような人がいて、凄くしつこかったから。」
「大人として正しい行動だと思うが。」
「おじさんは正しい大人じゃないんだ。」
そう言って彼女はクスクスと笑う。
「そういう行動をとってほしいならそうするよ。あと、おじさんじゃない。」
「いや、ほっておいてくれる方がありがたいよ。」
「そうか。だとしたらそうしよう。私も余計なことに首を突っ込みたいとは思わない。」
「余計なことってひどいね。」
そう言って彼女はまたくすくすと笑った。
「それじゃ、私は帰る。警察に職質される前に君も帰った方がいい。」
「ご心配ありがとうございます。気を付けさせていただきます。」
大げさにお辞儀をする彼女に私は手を振って露店を離れた。
駅から家までは徒歩10分といったところだ。それほど遠い距離ではないが露店に少し長居してしまったせいか、体が冷えてしまった。早く家に帰って熱いシャワーを浴びて横になりたかった。商店街を抜けて3分ほど歩くとコンビニがある。私はいつもそこで夕食を買っていた。今日も変わらずコンビニに入り、どの弁当を食べるか悩んでいるとふと先ほどの露店の店主のことが気になった。
どれくらいの時間あそこにいるかはわからないが今日は冷え込む。飲み物の差し入れくらいしてもいいだろう。
なぜかそんな考えが浮かび、私は弁当二つと温かいお茶とコーヒーを買って先ほどの露店へと戻っていった。
商店街に戻るとそこにはやはり通行人などおらず、相変わらず彼女がひとりで露店を開いているだけだった。
「これ、差し入れだ。よかったら食べてくれ。」
そう言って弁当とお茶を差し出す。
「・・・。」
彼女は訝しむように私を見て、何か裏があるんじゃないだろうかと怪しんでいるようだ。
「これには何の意味もない。ただ100円でブレスレッドを売ってくれたお礼だとでも思ってくれ。」
そう言って改めて彼女の前に弁当とお茶が入ったビニール袋を差し出す。
「なんかものすごく怪しいんですけど、何が目的ですか。」
彼女は警戒を緩めてはくれなかった。
「そこまで疑われると悲しいものがあるな。」
「知らない人からものをもらっちゃいけないって教わりましたので。」
「さっきまで話をしていただろ。」
「でも私あなたの名前知りませんし。」
「私も君の名前を知らないが。」
「・・・。」
無言のまま数秒が経った。
やがて彼女の方が「ありがとうございます。」と言って差し入れを受け取ってくれた。
「じゃあ私はこれで本当に帰るから。風邪ひかない程度に頑張ってくれ。」
「差し入れありがと。おじさんは本当にお節介だね。」
私は「おじさんじゃない」と言って今度こそ家に帰った。
家に帰りシャワーを浴びて寝巻に着替えてから弁当を食べる。眠る前に時計を確認すると午前二時半を回っていた。今日もいつも通り変わらない一日を過ごしていたはずだったが、就寝時間は三十分近く遅くなってしまった。
いつもは朝の五分でも寝る時間に割きたいと思っているが、今日の三十分はなぜだか惜しいとは思わなかった。
今まで通りの日常と少し違うことをしてみるのもたまにはいいものだな。
そう思いながら私は眠りについた。