簡単だった
改めて深呼吸をすると、余計なことを考える余地がなかった。頭の中が澄み渡る空ような晴れやかな……というには少し誇張がすぎるだろうが、さしずめそういう気分にはなっていた。
そしてなにより、目の前の教師が単なる嫌味なだけの男ではなかったということがわかった。
コイツはあれだ。教師よりも芸術家としてのプライドを何よりも強く持っているのだ。熱血体育教師ならぬ“情熱”芸術教師だ。
「アンタのこと、誤解してた気がする」
「そうか」
「……悪かった」
謝罪した。……してしまった。
たったの一言しかない、その辺で肩をぶつけた時にでもいう風な言葉遣いで――
だけれどそこには今までの悪態の全てに対して、改めて謝罪するように――
こんな短い謝罪では、きっと目の前の男からしたら何の価値もないだろう。けど、口にした俺からすれば敗北宣言をしたってくらいに、自分の中で大きく響いた。
「……気にするな。教師とは、学生からすれば便利な道具に過ぎん。精々、自分の将来の為に巧く使うんだな」
「殊勝な言葉だが、逆に教師側からすれば学生ってなんだ?」
「当然、自分のキャリアを伸ばす為の家畜に過ぎんな」
嫌な予感がしてみれば、今の道徳倫理主義な教育現場で教師が間違っても言ってはいけない言葉が返って来てしまった。
……改めてもう一つわかった。この男、たぶん人間に興味がないんだ。人間よりも道具とか作品にしか興味がないのだ。きっと無機物にしか価値を見出してこなかった芸術バカなのだろう。
「アンタ、教師向いてねえわ」
「私とて教師など引き受けたくはなかった。が、世話になった先生からヤレと言われたらやるしかない」
難儀というか、そっちもそっちで大変だなぁ、と軽く同情しちゃいそうになってしまった。有力な芸術家とはいえ自由勝手気ままに活動できるわけじゃあない、この人はその一例だろうな。
なんだか完全に毒気が抜かれちまったよ。というか、張り合うのも馬鹿らしくなっちまった。
……本当、許さないなんてどうでもいいか。気持ち一つぶつけあったくらいで、軽くなっちまうような恨みなんざな。
「ま、誤解が解けたからと言って、俺がアンタに対して嫌いじゃあなくなる訳でもねえけどな」
でも、ここで奴を全面的に肯定するのはどうにも俺のちっぽけな意地が許さなかった。我ならがみみっちいとは思うけどさ、仕様がないじゃあないか。俺はそこまでお利口さんじゃあない。だから人間関係だけはいつまで経っても要領よくいかないのもよく理解している。
それでも、ここで受け入れちまうのは面白くない。
面白くないのは嫌いだ。そういうのはこれから先もご遠慮願いたいものだね。
「悪いが俺は今まで通り楯突いていくとするよ。どうにも態度を改めるのは苦手でね」
「それで構わん。お前が順調に成長し、後世に名を残す名人にでもなった時に私の名前が少しでも関連があればよい。お前の将来はホンの少しだけだが、見込みがあるからな。所詮はその為の布石だ」
「この生徒指導が売名目的かよ。ああ、いいね。そういう独善的な口ぶり、俺の中からますます罪悪感が消えてくれるよ。クソッタレ」
「当たり前だ。多くの読み手は作り手の物語から作品に魅了される。ピカソやダリに北斎など、過去の有名著者は自身の生活や境遇をも自身の作品の一部として扱い、今日まで評価を受けているのだからな」
……人間に興味はないくせに、自分は有名人にはなりたいのかよ。解せん男だな。
あるいは言葉通りに、自分の生き様も作品にしたいって本気で思っているのかね。それこそ正気かよ。
いい加減、気も済んできた。この男と言葉を交わすのも、そろそろ終わってもいいだろう。むしろ、今は早く奴とご対面したいという気分になっていた。
どういうわけだか今はやるべきことを手早く済ませたいって気分になっちまっている。単純に、自分の感情など取るに足らぬ戯言だったのだと思える程度には、精神の柔軟性を得たからだろう。
時計を見やると、時刻は既に一時限目もそろそろ終わり頃にまで差し迫っていた。チャイムにも気が付かなかったとはな。
無断で椅子から立って廊下に出ようとすると、無礼な俺をロクに止めもしない教師がやっと声を出した。
「少しはマシな目になったな」
「マシになんざなるもんか。俺の目は汚れっぱなしなんでな。綺麗になんか一生ならねえよ」
「いいや、なったさ。少なくとも瞳の額縁が広くなった」
「つまんねえ比喩だな、それ。じゃあな。……美樹先生」
吐き出したい愚痴などを吐いちまった後の所為だろうか。最後の最後に、奴を一人の人間だと認知するために、わざわざ名前を呼んでみた。その行為にどれほどの価値も意味もないだろうけど、それでいいさ。
どうでもいいが、相談室を出てからそんなに変わったかと眉間や目蓋のあたりとかを擦ってみてしまった。思ったほど変わりなかった。ま、嘘でも間違いでも、言われて悪い気はしないけどさ。
そういった心境の変化の後、授業中の教室を何の気なしに開くと、全員が俺の顔を見た。今は通常の五科目授業中のようで、まあドイツもコイツも集中しきれてないらしい。これが模写中だったりしたら、何割かの連中はこっちを見ないんだがな。
でもすぐに全員視線を戻して、視線すら合わせようとしなかった。俺はどうせこういう奴なんだって扱いがプンプンと臭って来やがる。
まあ自分はそういうどこの種類にも属さない『不良品』みたいな奴の一人だって自覚はあるし、クラスのカーストピラミッドすら弾かれる存在ってワケだ。嬉しいね。俺も連中に干渉なんぞしたくないし、されたくもない。
そんな俺を教員として心配そうに話しかける授業中の教師が第一声を発した。
「辻風くん、話は聞いています。その、大丈夫ですか?」
「なにが?」
「え? いえ、その……ご友人と――」
何か言いかけたところで、都合よく授業終了を知らせるチャイムが鳴った。俺だって真面目に答えるつもりもないし、適当に邪険にすると、教師の方も興味を失ったように、授業を締めに掛かった。ありがたいことだ。
それでいよいよ、本題だ。自分の席の前に奴はいる。
振り返るのをあえて我慢している風な男がそれだ。奴がどういう心境なのかはもうこの際、完全に無視することした。
「おい、そこなダサメガネ」
俺の声が聞こえていないのか、無反応だったので椅子の足を軽く蹴ってやった。途端にケツに画鋲が刺さったみたいな反応してくれた。
「な、オレ?」
「お前以外にダサいメガネに牛のクソのような髪色した男がいるか?」
「牛のクソ!? け、喧嘩売ってんのか!?」
「あー、場合によってはそれもアリだな」
まあ、殴り合って気が晴れて仲直りする可能性もなくもない。俺も不満がなかったわけじゃあねえし、むしろ山になるほど積もった怒りもあるけれど、それは奴も同じだろう。
しかし、なんだ。最後に顔を合わせた時みたいな勢いが、今の奴には全くない。なんだか熱が冷め切って冷静になった一過性犯罪者みたいじゃあないか。
「な、なんだよ。ゼタ……。オレになんか用かよ」
「うん? いや、そろそろお前のことを許す気になったから、声を掛けただけだ」
「……は?」
まるで夢でも見ていたみたいな顔していやがる。俗に言う間抜け面ってヤツだ。
見苦しいから何も言わずに奴の顔に張り手に近いビンタをしてみた。
「痛ってえ!? なにしやがる!?」
「いや、ウザイ顔がキモイ顔になってて、もはや茶ゴキブリみてえだったからつい潰したくなってな」
「茶ゴキ!? やっぱ喧嘩売ってるだろ!?」
「ガタガタうるせえな。ま、お前の方が俺を許さないってんならどうでもいいがな」
「いや、待てって! そこがおかしいんだよ!? え、なにマジでか!?」
怒ったり驚いたり、忙しいヤツだな。まあ俺がそうしてるんだけど。
しかし不思議だ。仲直りしなくちゃあいけないのに、これじゃあ本当に喧嘩を仕掛けてしまっている。どうしてだかな。俺って不器用ちゃんだからね、許せ。
「な、なぁ、ゼタ。マジで、許してくれんの?」
再三確認するダイスを改めて見やると、奴の顔はなんというか、奇妙な表情をしていた。必死に表情を押し殺している、しかし押さえられない感情が燻って爆発しかけているような、そんな感じだ。どういう時の感情なのか、理解し難いぞ。
「だから、そういってるだろ――――「うおっしゃあああああッ!?」
ダイスが突然絶叫し始めた。嬉しさのあまりか、感情が抑えきれないって風だった。
例えるならば、欲しかった最高レアのアイテムを苦労して手に入れた時のようなテンションだった。やめろ、普段興味も持たないクラスの連中が俺達を注目してるじゃあないか。
しかも抑え切れてねえのか椅子から立ち上がると机を乗り上げて抱きつこうとしてきやがった。当然気持ち悪かったから押し返したけど、押し返そうとした手を両手で掴んで握り締めてきやがった。予想以上に気持ち悪いからすぐ振りほどいた。回りが見えてねえのかコイツ。
しかし、だ。
「ありがとう! ありがとう! やっぱりお前はゼタだよ!! ホント、頼りにしてるぜ!!」
「……お前さ。少し頭がおかしいんじゃあねえのか?」
「あ? なにが?」
あまりにも俺と奴との間で意識の差があった。俺の予想とは全く違っている。
「お前、俺に不満とかねえのか?」
「だからなにが?」
わざとなのか天然なのか、わからないけど、そこまで説明しなくちゃあならないのかよ。相変わらず七面倒くさいヤツだ。
「お前にとっちゃあ俺は居心地の悪い存在だっただろ? お前のこともずっと無視してたからな」
「いや、それ元はといえばオレの責任だし、ゼタが怒るのは当然だって……」
「そりゃあそうだ」
「……そう、ティンに何度も怒られた」
「あっそ」
つまりこの態度はティンの説教による賜物か。よくやってくれたティン、褒めて使わそう。
「ティンには仲直りするまで口聞かないって怒られちまうし……」
「それでしょげてたのか。ウケル」
「……だから、悪かったって、ちゃんとわかってる」
そうして、今度はコレでもかって程顔を落としていた。
……コイツ、バカだ。本物のバカだ。
バカ正直すぎる。
「肩透かしだな」
こんな奴の為にずっと嫌な気になってグルグル考え続けてた俺の方がバカみたいじゃあないか。腹が立つな、ホント。
「……おい、ダイス。お前の携帯貸せ」
「え? な、何すんだよ?」
「三十秒で返してやるよ」
そういって差し出された携帯を引っ手繰ってサモルドのアプリを起動する。すぐさまティンの後ろ姿と見渡す限りの草原地帯が見えたのだが、詳しい事情などこの際省いて話しかけた。
「もしもし、ティン」
『ひァッ!? だ、誰!?』
「ゼタです。ダイスのこと、許すから。それじゃあ近い内にまた」
それだけ言って、ダイスに付き返した。
「ゼ、ゼタ……お前」
「迷惑かけたな。これでいいだろ?」
「お前なぁ、キャラ変わり過ぎだろ。なにがあったんだよ」
「……別に。ホラ、久しぶりに話でもしてこいよ。邪魔はしねえから」
色々ありすぎて、説明するのもゴメンだよ。
だが、まあ、そうだな。
コイツを真に信用できる日が来たのなら、その時には素直に答えてやってもいいかもな。
余談だが、今日を期にクラス連中に妙な噂が流れ始めることになるのだが、それは本件には関係のないのことなので割愛させてもらおう。……出所がわかり次第、握りつぶした。不愉快だからな。




