決断②
『……やっと、自由に動き回れるぜ』
携帯のアプリを通して翻訳された男の声が、耳に装着したハンズフリーから聞こえた。
この男は松葉の操作から解放されたがっていたのは明白だった。そのついでに、パソコンと共にプレイヤーである松葉も殺そうとしていたみたいだが、スノーがそれを阻止した形だった。
俺としては、スノーが止めた方が気掛かりだった。
「スノー。どうして奴を助けた?」
「……なんとなく、でしょうか」
慣れた癖、みたいなモノだろうか。まあ、スノーがそういう性格なのはわかってたし、いまのは咄嗟の出来事だった。そういう場合は仕方がない。だけど――
「次は助けなくていいぞ」
「……わかりました」
それに奴とはまだ真面に会話が成立しそうだ。チャットのオープンチャンネルを利用して彼には異世界へ御帰り願おう。そうすれば厄介事は綺麗に去り、松葉を処分するだけで荒事は片付く。チンタラして松葉家の誰かが帰って来るとも知れない。
「――避けて!」
スノーが叫ぶと同時に服の袖を引っ張られた。抵抗はせず、むしろ従うように移動すると、つい先ほどまで自分が立っていた床から影が実体化して獣が噛みつくように現れた。確か腕を噛みつかれた時に見たのと同じだったか。
それにしても血の気が多いな。別に敵対するつもりはなかったのだが、相手はそんなつもりはないらしい。
男が床に落ちている大振りのナイフと、デスクトップ型の箱に突き刺さったもう一本のナイフを回収すると、それだけで松葉の奴は見っとも無い悲鳴を上げて部屋の端にまで逃げ出した。
『たく、相変わらずかよ、子猿が調子に乗りやがって……』
まるで旧知であるとでもいいたげに男はマントを脱ぎ捨てた。記憶に薄らと残っているような顔つきをした男だったが、奴は俺ではなく、スノーを指名するようにナイフの切っ先を向けていた。
『……誰ですか、貴方』
『殺した相手なんか覚えてねえってか? だが俺はよぉく覚えてるぜ。テメエが俺の首を落としたんだぜ』
『……まさか、ジェノバ?』
男は首を輪切りにでもされたような傷痕をなぞって見せると、スノーが怪訝そうな声でその名を呼んだ。
『バカな……貴方は確かに死んだはずでは?』
『ああ、死んだぜ。見事に殺されちまってよぉ。精霊付きの【不死の加護】つっても、死んだ後どうなるかまでは知らなかったからよぉ。それがなんだ、気が付けば何ヶ月も経ってて、いきなり精霊付きだ。しかも精霊はこんなクソガキでひでえ貧乏クジひかされちまったぜ。こんなのに体を乗っ取られて今まで生きてるのが奇跡だって感じるくらいだぜ』
……俺の知らない間に起きた出来事なのか、スノーにとってはなにやら因縁浅からぬ相手なのかも知れないが、余計に話が拗れそうだ。
「なあ、ジェノバさん。俺の話を聞いてくれ。俺は別に貴方に危害を加えるつもりはない。そのまま大人しく異世界に帰ってもらえるんであれば、お互いに十分だと思うんだが、それはダメなのか?」
『ああ? なにを甘いこと言ってんだ? 悪いがコッチはできるだけ多く精霊を殺すようにご命令を受けてんだ。なんだったら大人しく殺されてくれや!』
ジェノバが動きだした。同時に影が揺らいだように見えて、幻影系の闇魔法を連想させた。
面倒なことに、相手はやる気らしい。奴が単なるプレイヤーからの被害者であったら、一つばかり工程が省けたというのに……。どうしてこう、面倒事はすぐに解決してくれないんだか。
スノーが氷小刃を二本作り出すと一本を見えるジェノバに向かって投擲し、もう一本を逆手に構えて反撃の態勢に入った。見えていた方のジェノバは刃が刺さったように見えた瞬間にその場から掻き消えた。
それを承知した上でスノーは音で察知したのか、あるいは気配でもわかるのか……今度は俺を強く突き飛ばした。再び俺を狙ったであろう奴の斬撃が目前を横切ると、自分の足手まとい加減にウンザリしたくなった。やはりこの場にいない方が良かったか。
その後、スノーとジェノバが互いに短い刃で弾き合い、スノーの持つ氷の刃が砕け散った。仕方無しにと右腕甲に仕込まれた隠し刃を使って対応するとスノーが防戦する形になって押されていた。
レベルではスノーの方が勝っているはずなのに、体格の差の所為なのか、それとも気持ちで負けているのか。自分で操作していない分、スノーの近接戦闘が不安になってしまった。
とにかく、自分にできることで考えねばならない。このままでは俺がここにいる意味がない。ネゴシエーションでもなんでも、取っ掛かりを作らねば――。
「えぇい、誰に命令されてんだよ!」
『俺を地下牢から救ってくださったアリッサ様だ! 銀髪のエルフ“スノー”とその精霊“ゼタ”は、見つけ次第必ず殺すようにアリッサ様から直々に言われてるんでなぁ!』
「あのクソ女……」
ここで思わず悩みの種の一つが垣間見えて愚痴が零れ落ちてしまった。
その手の行動にはほんの僅かでも理解は可能だけれど、俺の立場からすれば迷惑極まりない命令だった。これは予想していた筋書き通りにはいかないか。
『……ジェノバ――』
押され気味のスノーが歯を食いしばるような体勢で静かに声を上げ始めた。
『――今ならまだ、何も無かったことにして見逃しましょう。また、殺しますよ』
『アア? 調子にのんじゃあねえぞクソ猿がぁ! あの時はまだ精霊付きじゃあなかっただけだ。俺がテメエみてえな猿に負けるわきゃあねえだ―――ろ……お?』
ジェノバの右腕が、うっかり手から零れ落とすように、肘よりも上の部分が床に落ちた。
見えないかと思うほどに一瞬の出来事だった。
それと同時に、背中にゾクリと走る、妙な恐怖感があった。
『前回もそうでしたが、やはり貴方は自殺願望でもあるのですか? だとしたら、非常に迷惑です。手を下す私の身にもなってください。どころか……ゼン太郎を殺す……でしたか?』
スノーの空いた左手がジェノバの腕を掴んで、霞か煙でも掴もうとしたかのように、通過して、消失させていた。俺が使うために特別に用意した魔属性の下級魔法、フォール・ヘイズだ。それはまだいい。まだ理解できる範疇だ。
しかし、この肌を突き刺すようなこの恐怖を思わせる冷たい感覚、これが果たして誰が発している空気なのか。それが本当に、スノーから溢れ出ている殺気なのか。
初めてスノーから、生命の危機を訴えるような恐怖を感じた。
『あまりイライラさせないでください。殺したくなります』