行動が変われば習慣が変わる
雨が物静かに降り始めて、車の窓に小さな雨粒を残していた。しばらくして、山奥にある祖母の屋敷まで到着した頃には雨音は既に確かなものに変わっていた。
屋敷の門前で降ろされると、親父はそのまま車で帰ってしまった。何をするのかは聞いていない。もしかしたら母さんと一緒に、小田の母親を慰めに行くのかもしれない。……小田はあれで母子家庭だったから、余計に辛いだろうと考えてしまう。
親父の車が出た後、刷り込まれた習慣みたいに無意識に引き戸から屋敷に入って、後ろから追ってきた聖を現れた女中さんにお願いして……。それから自分は一人で倉の方に向かって歩いた。今は妹にまで気に掛ける余裕なんて全くなかった。
門から倉まで短い距離、一歩踏み進む毎に小石を鳴らし、雨水が服を濡らして体を冷たくしていく。本館の窓から明かりが漏れていて、自分の足元を申し訳程度に照らしている。そんな薄暗さが今は心地がいい気がした。
重い。足が、体が、目蓋が、心が、気分が ……何もかもが重くて、辛かった。
暗くて冷たい世界が、妙に心地良かった。誰もいない闇で彷徨っている方がずっと楽な気がしてきた。
もしもこういう時、己が全くの無関係な立場であったならば「状況が悪かっただけだ。怒りも悲しみも穏やかになってから、また考えればいい」などと、知った風な口でも開いて、慰めた気にでもなっていただろうに。
(今まで、いい加減なことを……してきたな)
自分の番になってから、ようやくわかる。いや、思い出した。久しく味わうことのなかった感覚だったから、つい知った気になっていた。
立ち直るなんて、そんな簡単じゃあない。時間が解決してくれるなんて、そんなのは大事なものを忘却の彼方へ置き去りにして去っていくみたいな物だ。
そんなのは、自分が許せない。納得ができない。
だったら、どうするべきなのか? という疑問がまたしても脳裏を過ぎり、すると決まって犯人を殺せと怒りに燃えては親父の言葉と小田の最期の言葉で歯止めがかかり……結局は堂々巡りのようになって、思考が止まってしまう。それを繰り返して、最終的には考えても無駄だという結論を得てしまう。
そうなってしまったら、足が止まっていた。考えることが無駄であるのならば、踏み出す意志さえも不要だろう……と。そしたら自然と、地面を蹴って前に進むことを身体が拒んだ。
何もかもが馬鹿馬鹿しく思えて、下らないことだと見下しては、己の無力さを嘲っては、それで平静を保てるつもりになっていた。……なろうとした。
この澱んだ目に、スノーの姿を捉えるまでは――。
「おかえりなさい、です」
「……あぁ、ただいま」
スノーを見たら、それこそ心配なんてさせられないと無条件で思い出し、空元気ながらに笑顔を作って返事をした。……もう自分が何のためにそんな無理をしているのか、思い出すのも面倒になっていた。ただそうすべきだという無意識だけがそうさせていた。
「雨の中、どうしてそんなところでジッとしているんですか?」
「……さぁてな。そういう、気分だったんだよ」
「……とにかく部屋に入りましょう」
スノーが俺の腕を掴み、引っ張って歩かされた。倉の方ではなく、離れの部屋に連れて行かれた。靴も雑に脱ぎ散らかし、畳の床に座らされた後は何も言わずにタオルで濡れた髪を拭かれた。
濡れた服が畳にシミを作っていき、先に服を着替えなければいけなかったな……などと至極どうでも良い感慨が浮かんだ後、笑えないハズの現状に、乾いた笑い声がどこかから漏れてきた。それが、自分の喉から出たものだとわかったら、反吐が出る気分を味わった。
顔を覆って、よくもまあ笑えたモノだと自嘲しながら、忘れようと努力した。
「ゼン太郎。なにが、あったんですか?」
スノーが、俺の目の前に正座をして座っていた。
顔は見てない。正直、今はまともに取り合える気力なんて残ってなかった。
「……別に、なんでもない」
「嘘を言わないでください」
ああ、確かに嘘だよ。でも、だったら本当を言えばいいのだろうか。
「……スノーには、関係のないことだよ」
そうだ、関係のない話だ。スノーには全く関わりのない話。スノーは異世界の住人で、地球での人殺しだとか事件だとか、そんなのは関わらない方がいい。そうであるべきだ。
でなければ……余計な重荷を背負うことになる。
ただでさえ人を殺すことに躊躇する彼女を、俺でさえどうしようもない現状に巻き込むワケにはいかない。巻き込みたくなんか、絶対にない。
それに、俺が望めばスノーは簡単に手を貸してくれるだろう。仮に……人を殺すという、彼女がもっとも忌避する方法だとしても。
何故ならスノーは、未だに俺の呪縛から解き放たれていない。自由を得ていない。自立を果たせていない。己の意志で動く価値観を得られていない。俺には、まだスノーがそういう風に見えていた……。
「ゼン太郎――」
……そう、思っていたのにも関わらず、スノーは強い言葉で名前を呼び、両手で俺の顔を持ち上げて、自分の顔を見せ付けた。その表情には、珍しく強い怒りの眼差しと、悔しさで滲む歯噛みした頬を強張らせた真剣な顔が映っていた。スノーの見たことのない表情に、思わず目が覚める思いだった。
「――私が今、どんな気持ちでいるのか、わかりますか?」
「……怒ってるのか?」
「不十分です。怒ってますし、心配してるんです。……でも、それより、そんなことより――なによりも! ゼン太郎が私を頼ってくれないことに! すごく! すごく!! すごく!!! どうしようもなく悲しいんですよ!!!!」
荒立て震える声と怒りの目から流れる涙で、スノーの顔がひどく歪んでいた。
「私はそんなに頼りになりませんか!? ゼン太郎にとって私はただのカザリモノですか!? どうしていつも本当のことを隠すんですか!? 私は役に立ちませんか!? なぜ何も相談してくれないんですか!! ゼン太郎が何を考えて、何に悩んでいるのか、私にはわかりません。わからないんですよ! 教えてくれないと、全然、わからないんですよ!! なぜ何も話してくれないんですか!!」
「……なんで、お前が泣いてんだよ」
本当、泣きたいのは……俺の方だって言うのに……。
でも、俺には意地だってあるんだよ。スノーの前で泣いたら、スノーに泣きついて、頼ってしまいたくなってしまう。
今まで散々こき使ってきたのに、またゲームの時と同じように使うのか、と。
「ゼン太郎のせいです……。ゼン太郎が私を困らせているんです。ゼン太郎が最近笑わなくなったり、辛そうな笑みで誤魔化そうとしたり……。その度に胸の奥が痛いんです。だから何かの役に立ちたいのに、いつもほんのちょっとしたことばかり。たまに頼ってもらえたと思えば、結局私の事情でしかなかったり……。
お願いします。私を頼ってください。私を、見なかったことにしないでください。いない存在として扱わないでください。ゼン太郎からそんな風に扱われるのは……――もう嫌なんです」
それは俺の望んでいた言葉ではなく……しかし、それこそがスノーの意思でもあるような言葉でもあるとも思わせられた。それを否定する権利は、俺にはないハズで……。
だからと言って無視できる理屈では決してない。スノーがその言葉の意味を、正しく理解しているのかを、まずはそれを問い詰めたくなった。
一度、スノーを引き放してから……今度は顔を、目を、その奥に映る本心を見届けるために、視線を交換し合った。
「……スノー、その覚悟はきっとお前を後悔させるぞ。お前を頼りだしたら、もしかしたら人を殺すことになる。きっとエルタニアに帰るなんて話も後回しにする。自分の意志も、信念も、本当の願いさえも、俺は無視するかもしれない。それでも、頼っても良いのか?」
その時のスノーは、何の躊躇もなく――。
きっとこの先、スノーは後悔を繰り返すだろうという俺の心配など、どこかへ吹き飛ばすほどの覚悟を持って、宣言した。
「構いません。自分のことよりゼン太郎の方が大切です」
……なんと言うべきか、先ほどまで涙していた女の子とは思えないほどに、清々しい、契りの誓いだった。
そうしたら、どこかで固まって息苦しかった何かが急に喉から噴出して、そしたら強張った肩から力が抜けて、終いには重かった枷が外れた気になった。
「なあ、スノー。とりあえず、先に一つだけいいか?」
「――え?」
こんなにも頼もしいのなら、だったら、もう意地を張るのもやめていいかと思えた。
とりあえず、今日はもう疲れた。
だからスノーの膝を借りて、服の裾を掴んで、泣きついた。
「……しばらく、このまま、休ませてくれ」
これなら涙は見られまい。最後の意地だけは、なぜか残っていた。




