親友の願い
電車を乗り継いで約一時間半もの移動時間の中で、楓さんにいくつかお願いをしておいた。おそらくスノーが帰って来る頃には自分はいないだろうから迎えてくれる誰かが必要だったからだ。
スノーには……黙って出て行った。
彼女を巻き込むワケにはいかないし、頼りたくなかった。
そう思ってしまうのは……今まで勝手を押し付けてきた罪悪感からくるものなのか、あるいは単純にスノーのことが気に入ってるからなのか、もしかしたら欠片ほどもないハズの自分のプライドが抵抗していたのか。これだと思える理由は自分でもわからなかった。
でもスノーを頼らなかったことだけは変えようのない事実だった。
それだけ、自分に奢りでもあったのだろう。きっと何とかなると、甘く見積もっていたのだろう。何かあっても『最悪、自分が痛い目を見るだけだ』なんて、想定の範囲を作っていたのだ。
一番最悪なのは、自分以外の大切な誰かが、巻き込まれることなのに。それさえ気付いていれば、もしかしたらスノーに頼っていたかもしれないのに……。
こんな大事な未来を決める『トロッコのレバー』に触れられたはずなのに、俺はそれに気付きもしなかったのだ。
そんな未来も知らずに、ほぼ二ヶ月ぶりの地元に到着すると、さっそくいつも通りに物事を進めようとしていた。
もしもの時には何ができるのかと考えながら自宅へ足早に向かった。
どうせ相手は自分を狙っているのだろう。あのメッセージを読んだ後だと、そう思わざるを得なかった。だから焦る必要性も感じなかった。
ただ、自宅の近くを回って、家の誰かに不審者が近くにいたかどうかを確認し、それで何事も無ければそれでよかった。
自宅がそろそろ見えてきた頃には、既にプランも決まっていた。
相手は部屋に居た人物を殺してくるヤツなのだから、俺も自室で映画を見ているフリでもして待っていればいい。奴が来たら、ガラスの反射で後ろを確認した後、床に書いた紋章陣で飛ばしてやればいい……などと、鼻で笑ってしまうような作戦を考えていたのだ。……案外、上手くいくと思っていた。
だというのに……角を曲がった先で見たのは、自宅の前で不自然に立っている黒いローブ姿の影だった。
人の家の玄関の前で、明らかに不審者がいて、それで――
(なにをした――?)
家の塀が邪魔でよく見えなかった。ただ、何かを振り降ろしたように見えた。大きな音がしたと思ったのに、自分の耳には何も聞こえてこなかった。
シンっ――とした空気の中で、ただ目の前で起きたことを理解しようとして……気がついた瞬間に全身の血が沸騰した。
地面を強く蹴って駆け出した直後、奴はこちらに気がついた。きっと足音か何かで俺の存在を察知したのだろう。それで振り向いた奴が手に持っていた直剣の刃が血で汚れているのを知った。
誰かを切った直後なのか、その血はまだ濡れていて、生々しかった。
奥歯を噛んで、ただただ湧き上がってくる殺意で溢れた。既に結論は「どうやって切り抜けるか」ではなく「どうやって殺してやろうか」と切り替わっていた。ポケットに手を入れて、紙を手の中に握り、応戦体勢に入る。仕掛けるチャンスは初見殺しならぬ、初めの一手だけだ。
すると、相手は想像も付かないほどの跳躍力を見せた。驚いた拍子に駆け出していた足を思わず止めてしまい、奴は跳んでいる最中に左腕からナイフを射出してきた。現実的ではない動きと予想外の攻撃に反応できずに、避けようとした時には既に心臓まであと数瞬という距離までナイフが差し迫っていた。
咄嗟に後ろに下がって数瞬でも稼ぎ対処する。左肩を内側に寄せ、飛んできたナイフを胸ではなく左の二の腕に突き刺さらせた。肉が刃によって切られる音を耳ではなく体で感じた。
しかし今は深々と自分の肉に突き刺さっていたナイフなど、気にする猶予はない。今度は跳躍した黒い男が自分目掛けて剣を兜割りに剣を振り落としてきた。
その間、僅か一秒もない時の中で必死に考えた。
後ろに下がってバランスを崩している今、横にも前にも体を反らせられない。間違いなく、敵の剣が自分に直撃する軌道だ。
沸騰した血で奴を殺すことだけを必死に考え貫いて、これをやるしかない、と覚悟を持って右手を前に突き出した。
一瞬でも早く出ろと無我夢中になりながらも折畳まれた紙に魔力を流した。折畳まれた紙の中で、紋章陣が発動すると、紙がパッと開かれ、紋章陣が姿を現し、異世界の門が開いた。
すると丁度、剣が紋章陣に触れたことによって武器は紙の門の中へと吸い込まれ、そのまま敵の武器だけを奪い取った。タイミングはドンピシャで、命は助かった。
だが……それだけだった。
剣一本しか、奪えなかったのである。
相手の体の一部とか、せめて腕だけでも千切れないかと期待したのだが、そういう風には出来ていなかったらしい。
(いや、チャンスだ。得物ならばすぐ手の届く場所にある!)
敵が空の手で不思議そうに着地した後、左腕に刺さったナイフを躊躇なく引き抜き、順手に握ってすぐさま突き出した。その間抜けな敵の喉を引き裂いてしまえば、相手がなんだろうが致命傷になるだろう。隙があるなら今しかない。……などと、この期に及んでまだ勘違いしてた。
そんな……日夜戦いをこなして来た手練の相手に素人の思惑など通用するハズもなく、どころか、魔法を自在に操れる奴なんかに、どうして勝てると思ったのだろうか。
相手の足元、影から立体的な何かが浮かび上がってきた。影は獣の頭の形で飛び出してくると、腕に噛み付き――いや、噛み掴まれ、簡単に塀の壁に投げ飛ばされた。
背中から全身に掛けて衝撃が襲い掛かると、もはや痛いとか、苦しいとか、辛いとか、グチャグチャになっていて、何一つ認知できないでいた。ただ意識は残っているので、まだ終わりではないとだけは意識できた。
形勢は圧倒的にこちらが不利だ。実力が違いすぎる。絶対に勝つことなんて不可能だ。
(いいや、諦めるな。考えろ。まだ考え続けろ)
たとえ己の無力さを味合わされたとしても、何をしたら勝てるのかを諦めなかった。どうやって立ち直すのか。このままでは何もできないまま、なぶり殺されるがままではダメだ。
心臓がうるさく緊張を訴えてきた。何か考えろと、殺される前に。
「――? ――――……――! ――――!!」
すると――ずっと口を閉じていたはずの黒いローブの男が、何か口にしていた。チャットだろうか。
乱暴で口の減らない感じのする、嫌悪感がある男の声だった。聞いたはずのない男の声なのに、何故か聞き覚えのある男の声でもあった。何か言い合いをしている素振りをしてみせて、直後、いきなり怒鳴りだした。
「――――ッ!」
意味がわからない。意味はわからなかったが――奴は姿を何かの魔法で消してしまった。何かが空を切る音を出し、奴はどこに消えたのかもわからぬまま、時間が経過してしまった。
逃げられた……いや、この場合は見逃してもらったと思うべきか。
唐突な幕切れだった。
だけど、聞いたこともない妹の悲鳴が聞こえてきたせいで、そんなことも言っていられなくなった。
立ち上がるだけでも肺が痛いと、今になって訴えってきた。ゆっくり動くだけでも体の至る所に激痛が走り、壁に手を当てながら玄関まで辿り着いた。
「うそ、だろ……――」
何をどう口を開けば良いのか、わからなくなった。なぜお前がここに居るんだと、訳がわからなくなっていた。
血の池が階段に滴る扉の前で男が一人、中途半端に開かれた扉に背を当てて、横に倒れていた。首と肩の間が不自然にずれていて、その傷口は胸の下辺りまで一直線に続いていた。
その男は、どうみても、俺の知っている人物で、間違いなく、俺の親友の小田真雄だった。
「あ、に、にぃさん……だ、何がどうして……」
その時の聖は大量の血を見て、恐慌状態に陥っていた。扉の裏にいた酷い有様の小田は、たぶん見られていないはずだと信じたかった。
だが、次の瞬間、驚くべきことが起きた。
「あ、れ……。ゼタっち……もしかして、ホントにきちゃった?」
小田が声を出したのだ。よく見ると、憎たらしい顔をして、疲れた目を開いて俺を見ていた。
「聖! 救急車をよべ! はやく!」
「わ、わかった!」
もう思考は襲ってきた敵のことなど忘れていた。いまはただ、小田が生きていることに安堵しようとした。
でも、どう見たって、助かるような状態ではなかった。とにかく、応急処置が必要だと思ったが、迂闊に動かして傷口を開くわけにはいかない。
とにかく駆け寄って、何か、どうにかできないかを考えた。必死になって考えた。荒い呼吸が更に荒さを増して、知らない内に額が汗で濡れていた。焦燥感で自分すらもどうにかなりそうだった。
「なに、この世のおわりみたいな顔してんのさ、善太郎」
「うるさい喋るな! お前には聞きたいことも、言いたい文句も山ほどあんだよ、勝手に死ぬなよ!!」
体力を少しでも無駄に消費すれば助からない。そんな不安だけが頭を支配していた。
安静に、一秒でも長く生き残ってさえ居れば、またなんとかなるハズだ。だというのに、小田の奴は無駄な体力を使って、手を握ってきた。その手は思った以上に弱弱しくて、こっちの血の気が引きそうなくらいに冷たくなっていた。
「ごめん、自分でもわかるよ……。たぶん、助からないと思う」
「ふざけんじゃねえよ!! お前、なにが大丈夫だよ! 勝手に首突っ込みやがって――」
違う、こんなこと言うべきじゃあない。もっと、今は……もっと――
何をすれば良いのか、わかるはずだった。でも、それを受け入れるのは自分には無理だった。受け入れられるはずがない。
親友の、今際の際みたいな言葉なんか、聞きたくなかった。それでも――
「聞いて、ほしいんだ。善太郎。一生のお願い、だよ」
小田らしい苦笑いを作って、切実に言うのだ。
そんな風にされたら、喉まででかかった何かを、飲み込むしかなかった。
「なんだよ……」
「アカウント……アゲイルのを、引き継いでほしいんだ。パスワードは……携帯のケースの内側みたら、わかるから……」
「お前……」
結局、やめてなかったのかよ。関わるなって言ったのに……。
「そんな……怖い顔しないでよ。僕って、ほら……イザって時はユウジュウフダンだからさ……。一人だと、決めるのはこわいもんさ」
「……いいよ、そんな話。……それで、アゲイルのデータを俺が引き取って、何をさせたいんだよ」
わからない。ただ、純粋に知りたかった。その真意がなんなのか、知りたくもないくせに、小田の口から聞きたかった。
その瞬間、小田は何か意を決したみたいに、喉を唾で鳴らせて、声を出した。
「善太郎、キミは強い。だからみんなを助ける、勇者になるべきだ」
「は? なにを突然――」
「僕のことは許さなくていい。僕を恨んでくれていい。だから――――いい加減、許してやりなよ」
その時、奇妙な風が吹いた気がした。何かを攫っていくような、大切なモノがそれと一緒に、どこか吹き飛ばされてしまったような、精気を吸い取られるような一風だった……。
「……小田?」
繋がらない意味。その後の言葉もなく、真意もつかめず、何かが終わっていた。
まるで時間が止まったように、小田は動かなくなってしまったのだ。
違和感に気が付いた時には、小田の手が、ほどけてこぼれ落ちた。
「おい、なんだよ、意味がわからねえよ。ちゃんと話せよ。下らない話を聞いてやってんだぞ。いいから、わかるように説明しろよ。なあ、おい……」
知りたくないし、わかりたくない。でもそれが、親友の最後の願いでもあったから――あってしまったから――。
どうしても、耳から離れてくれなかった。
『許してやりなよ』