ティンは雪山がはじめて
ヒュードラ山脈の一番手前の山。その麓にほとんど廃れた村があった。
私と連れの二人でその村の民家で一晩、朝になるのを待ち、そしていよいよ朝陽が東の山から出てきた。
温い布団を恋しいながらも我慢して抜け出し、最後に尻尾が名残惜しそうに布団とさよならすると、光の差した窓へと顔を向けた。
「冷えるわね……」
窓から真っ白に染まった山を見て溜息を吐くと、部屋の中だと言うのに白い息だったのに気づいて、ついそんな感想を述べた。
「ま、雲がないだけ良い天気よね」
気分を変えて、とりあえず持ってきた服を四枚くらい重ね着して、さらに用意した重い防寒用のコートを装備する。コートのフードには獣人用の耳ポッケがついてあり、首にも厚手のマフラーを巻いた。非常に動きにくいけど、これくらい厚着しないと寒くて仕方がない。それに同伴者もいる。どうせ早くは動けないのだからこれくらい動きにくくても問題はないだろう。
となりの大部屋に行ってすぐに暖炉に火を灯し、水瓶に入った水を鍋に汲み、湯を沸かし始めた。
「ハァ、暖かい葡萄水でも飲もっと」
この辺は人が居ないせいか、あんまり面白いモノがない。土の下で育つ食べ物か、雪山の動物、それと取り寄せた乾物が主な主食だ。豊かさが王都とは大違いだ。あっちには色んなものが、本当に何でもある。
今から用意する飲み物だって、干しブドウを潰して乾燥香辛料を少量混ぜてお湯で溶かしたホットワインモドキだ。よく温まるが、王都の本物の味に慣れているとやはり味が薄いし、何より美味しくない。ただのお湯よりかはマシだけど。
「ティンさん、おはよう」
「おはよ。ビルテ」
ビルテはアゲイルとユキノ……スノーの捜索に一緒についてきた捜索隊員の一人だ。人間族で『魔銃術』という変わり種なスキルを使う女性レンジャーで、実力はそれなり。でも精霊付きではないらしい。
聞いた話では遠い砂漠の土地からやって来たらしい。それ以上の詳しい素性は知らない。ビルテとは捜索隊に入ってからよく組まされているだけだ。ま、悪い人間ではないようなので、私も気を許してはいるけれど。
「えっと、ティンさんの精霊さんが来たら出発するんだよね?」
「そうね。魔物もちょっとくらい強いらしいから」
ここから先は未知の領域だ。誰も住めないし、国もあまり管理できないらしく、多種多様な魔物が生息している。奥地には『秘境の渓谷』と称される竜の国が存在するらしいが、人の行き交いがほとんどないので実態は謎とも言われている。しかも竜人族は鎖国的だとも言われていて、迂闊に侵入すると殺されてしまうからと、誰も挑戦しには行かないらしい。
ま、わからなくはない。竜が相手というだけでも厄介だというのに、あのアゲイルと同じような戦士が何人も居たらと思うと、どうやっても攻めきれない。むしろ刺激する事を恐れる。
だからアゲイルの捜索については、彼が竜の国から出てくるのを待ち伏せして、出てきたところに必ず声を掛ける。……というのをひたすら待っている状況だったりする。そんなことをしていられるのはきっと相当な暇人だけだ。
だから私はユキノの方を探していた。
彼女ならばどこへでもいけるだろうし、どこにでも現れそうだったからだ。
なにせ変装の名人なのだ。姿を偽って彼方此方を移動しているに違いない。その点、私なら匂いで判断できる。……本来の黒狼族よりは劣るけれど、それでも、それなりに鼻は優れている自負はあった。
匂いの基準は大体覚えていた。きっと私なら見つけだしてみせる! ――と思っていたのに……なんだかんだで、精霊のダイスの方が先に手がかりを見つけたという結果になってしまった。
でもこの際どちらでもいい。
早くユキノを連れ戻して、問題があるならそれも片付けて、早く王都に帰ってきてほしい。ユキノとアゲイルが居なくなってから、どうにもあの王都はおかしくなってしまった。まるで黒狼族の里にいた頃と同じ気分になる。
誰かとも知れぬ、複数の場所から感じる悪意の視線。
里で鼻摘み者として扱われてきた時と同じような……ギュッと細い肝を鷲掴みにされたような感覚――。
「ティンさん? 食べないの?」
ビルテが器の中に、何の乳だかわからない温めたミルクに堅いパンをふやかして入れてくれていた。
「え? ああ、ごめん」
とりあえずこれを食べたら何も考えずに済みそうだ。
食事を終えて、そろそろダイスが来るかなと思った頃に、予想通りの時間に声が聞こえてきた。
『お待たせ、ティン。準備オッケーか?』
「ええ、問題ないわ」
「精霊がきましたか?」
「うん。お待たせ。はやくいこっか」
『今回もよろしくね、ビルテちゃん』
と、ダイスがビルテに話し掛けたが、反応は全くしない。私からすると、いつも不自然に思える光景だ。ただ、ダイスの方は「NPCだからなぁ」と言って納得していた。精霊なしならば彼等の声は聞こえないのだから仕方がないのかもしれないが、私からすると無視しているようにしか見えない。と、思うのは精霊の声が聞こえている側だから思えるのだろうけど、なんとなく違和感を覚えてしまう。
とにかく、私達は村長に一泊分の料金を押し付けて、一晩泊まった民家を後にした。
向かう先は雪の深そうな山脈の一角。そのどこかにユキノの隠れ家があるらしい。
隊列は私が前衛で、後衛がビルテ。
魔物との遭遇もできるだけ避けて通る。索敵、感知ともに私達に問題はない。
強いて言うならちょっと天気が悪くなってきたくらいか。先ほどまで雲ひとつなかったのに、風が吹いたせいなのか、雪煙が上から降りてきて、少しだけ視界が悪くなった。
「ねえ、ダイス。これ大丈夫なの?」
『大丈夫だって聞いてる。赤い目印の棒が立ってるはずだから、それを頼りに進めだってさ』
「ふーん。まあいいけど……」
ダイスはユキノの精霊のゼタと偶然コンタクトが取れたのだとか言っていた。
私はあんまり精霊ゼタとは接点がなかったから、どんな人物なのかはいまいち把握していない。ま、ユキノの精霊なのだから、優れた知性の持ち主なのだろうと勝手に想像しているのだけれど。
「あ、目印あった」
木の枝に赤いヒモが突風により真横に引っ張られている。大丈夫だろうか、この目印。紐なんて飛んでいかないだろうか。
……考えても仕方がないか。とにかく今は進むことにした。
しばらくすると、目印の進路上にいた魔物と戦闘になってしまった。ホワイトベアという大きな図体ばかりが取り得の魔物だった。一応、拳の連打で倒したけど、とにかく雪の中では戦いにくいと実感した。
まず防寒によって服が重い。大変動き辛いし、走るのが相当に疲れる。力だって入れ辛い。頭ではわかっていたハズなのだけど、動いて改めて実感した。
あと、深い雪のせいで足回りが重たいのも難点だ。自分の戦闘方法は近接格闘だ。殴り、蹴り、掴んでは投げ、千切れるまで振り回す。その中でも、もっとも使い慣れた攻撃手段である蹴りが放てない。さらに殴る時のインパクトが制限される。寒冷地帯は始めてきたけど、ここまで動き難いとは想像してこなかった。
それに、だんだん鼻がかじかんできた。鼻の効きも微妙に悪い。だからと言ってマフラーを鼻に被せると匂いがほとんどわからなくなる。
『ティン、大丈夫か? 状態異常に凍結麻痺ってあるけど』
「少しつらいわね……。今何時ごろ?」
『まだ正午』
もう昼過ぎまで歩いたと思う程には疲れたのだけれど、そうでもなかったみたい。
すると『……ん? え、マジで? 助かるわ』というダイスの声が聞こえてきた。誰かと向こう側で話しているみたい。
『なんか、ゼタの方から迎えに来てくれるんだってさ』
「それは助かるわね。なら、もう少し頑張りましょうか」
「あのぉ、そちらだけで話とか決めてないですか?」
後ろで面白くない表情を作ったビルテが当然のように抗議した。もう少しの辛抱だからと説得して、しばらく赤い紐の目印を頼りに歩き続けた。
そうして突き進んでいると更に雪煙が酷くなり、どころかこれは雲の中にいるような視界の悪さにまで悪化していた。山の天気は変わりやすいとよく言うけど、これはちょっとでは済まない問題だ。後ろから付いてくるビルテとはぐれないようにと、一度合流しようとしたのだが……すでに遅かった。
振り向いた時、そこにビルテはいなかった。
「うそ……まさか、はぐれちゃったの!? ビルテェ!! どこにいるのぉーッ!? いるなら返事してぇー!!」
『ちょちょちょ、待った待った! 進路から外れると間違いなく遭難するって!』
ダイスの言葉にハッとなって、慌てて動き出すのはやめた。すると次に気になったのは、目印の存在がどこにも見当たらなくなっていたことだった。
胸の中で不安と焦りが押し寄せてきた。天候が雪嵐となった山の中では視界が悪すぎる。これ以上の行進はダメだと自分の足跡を辿って、赤い紐付きの枝の場所まで戻っていく。そこには確かに赤い紐の付いた枝の目印があったのだが、一際強い突風が襲い掛かり、赤い紐が風に乗ってどこかへ飛んでいってしまった。
「……雪山舐めてたわね。本気で遭難しかねないわ」
『いや、安心していいって。もう近くに来てるらしいから』
ダイスがそういっていると、少しずつだが山頂から吹き散らかす吹雪が弱まっていく。と同時に、うっすらと小さな人の影のようなものが目に映った。あの背格好はビルテではない。子供みたいに見えるけど、多分ユキノだと思えた。
突風で飛ばされそうにも見えるが、この状況下で現れる人物はビルテか、ユキノかのどちらかしか思えなかった。
それが少しばかり嬉しくも思えて、急いで駆け寄りたくなった。
「“ブリッツ・エクスプロージョン”」
その時、雷光のような光の線が今しがた発見した人影の足元に突き刺さった。
それがなんなのかを理解する前に、着弾地が赤い光りを放ち始め、とんでもない爆発を起こした。
爆風によって地面がむき出しとなり、そこだけ何もかも吹き飛ばした。ただ、どこからか、コートのような布の切れ端が風に乗って宙を舞っていた。
「意外と、あっけないですね」
嘲笑するかのようなビルテの声が遠く離れた場所から微かに聞こえてきた。