実は残り三日しかなかった
贅沢をしている。
ふと、そう思った。
だってこの家は、まるで夢にまでみた神々の宮殿を思わせるほどに恵まれた空間だからだ。
朝には暖かい陽射しが差し込んで、小鳥たちが朝の知らせを運んでくる。布団は柔らかいし、卸し立ての新品でも出したみたいに真っ白だ。
顔を洗うのにだってわざわざ雪を溶かしたりする必要もない。一時期住んでいたエルタニア王都の宿だってココまで便利ではなかった。
食事だって、ゼンタロウと一緒に居さえすれば簡単に用意されるし、食べる内容だって十分上だ。
本来は吟遊詩人がいないと聞けないはずの音楽でさえ、この小さな箱……音楽プレイヤー(?)と言っていた道具で簡単に楽しめる。
夜になっても、明かりを点ければ暗さに悩む必要もないし。
魔物が現れる様子もないし、戦う必要だってもちろんない。
これが贅沢でなくてなんなのだろうか。
きっとこれ以上の幸せなんてないだろうとまで思って、今日の予定を思い出した。
ゼンタロウが嘘を吐いてなければ、文字と言葉を教わるはずだった。
今までずっと会話に難があってモヤモヤしていたのだ。早くこっちの世界の言語をマスターして、ゼンタロウの鼻を明かしてやろうとも考えていた。
それが原動力となって、さっそくユカタと呼ばれる寝巻きを脱いで、昨日の服に着替えた。着心地の良かった方のフードとポケットのある服を選んで、ゼンタロウがいる倉に入っていく。既に二階で物音がしていて、パソコンという機械が動いているのがわかった。
驚かせるつもりはなかったので名前を呼びながら、二階まで楽に飛んでのぼる。すると、ゼンタロウは眠そうな声で椅子から振り返り、少しキレのない動きで耳に何かをつけて話し始めた。昨日買った小さい機械だ。ちょっと形がカッコいい。
『おはよ。早いな』
「おはようございます。ゼンタロウの方が早いですよ」
『あー、ちょっと昨日は寝心地がなぁ』
「何かあったんですか?」
昨夜は倉を出た後、誰かとする話し声を出していたのが去り際に聞こえていたが、何を話しているのかわからないのでそのまま去った。それと関係があるのだろうか?
しかしそれを聞く前にゼンタロウはとぼけた風に『なんでもないよ』と言い切り、こっちに来るようにと手でチョイチョイと呼びつけた。
そこには下にあった四角い椅子が用意されており、ゼンタロウがそっちの四角い椅子に座った。何をさせるのかと思っていると、自分が座っていた回る椅子に私が座るようにと言ってきた。
「なんですか?」
『文字と言葉を教えるって言ったろ? そのためにパソコンを使うんだよ。準備したからとりあえず座って』
使ったことのない……インクを必要としないペンを持たされ、薄い線の入った紙の束のような本が開いて用意された。これに書いて練習しろ、ということなのだろう。
するとゼンタロウが机の上にある小さな黒い物体を動かすと、目の前の光る板の絵が変わって、文字の表と思われる大量の字が表示された。
『これが今日、スノーに覚えてもらいたい文字だ」
「か、簡単に言いますね」
しかし、なんというか、文字の種類が非常に多くないだろうか? それにどの文字も曲線が含まれていて独特な形をしている。
エルフ文字でもここまで複雑ではなかった。それに、なんだか異様に多く感じる。エルフ文字の倍くらいの量がある。
「ゼンタロウ、本当にこれを全部ですか?」
『スノーなら問題ないだろ。平気ヘーキ、スノーだったらこれくらい一日で全部覚えられるって俺は信じてるから』
「過度な期待はご遠慮させて下さい……」
とはいうものの、この文字は基礎中の基礎だそうで、それ以外にも最低限、知っておいた方がいいって文字の種類はあるらしい。試しに、覚えなければいけない文字を全て並べてもらったが、数えるのも馬鹿らしい量になった。これを本当に全部使うのだろうか……?
「あの、この世界の文字、種類が多すぎませんか?」
『世界って言うか、この国の言語だけさ。でも、慣れたら気にならないぞ』
なんという暴論だ。慣れたら気になる筈がない。問題は理解するまでの道のりだ。
いや、情けないことを口にしたくない。いったいどれほどの時間が掛かるかはわからないが、頑張ってみよう。……と思ったのだが――
『もう三日しか時間がないからな。突貫だけど、文字を発音しながら書いて、刷り込み式の覚え方をするぞ。明後日までには簡単な会話ができるくらいにはしておきたい』
時間制限まで設けられていた。……ゼンタロウの私に対する信頼はなんだろうか。まあ、できないとは言わないけれど、もう少しペースを考えてほしい。
そもそも三日しかないなんて、いくらなんでも時間がなさ過ぎる。エルタニアにいた頃に覚えた公用語は、元から知っていた文字と使い方が似ていたから簡単に覚えられただけなのに。
「ずいぶんと急ぎますね……。ちなみに急ぐ理由はなんですか?」
『三日後から始まってほしくもねえ学校生活が始まるんだよ』
「……がっこう?」
そういえば、度々ゼンタロウはその学校という言葉を使って、そこに用事があるとかないとか、そんな話をしていたか。
『そういえば言ってなかったっけ? 明々後日から俺、殆んどスノーと一緒に居られないから』
「言ってないです。聞いてないです。普通に初耳です」
というと、ゼンタロウは何もない方角をみてわざとらしく「ハッハッハ」と笑っていた。あまりに能天気なので呆れて言葉が出なかった。
しかし、ふと考える。
ゼンタロウの通う『学校』という場所。多少なりとも気にはなる。果たして、どのような場所なのだろうか、と。
先の発言で一緒に居られないと口にしたので、きっと私がついて行く事が許されない場所なのだろう。だからこそ、余計に好奇心が湧いてくる。
その結果、このワザとらしく誤魔化すゼンタロウの生活を探ってやろうと今この場で思いついた。そう決めると、三日後が楽しみに思えてきた。




