今はただ、静寂の中で……
目覚めと共に、遠くの夜の彼方から、朝日の光が差し込まれるのを予感した。
アゲイルの背中に頭を押し付けたまま、いつの間にか夜明けまで眠っていた。未だに空を飛んでいたのには驚きだ。……いったい、何処まで来たのだろうか。
周囲を見渡すと、何処を見渡しても雪を被った山々が見える。そんな、どこか懐かしい気もする場所だった。
背の高い木が何本も見える。互いを邪魔しないように距離を保って、必死に太陽の光を浴びようと、みんな伸びている。
でも下方を見ると、雪崩によって流され、横倒れた一本の若い針葉樹があった。
生まれたばかりなのか、背も小さくて、根も弱くて、何よりも細くて軟そうだった。
ただでさえ極寒の厳しい土地なのに、横に倒れて光も遠くなり、大地からの恵みも受けられず、きっとあの木は遠からず枯れてしまうに違いない。
そんな風に考えると、まるで自分もそうなってしまうのではないだろうか、という錯覚になった。
どうして……。どうしてそんな風に考えたのだろう。なんの根拠もない単なる直感だ。でも胸の奥の痛い所を、鋭く引っ張られるような痛みを覚えたのは確かだった。
この時ばかりは、何も考えたくなかった。
思い巡らせ考える事を、今だけはやめてしまった。
「スノー殿。大丈夫か?」
アゲイルが唐突とも思える発言をした。
一体なんの事なのか、よくわからなかった。……そういえば多少、肌寒いな、とは思う。アゲイルが風除けとなっていたから、竜の背という場であってもそれほどの疲れはしていない。けれど、やはり高高度でこの極寒の山々の中だ。寒さ慣れしているという自負はあったが、それでも寒いとは思う。
「大丈夫。まだ平気」
「……そうか。……いや、確かに私が言うべき事ではないな」
何か言いたかったのだろうか、しかし歯痒そうに言葉を濁してしまった。
そうされると、自分が気を使われているのかもしれないなんて思ってしまう。だから何とかして何かを言うべきなのだと息を吸い込むのだが、結局何を喋れば良いのかがわからなくなり、最後には音を飲み込んでしまって、それっきりとなる。
しばらく飛行していると、雪が解けて、やがて断崖絶壁が連なる険しい山々へとやってきた。
北の雪山からの雪解け水が通っているのか、水は美しく、また木々は青々としており、鮮やかな色をした苔むした岩が並んでいた。その中ではトゲのある甲羅を持った、エルドラ子とは全く別種の竜と思わしき生物がいた。飛竜と鳥が合わさったような生物が群となって飛んでいたり、他には一等高い山の上から飛んでくる複数の影が見えたりもした。
昔みたアゲイルの鎧姿に似ている、ワイバーンに乗った竜騎士達だ。
彼等はエルドラ子を挟み込むように並んでくると、その誘導に従って、山の頂にある集落とも呼べる町の入口に降り立った。
「ようこそ、スノー殿。ここが私の故郷、ドラグラン王国、その都だ。とは言え、エルタニアの都と比べると辺境の街みたいに思えるかもしれないがな」
「……うん」
特に何も考えずに返事をした。地面は岩の塊のようにゴツゴツとしていて、山の噴火口の窪みに街が形成されているような感じだった。この街は外からでは全くその様子がわからない。下界と完全に隔離された空間だとも思えた。
私とアゲイルがエルドラ子から降りると、さっそく何人かの竜人族と思わしき、角が二本、耳の裏から出ている者や、蜥蜴顔をした者が近寄ってきた。アゲイルの知人だろうか。
「よく帰ってきたな、アゲイル。お前の噂は遠くからもずっと聞いていたぞ。偉大な火炎龍のお墨付きとはなぁ。偉いもんだ」
「久しぶりだな、カレッジ。そういうお前は何も変わりない様子だな」
鎧姿の者同士が固い拳を合わせあっていた。なんだかいい雰囲気だったが、次の者はアゲイルから手で払い返されていた。
「随分とまあ、こりゃけったいな姿になって帰ってきたな。それに、その盾が竜神様の神器か? 随分立派な伯が付いてよぉ、まるで御伽噺に出てくる英雄ではないか?」
「ヒースか。お前は触るな。またくすね取られては叶わんからな」
「いつの話をしてるんだよ。お前だって爺様の酒を一緒になって盗んでた癖に」
「お前はただ飲むだけだろう? もっと酒の味わいを知るがいい。でなければ安酒にしろ」
「外見は違うが、中は相変わらずだな」
最後には腕の甲をぶつけ合って両者は笑みを浮かべていた。
そんなやり取りを見ていると、少しだけ、胸の中がざわついてしまった。でも、すぐに見ないようにして忘れようと考えた。
その後はエルドラ子を好きにさせて、私は街の中を案内されて、いつの間にかゼンタロウやマダオが一緒になって現れていて、エルタニアとは文化圏の全く違う肉系の料理が並べられて、それで後で竜王という人に謁見するのだとか言われて、とりあえず支度をする事になるのだが……。
なんだろう。
何一つ、頭の中に入ってこなかった。
風が冷たいとか、空気に湿度が感じられるとか、竜人族は意外と喧しくて……思う事といえばたったそれだけだった。
『スノー? スノー? 聞こえてるか?』
「え? はい。何か御用でしょうか?」
『いや、御用って程じゃないけど……』
「そうでしたか」
ゼンタロウの呼びかけを、うっかり何度も呼ばれなければ聞き逃している程だった。
すると、ゼンタロウが普段の茶化しも入れずに、声のトーンを落として話し始めた。
『心ここに有らずだな。これからドラゴンの王様に会うんだが、大丈夫か?』
「……すみません」
『……現状を上手く整理できるか?』
「……やめましょう。今は」
止めて欲しかった。なんだか、今だけは誰も触れて欲しくないと感じていた。初めて、本当の意味で、私は今、ゼンタロウを拒絶したいと思っていた。でも――
『アゲイル。悪いんだけど、今日のスノーは体調が優れないからまた後日とか、言ってくれるか?』
「だろうな。私もそれがいいと思う」
「え? な、なぜ――」
『よし、ほんじゃスノー、ちょっと散歩にでも行くか』
いつもならこんなにも強引な手段で体を乗っ取らないゼンタロウが、確認も取らずに私の体を走らせた。街中を駆け抜け、切立った山の壁を乗り越えて、好き勝手に街から出て行く。
何をどうして、どこへ行こうとしているのかがわからないまま、山を駆け下り、森の中を掻き分け、気が付けば誰も来ないような山の中腹になる崖の端にまでやってきていた。
『この辺なら、誰もいないだろ』
「……今日はまた、何をしたいんですか?」
目前には崖があり、遠くまで景色が見渡せた。でもそれ程、見栄えはよくなかった。今は地面を見るばかりだ。赤茶色と乾いた土が混じったような、そんな色だ。
『まあ何だ。本来なら気にするなって誤魔化して勝手に立ち直ったりするのを待つべきなんだろうけど。でも、俺の経験則からだと、こういうのって膿みたいに残すと厄介だからさ?』
「……何を――」
会話の端は出てくるが、しかし途中で口が動かなくなる。何かを言おうとすると、心の中で痛い棘のようなものが勝手に動き出して、口からとんでもない事が出てきそうになったからだ。今は、ただ鎮まるまで、放っておいて欲しかった。ただ、それだけだった。
『ここなら誰もこないし、誰も見てない。好きなだけ喚いてもいいんだぞ?』
「……例えば?」
『アリッサのコンニャローっとか、全部台無しにしやがってーっとか?』
またいい加減な事を。それにゼンタロウはどこか、私とは違って、王都での事に踏ん切りを付けているようだった。まるで、私の心を置いていって、一人で解決したみたいに……。
そう思うと、余計に――。
「今のゼンタロウは、清々しいですね。私なんかとは違って」
色んな意味を込めて、色んな感情が入り混じって、自分でさえもワケがわかっていないのに、そんな風に口から毒の一部が飛び出してしまった。隠したかった感情の一部が荒波となった心の声が漏れてしまった。そう感じた瞬間に、自分でも「しまった」と口を縛った。すぐに取り消したかったのだが、ゼンタロウがそれを許さないように、会話を続けた。
『まあな。怒りのピークは大よそ6秒って言われてるらしいからな。それが終われば、後は鎮まるだけさ。要は付き合い方さ』
「……また、妙な知識を……」
『かもなぁ。俺はこれでも結構慣れてんだ。でも、一ついいか?』
「…………好きにしてください」
『スノー……おまえ、ちゃんと怒らなかっただろ?』
心の扉が開かれるように、風が吹いたような気がした。気がしただけで、実際にはなにも吹き抜けていない。
それがなにか。その正体がなんなのか。
『多少はムカついたり、腹も立ったかもしれない。でも追い込まれた時、ちゃんと怒らなかっただろう?』
「……しりません」
『ちゃんと、怒れなかったんだろう?』
「……わからないですよ」
『それ以上に、悲しかったんだろ?』
「知らないって言ってるじゃないですか!」
わからない。わかりたくない。でも、なぜか、勝手に胸が苦しくなって、張り裂けそうで、目から大粒の涙が止まらなくなっていた。悔しくて、それ以上に怖くて、辛くなって、また感情の波が抑えられなくなった。
どうして、いま、こんな時に……。
『だいじょうぶ。わかってる。色々あったよ。ツラいよな。苦しいよな。だから、今だけは泣いていいんだ。辛い事があったら泣いていい。悲しい事があったら誰かに話せばいい』
そんな事をいわれたら、また泣いてしまう。みっともない自分が出てきてしまう。せっかく、隠そうとしたのに、見せないようにしていたのに。
みんなが居たの。色んな人と関わって、自分の居場所みたいな場所ができたと思っていた。
それがエルタニアを出て行く時、いつの間にかみんなと二度と会えなくなるような不安に押しつぶされそうになっていた。去ろうとした瞬間に、あそこには大事なモノが沢山あったのだと気がついてしまった。
イヤなのに、子どもみたいに、泣くなんて、ぜんぜん、強くないのに。
強くあろうと、頑張っていたはずなのに。
このままではまた、弱くなってしまう。
『泣けばすっきりするぞ』
「……泣いても、いいんですか」
『叫んだらもっとスッキリするぞ』
「声も出していいんですか」
『今だけは何も考えなくていい。好きにしていいんだ』
喉から出かけた言葉が、詰っていた感情が、もう、爆発寸前だった。
声を、出した。
一つ、漏らした。
そしたら、心の荒波が声にならずに音となって、涙と一緒に大声で吐き出していた。
誰にも見せられないような、恥かしい感情任せの嗚咽が、誰もいない筈の世界の中で、勝手に生み出されては静寂の彼方に消え去っていった。まるで、そんな私を受け入れてくれるように。
ゼンタロウは、黙って全てを聞いてくれてた。
泣いて、喚いて、悔しさに、苦しさに、胸を押さえて――
そして、全てを吐き出し終えたあと、善太郎はまるで自分にも言い聞かせるように言うのだった。
『死ぬまで人生は終わらない。例え何者かによって全てが終わったとしても、また一から歩き出せばいいのさ』




