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鼎 3/3

作者: 阿南洸汰

          羊

                                   阿南洸汰


          プロローグ


 朝の爽やかな日差しの中で、真っ赤なソファーに腰かけて食い入るようにテレビを見つめている。貴方は手を右に振って、手を左に振って、眉間に皺を付けて、しきりに首を左右に振って。

「いいですか。これに書かれているものは殺人なんですよ。それも、一番卑怯なことに子供を殺す話なんです。つまりですよ。たとえ、作者の意図がどこにあったとしても称揚されるようなものではないはずです。これの影響を考えてみてくださいよ。だから、あなたの言っていることはおかしい」

 右手の人差し指をぴんと伸ばす。眉間に皺を付けて、口を歪ませる。それから口を大きく開けてパクパクと動かす。三色のきらめきが様々な色となって一つの映像を象る。奇妙なずれとなった音と行為がお芝居のような、人形のような、動かし難き基礎を持ちつつも、一つに閉じ込められた現実の上で仮象されている。

「それはね、違うでしょ。表現の自由っていうのはさ。確かに大切だと思いますよ。でも、これは駄目でしょ。こんなの許されないよ」

 眉間の皺をそのまま深く刻んだままで、目に込めていた力を器用に少し緩めて腕組みをすると鼻を鳴らす。

「いやいや、確かに社会では尊重し合うってことは大切だと思いますよ。でもそれでもやっぱり、一人の子を持つ親として、この小説は認められないですよ。だって、そうじゃないですか。確かにあなたの言う通り、これが現代社会の批判を含んでいるとしましょうよ。えーっと、なんですか、そうだ。父権の喪失を扱っているとしましょうよ。それによる共同体の何たらかんたらだとしましょうよ。2000年代の問題意識を持っているとしましょうよ。でもさ、そんなの他でも代用できることでしょう。いらないじゃないですか」

 もう一度目に力を込めると、口を尖がらせて、もう一度パクパクと大きく動かす。やはりほんの少しだけのずれはどうしても巨大で、無視することのできないものだった。少しのけぞって、見下すように睨む。

「はいはいはい。わかります。わかります。でもね。やっぱり。俺たちって同じものを共有して仲間になっていくと思うんですよ。夢だとか、一緒に頑張った思い出だとか。この場合だったら倫理観とか。そうじゃないですか。だからこそ、こういったことは言っていかないといけないと思う。子供たちだってこれを見ようと思えば見ることができるわけですよ。その影響だって考えなくちゃいけないと思います。大人としての責任ってさ、そういう事なんじゃないですか」

 そう言い切って、相手をやり込めてふんぞり返る男を周りが称える。何も考えていない猿の様に手をやたらと大きく動かして拍手をする。パチパチパチパチ。音と手はやっぱりずれていた。瞳を零れるほどに見開いて、力いっぱいに拍手をする。パチパチパチパチ。

 番組はそのままプログラムの通り流れていく。朝の情報を伝え、天気予報を伝え、流行りが何だとかを伝える。男は一言二言それに意見をさしはさみ、その場を取り仕切っていく。それに反応して何度も何度も頷く。

「いや、これうちの息子が好きでさ。流行ってるらしいね」

「そうなんです。今子供たちに大人気のー」

 馬鹿みたいに笑顔の女は馬鹿正直に甲高い声を出して、手に持ったカラフルなおもちゃを弄っている。

「おいおい、お前、朝の番組だぞ」

「えっ、ああ、はははは、嫌だ、佐藤さん」

「ははっはっはっはっはっは」

 大きく体を震わせて笑う。女は珍しく取り繕った笑い方ではなくて自然だった。周りの人間も笑う。猿の様に手を叩く音だけがする。パチパチパチパチ。全てが一緒くたになって、ぬるぬると角がなくなって、抵抗がなくなって、どんどんと転がっていく。

「はい、ではいったんCMでーす」

チャンチャラチャッチャチャーチャラチャラチャラチャッチャララーララーラーラーチャーラーララーチャーラーチャッチャッチャ。

 パッと画面が切り替わると今までと何の脈絡もなく主婦が映る。何ともつらそうな顔をして便器を磨いている。後ろからは赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。何度擦っても少しも綺麗にならない便座に辟易としている彼女の表情に画面が寄っていったと思うと場面がいつの間にかスーパーの売り場に切り替わる。彼女の背中に背負われた赤ん坊は泣きつかれていたのかすやすやと眠っている。彼女は売り場の前で、一つの商品を手に取る。また画面がその商品に寄っていったかと思うといつの間にか初めに写った便座の前にいて、その商品を吹きかける。すると、あっという間もないほどに短い時間でトイレは綺麗になった。彼女はとても喜んで、いつの間にか抱いている子供と笑い合っている。商品の名前が出てきて、軽快な音楽が流れた。

チャンチャラチャンチャラチャンチャララララーララーーーー。

またパッと画面が変わる。やせ細っているのにお腹だけが大きな子供がその濡れ輝く眼差しをこちらに向けている。バックではとても哀しい音楽がこれでもかと流れて、悲惨な写真をいくつもいくも背景に流していく。語りが入る。戦争とそれに伴う飢餓、経済格差による貧困、暴力とそれとともに息づく悪徳としての支配欲。それに阿る者たちの弱さをこれでもかと強調して、それに対するように愛による勝利を訴えている。いつの間にか、背後でずっと流れていた音楽は局長を変えて明るくなっていた。また画面が切り替わり、柔和な笑みを浮かべた女が現れると、電話番号が浮かび上がって、寄付をつのっていた。

ルールルルーチャーチャーチャーチャールールルルルルーピーピーヒューヒューヒューピーーーーー。

また変わる。男が出てきて、いきなり走り出す。ずっと軽快な音楽が流れ続けている。次第に男の髪は乱れてしまう。そこで彼はこれまたいきなり整髪料を取り出すと、何のためらいも無く髪に塗りたくった。彼の髪はすぐに戻る。そして、いきなり現れた女性にウインクをされた。

チッチャチャッチャッチャッチャッチャッラーラララーラーーーラララララーーーラーーラチャッチャッチャッチャッチャラー。

そんな風に画面がいくつもいくつもめまぐるしく切り替わっていく。そのたびに全く違う音楽が流れて、違う人が現れて、違うことをして、違う語り口で同じことを伝える。そのどれもこれもがとてもけばけばしい自信に満ち満ちていて、両親から聞かされる身もふたもない勧善懲悪のおとぎ話の様だった。

チャンチャラチャッチャチャーチャラチャラチャラチャッチャララーララーラーラーチャーラーララーチャーラーチャッチャッチャ。

「ははは。なんでだよ。お前、そんなのおかしいだろうがよ。お前、食えよ」

「佐藤さん、勘弁してくださいよー」

「ははははははっ」

「はははははっ」

 大きく笑う。へらへらした男はそれでも困ったように眉尻を下げると、手に持った真っ赤な食べ物を思い切って口の中に入れた。

「ぐうぅ、ごほっ、ごほっ」

 大きく体を震わせて笑う。男は顔をしかめて、大げさな身振り手振りで自らの口の中の痛みを訴えている。みんな笑う。パチパチパチパチ。猿のように手を叩く。パチパチパチパチパチ。男はまだ苦しんでいた。もっとぬるぬると角が取れて、抵抗がなくなっていって、全てが一緒くたになって転がっていく。

「ーと、言うことなんですがどう思われますか」

「いやこれはよくないと思いますよ。だってさ、ずっと閉じこもってるわけでしょ。そりゃさ、嫌なことがあるっているのは解るよ。俺だってそうだもん。でもさ、それだけじゃだめじゃない。向き合って行かないと。そうでしょ」

 周りに侍る人間たちが胡乱な瞳をしてコクコクと首を縦に振る。真剣さを表すためだけのほんの少しの顔の強張りは実に嘘くさくて気持ちが悪いだけだった。それなのに引き締まったような雰囲気だけを漂わせて、でも、その本性を変えぬまま中心を取り巻いてゆるゆると流れていく。

「いやー、ほんとに素晴らしいですね」

 女が感嘆してみせる。小さく、手のひらに収まるように小さな画面に切り取られた野球のユニフォームを着た少年が、はにかみを見せている。

「いや、立派だよね。やっぱりさ、こうでないとね」

 体を大きくのけぞらせると、うんうんとしきりに頷いて、あらん限りに称賛する。周縁では力能により惹起された位階と秩序が形成されていく。誰一人として口を差し挟まない。

 いちいち大げさに表情を作る。周りのみんなが笑い、猿のように手を叩く。パチパチパチパチ。とても満足そうに笑う。一切の中心に坐すものに差配されるそこは、周縁にある良いものも悪いものもすべてを否応もなく引き付けて、その中に組み込んでいく。また笑った。また手を叩いた。そこでは全てのどうでも良いことにも鮮やかな色と暗い影が仮象されていった。

「はい、では、また明日。さよーならー」

「さようなら」

「さようならー」

チャンチャラチャッチャチャーチャラチャラチャラチャッチャララーララーラーラーチャーラーララーチャーラーチャッチャッチャ。

 軽薄な音楽とともに彼らは手を振って挨拶する。異常なほどの青さを湛える青い空では、ゆっくりとその頂点へと太陽が昇っていく。それから発される光線はまっすぐに、遮るもののないマンションの高層の窓を透過して、じりじりと私の皮膚を焼いている。私はテレビを消す。ふっつりと音がなくなった。体を弛緩させてソファーにぐったりと預ける。部屋は独りきりで、騒がしさが落ち着くと、スズメの泣声が聞こえてきた。私はのそりと立ち上がと洗面所へと向かった。顔を洗う。バシャバシャとあたりに飛沫が飛んでいく。鏡には髭を生えるままにし、髪を伸びるままにした、でっぷりと太った三十代半ばほどの男が映っている。私はそれをまじまじと眺める。口を大きく開けてみる。すると、鏡の中の私も大きく口を開ける。一瞬のずれもなく、一つの違いもなく、私と同じ動きをしているそれはやんわりと苛み、ほんの少しだけ剥離していた精神を異常なまでに肉体にがんじがらめにする。寝室に向う。青いシーツを敷いたベッド、埃のかぶった本棚。そして、机。一切は意味を持たない記号のように私の頭に入り込んでくる。私はこの虚しく重たい体をベッドに預けた。ベッドは軋んだ音を立てて、埃を舞い上げる。呼気の中に含まれるその過去の集積が鼻腔を通って肺に入ってくる。先ほど見たものを反芻する。

手を右に振って、手を左に振って、眉間にしわをつけて、しきりに首を左右に振って。また埃が舞った。

右手の人差し指をぴんと伸ばす。眉間に皺を付けて、口を歪ませる。口を大きく開けてパクパクと動かす。喉の奥に埃がへばりつく。

眉間の皺をそのまま深く刻んだままで、器用に目に込めていた力を少し緩めて腕組みをすると鼻を鳴らす。あけられた瞳には否応なく、くすんだ天井が映っている。

もう一度目に力を込めると、口を尖がらせて、もう一度パクパクと大きく動かす。少しのけぞって、見下すように睨む。たくさんの脂肪の乗った腹が見える。

相手をやり込めてふんぞり返る。拍手が聞こえてきた。パチパチパチパチと。それは何とも無暗に大きくて、耳を塞いでくれた。

大きく息を吸う。陽光が私の皮膚を焦がしている。皮膚の下の脂が浮き上がっていく。窓のわずかな隙間から眺める空では、静かに雲の流れていて、風の俟っていることを告げていた。四肢はその風に乗っているように今までの虚しい重さを失っていった。夢が見たかった。ただ、単純に夢が見たかった。

だから、一切を後ろにやって、体をベッドに預けて瞼を下した。




          1


 女が獰悪とも取れるほどに軽薄な笑顔を浮かべている。えくぼを作った彼女は表情をそのままに甲高い声で話を始める。

「今日のゲストは今話題の小説家、赤棟カガシさんです。赤棟さん、今日はよろしくお願いします」

「・・・・・・」

 肥満体で背の高い男はか細い声で何かを呟いているのに、それはマイクにすら拾われず、何も言っていないようだった。女は笑顔をぺったりと張り付けたままで、徐々に焦りを見せ始める。スーツを纏った細身の司会者の男は眉間にしわを作って、顔をしかめる。そして、とても億劫そうに話し始めた。

「はいはい、じゃあね。赤棟さん。これからどんどん質問させていただきますよ」

 痛々しいまでに笑みを強要されている女はこれを契機に話題を段取り通りに進めようと、手元にある紙に目を落としてまた甲高い声を出した。

「はい、では。赤棟さんよろしくお願いしますね。その、早速で恐縮ですけど、赤棟さんの小説には、その、かなり過激な描写もありますし、それに対して活発な意見が交わされていますが、赤棟さんご自身はそれに対してどういったお考えですか」

 手元にある原稿に書いてある通りの言葉を懸命に作り上げた猫なで声で読み上げてから女は顔を上げる。展示されるマネキンの様に、望ましい服を着せられて球体に薄く顔の皮膚だけを乗っけている様な彼女の瞳は自らの仕事をやり遂げたという確信以外には何もなかった。ちゃりちゃりと煩わしく耳のピアスだけが揺れ動いて実に鬱陶しい。

「・・・・・・」

 他方で男はその無暗に大きい体を小さく丸めて俯いたまま、また口をもごもごと動かす。やはり、何も聞こえてはこない。女はその皮膚だけの表情をしっかりと固めたままで、また当惑してしまう。しきりに視線を下に落として、何度も何度も文字をなぞったり、視線だけを明後日の方向に彷徨わせたりしていた。そのせいで今までかろうじて流れていたものが淀んでしまう。何とも言いようのない、すかすかとした音楽が流れている。此処では無い何処かに向いていた視線は何かを見つけたようで、慌てた様に女は口を開こうとした。すると

「じゃあ、もういきなり本題なんですけど、赤棟さん。あのね、あなたの小説なんだけど、俺は好きじゃない。いや、嫌いだ」

 女とは違って手元の紙を一切見ずに断言する。太った男は肉に圧されて細くなった目を力いっぱいに大きく見開いて顔を上げると、小さく、だが、今度は相対している相手には届く程度の大きさで「そうですか・・・」と、呟いてもう一度俯く。焦った女が上面の笑顔のままでその場を何とか取り繕おうとする。

「あ、あの、佐藤さん。その、まぁ、でも、皆さん合う合わないがありますし・・・」

「いや、おかしいでしょって。この人の小説。三村だってさっき言ってたじゃない」

「それは・・・」

 三村と呼ばれた女は再び笑ってごまかすと、助けを求めるようにまた目線を明後日の方向へと向ける。その態度に憤然としつつも、佐藤と呼ばれた司会者の男は目にぐっと力を込めて話を続けた。

「赤棟さん。俺はね。別にあなたのことを責めてるわけじゃないんですよ。そりゃあなたにだって、考えがあって書いてるってのはね、俺だってわかるんです。批判的に描いているってのも理解はできるんです。頭ではね。けど、けどね、俺は息子もいるし、それにそういうのは違うじゃないですか。社会に向き合っていかなくちゃいけないわけですよ。嫌なことでも、他人とでもいっしょに生活していかなくちゃいけないじゃないですか。結局は。折り合いをつけなくちゃいけないじゃないですか。俺だってそうだし、あなただってそうなんですよ。だからね、あなたの小説が俺は嫌いなの」

 身振り手振りを交えて、そう言い切ってふんぞり返る。体の奥底から一切の濁りを持たない確信が沸き上がり漲っている。女はまた目を泳がせると、何かを見つけて、コクリとうなずく。男は不服そうな顔をそちらに向けると大きく鼻を鳴らした。

「えーと、はい、では、いったんCMです」

 チャンチャラチャッチャチャーチャラチャラチャラチャッチャララーララーラーラーチャーラーララーチャーラーチャッチャッチャ。

 馬鹿にしたように軽薄な音楽が鳴って、また馬鹿みたいに笑顔の女が映った。そして、また馬鹿正直に甲高い声を出す。

「はい、赤棟さん。では、気を取り直して質問させていただきますね」

 顔の皮膚をぐにぐにと動かすだけのにこやかさでもって、髪もぼさぼさで、せむしで、でっぷりと脂の乗った腹をしていて、それでいてなまっちろい男に念押しする。男は虫けらの羽音の様にか細い声を出すが、なんといったのかは聞き取ることができない。のっぺりと貼り付けた笑みが何とか剥がれないようにして、優等生が教科書を朗読するように三村は手元の紙に書いてある通りに言葉を発して、一方的に論を進めていく。

「ーと、言うことですが。赤棟さんはどういったお考えでしょう」

 太った男は俯いたままで貝の様に閉じこもって何も答えない。一仕事終えて、もう何も与えられていない三村は何となしに弛緩した雰囲気を漂わせて答えをただ待っている。すると、佐藤はやおらに腕組みしていたのを解いて、ぐいと前のめりになると、太った男のことをまっすぐに見つめてはきはきと、手足を十全に動かすのと同じように自らの口を存分に使って、自らの考えを伝えた。

「赤棟さん。俺はさっきも言った通りに貴方の小説が嫌いです。けど、誤解しないでほしいのは、だからと言って貴方が嫌いなわけじゃないし、この場にいるみんなだって貴方の味方ってわけじゃないけど、敵ってわけでもないんです。ですから、ゆっくりでもいいですから話してもらえませんか」

 佐藤は初めの荒い口調から一転して、とても柔らかくなった。今まではただ紙に書いてある文字をなぞるだけだった三村も今やしきりに頷いている。太った男もやにわに頷き始めた。下あごに垂れ下がった皮膚の内側にある脂肪がプルプル、プルプルと揺れている。佐藤はそんな彼にまっすぐに瞳を向けたままで柔らかく微笑んでいる。三村もそんな彼の醜態を見て笑っている。口に手を当てて見えないように隠してはいても目が半月の形になっていた。周りに人間も笑っていた。微笑むふりをして、受け入れるふりをして、ただ笑っていた。

「赤棟さん。今度は答えて下さいよ」

 一転して、芝居がかった様子でにやりと口の端を上げてから、グイと体をのけぞらせる。薬指につけた指輪が照明を反射してきらりきらりと光っていた。

「赤棟さん。どうですか」

 義務感から居住まいを正すと、三村は見つめ続けているせむしで、髪もぼさぼさで、でっぷりと太っている男に再び訊ねた。もうしっかりとした後ろ盾を得た彼女の表情はとても得意そうで、反対に佐藤は彼が応えるまではいつまでも待とうという具合にどっしりと構えていて、一つの正しいことが中央から演繹され、作出されているそこは、どこにも逃げ場のない様相だった。

「その、はい・・・、そうです・・・」

 かなり長々と時間を費やして、やっとのことで太った男が頷く。三村はほっと胸をなでおろしてみせる。彼女はさらに続けて話を引き出し、自らに与えられている職務と、人格を全うしようとする。

「なるほど、もう少しー」

 太った男は答えた後もずっと佐藤を眺めていた。彼は手を体の前で組んで、三村の話に実に真剣に、侮るところもなく、嘲るところもなく耳を傾けている。また指輪がきらりきらりと輝いている。

「ーどうでしょう。赤棟さん」

 目線を下に落として、浪々と話してから三村はまた顔を上げる。太った男は呼びかけに気が付くと、目が覚めたばかりのような胡乱な瞳を彼女の方へと移した。三村の貼り付けた笑顔が少しひきつる。太った男は口をもごもごと動かしているが、やはり声は聞こえてこない。また顎の下の垂れ下がった脂肪がプルプル、プルプルと震える。三村の笑顔はひきつったままで、当惑が深まっていった。震える男のたっぷりと脂の浮いた額から粘つく汗が玉のようになって噴き出すと、重力に抗いきれずに、そのまま皮膚をゆっくりと滑って目へと、頬へと流れていく。皆が彼のことを見ていた。じっと、芋虫でも見るように見ていた。

「どうですか、赤棟さん。彼女の質問について」

 佐藤は笑顔を引きつらせる三村のことも、たらたらと脂っこい汗を流す太った男のことも一切気に留めていないような純真な、それでいてとても強いまなざしで訊ねた。太った男は白痴の様に、答えようとしているのか、笑っているのだかよくわからない程度に口を開いている。やはり言葉は出てこない。

「あーかーむーねーさーん」

 佐藤がわざとらしく言葉を伸ばす。あまりに間の抜けたそれが可笑しかったのだろう。三村は堪えられないように噴き出す。辺りからも笑いが漏れて、太った男も少しだけ口角の角度を鋭くする。そこにいる誰も彼も恐ろしいまでにがらんどうの瞳をしていて、釣り上げた口角の阿諛の中心で男はまたぐっと体をのけぞらしている。それらは最も目を背けたいものをあけすけなまでに露にしてしまった。

「赤棟さん。どうよ。実際のところ。彼女の質問に答えてあげてよ」

 それまでの居丈高な態度をすっと収めて、真摯に問うた彼に太った男は汗をだらだらと流しつつも応える。

「・・・。はい。そうです。そういったことを・・・主題として・・・書きました・・・」

 神妙な表情をして頷く佐藤に三村も、そして周りの人間も追従した。皆真剣なふりをしているが、本当に彼の言葉を聞いているものは佐藤だけだった。太った男はぼんやりとそのさまを眺めている。皆が、嘲りを潜めて、彼に、今までのことなどもうどこかに消え去ってしまったように柔らかい頬の肉を動かして笑いかけている。

「なるほど、赤棟さんさ。俺また厳しいこと言っちゃうけどさ。それってどうなのよって話。その、なんていうかな。俺にとって、その主題っていうのは頭ではわかるんだよね。でもさ、このお話を読んで俺が最初に思ったのは自己中心的っていうかさ、自分勝手だよなって話なのよ。大人になり切れていないっていうか、いや、それも大切なのはわかるんだよ。表現としてさ。さっき言った主題を成り立たせようとするためには。でもさ、違うじゃんって話。俺たちってさ、やっぱり妥協っていうんじゃないんだけど、なんていうか、他人と一緒に暮らしているわけで、その中でやっぱりそういう人たちと向き合ってやっていかなくちゃいけないわけじゃない。そりゃ俺だって嫌な思いとかしたし、色々あったよ。けど、この主人公のやっていることってやっぱりガキなわけよ。そうでしょ。頑張って、歯を食いしばってさ、社会と向き合って行かなくっちゃ」

 硝子でできた義眼の様に澄み切った瞳をまっすぐに、彼は力強く言い切る。ずっとそれに見惚れている。周りの人々はやっぱり気味が悪いくらいに柔和に微笑んでいる。太った男も微笑んでいる。

 チャンチャラチャッチャチャーチャラチャラチャラチャッチャララーララーラーラーチャーラーララーチャーラーチャッチャッチャ

 馬鹿にしたように軽薄な音楽が鳴って、また馬鹿みたいに笑顔の女が映った。そして、また馬鹿正直に甲高い声を出す。

「続いてはお天気です。吉田さーん」

 画面がパッと変わって、また馬鹿みたいに同じ笑顔の女が映った。その女が馬鹿正直に甲高い声を出そうというところで急いでリモコンを取るとボタンを押して電源を切る。パッと画面が暗転して、太った男の姿が浮かび上がった。四肢から力を抜いて、自らの呼吸とともに胸の上下するのをボンヤリと眺め続けていた。


「ー本当に心配ですね」

 三村が力いっぱいに眉間にしわを作って、出来るだけ低い声で、落ち着いた調子でしゃべっている。それなのになぜだか女の顔の皮膚はゴムの様で、声はすかすかと空気を吐き出すだけだった。隣の男はかなり若く、佐藤ではなかった。でも、彼と同じように細身で、ぴっちりとスーツを着ている。

「ええ、少しこのパネルをご覧ください」

 男は後ろにある大きなパネルの方へと顔を向ける。仰々しさと軽薄さを兼ね備えたそれに男はわざとらしく目じりを下げてみせる。

「この地点に雄大くんの学童帽子が落ちていたそうです。警察ではー」

 とても重たい口ぶりなのに、手をしきりに動かして、必死になってどういったことが起こったのかを伝えようとしている。

「それで、警察の見解なのですが、その、犯人が雄大君の、その、なんといいますか・・・。体の一部や・・・、動画や写真を佐藤さんに送り付けていることからも怨恨による犯行ではないかという見方が強いようです」

 今までの伝えよう伝えようという態度はすっかり鳴りを潜めて、今では言葉を濁して、焦点をぼかして配慮している。女も男もとても辛そうな表情を浮かべている。けど、後ろのパネルはやっぱり派手でとても分かりやすかった。

「佐藤さんが心配ですね」

「ええ、一刻も早く解決してくれることを祈ります」

「はい、では、続いてはお天気です。吉田さーん」

 画面がパッと変わって、また馬鹿みたいに同じ笑顔の女が映った。その女が馬鹿正直に甲高い声を出す。

「はーい。吉田です。CMの後は皆さんが気になっているであろう週末のお天気をお伝えしていきまーす」

 チャンチャラチャッチャチャーチャラチャラチャラチャッチャララーララーラーラーチャーラーララーチャーラーチャッチャッチャ。

 開け放たれた窓の遥か彼方で夕焼けがやんわりと沈んでいく。燃えるような残照は棟々に反射して、網膜に黒い斑点を作っていった。じりじりと熱を持った光線に照らされて皮膚が焼かれていく。騒がしさも悲哀も一瞬で無かったことになって、死体のように静かになったテレビを置いて立ち上がった。そして、隣の寝室に向かう。

 同じように開け放たれた窓から西日の差し込むそこにはきっちりと本の高さの順に整理された本棚、塵一つとして落ちていない白い机、そして、薄青のカバーをかけられたベッドの上に裸にされて、後ろ手に縛られた少年がうつぶせで横たわっている。あらぬ方向へと曲がった指の先に爪はなく赤茶けていて、猿轡をされた為だけでは無く、口とそれにつながる頬の皮は歪んでいる。呼吸はか細く、そのとても薄い背中には幾重にも重なっているが為にどす黒くなった痣がいくつもあった。

 空で逆巻いていた風が、遮るもののないこのマンションの窓から滑り込み、髪の間を通り抜けていくと、匂いの漂う部屋をかき回して、素知らぬ顔でまた同じ窓から出て行った。遠くからもう家に帰るであろう子供たちの活発な声が聞こえてくる。

「今ね、テレビを見ていたんだ」

 ピクリとも反応しない。とても優しく慈しむように背中に触れる。それはとても熱かった。笑い声が聞こえてくる。迫るように、圧しつけるように。全ての人々が笑っている。パチパチパチパチパチパチ。

「はぁ、はぁ。僕は違う。絶対に」

「・・・・・・」

「はぁ、はぁ。ああっ」

「・・・・・・」

「うっ」

「・・・・・・」

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ。僕はうそつきじゃないよ。僕はうそつきじゃない」

「・・・・・・」

「明日ね、僕は君のお父さんの家に行ってくるよ。この間の動画もプレゼントするんだ。憶えているだろう。君はいっぱい泣いていたね」

「・・・・・・」

「涙をぼろぼろとその目から落として。やめて、やめてって」

いびつな形をした指が、歪んだ口の皮が震えている。体が熱くてどうしようもなかった。もう一度背中に触れる。パチパチパチパチパチパチパチ。

「大丈夫だよ。はぁはぁ。また生えてくるよ。はぁはぁ。知っているんだ。知っているから。また元通りになるよ。はぁはぁはぁはぁ。きっと平気だよ」

「・・・・・・」

「ああ、本当に楽しみだ。はぁはぁ。楽しみなんだ。楽しみだ楽しみだ。はぁはぁはぁはぁ。楽しみだ楽しみだ楽しみだ。僕は他のはぁはぁ。人たちとは違う。はぁはぁ。絶対に。はぁはぁ。ふふふっ。はっははははっはっはっははっはは」

「・・・・・・」

 パチパチパチパチ。

 パチパチパチパチ。

 夕日はもう地に落ちきって、暗くなった部屋の中では追い詰められたような笑い声と、機械の様に静かな呼吸の音だけしかなかった。


 



          2


 人がわんさといる広々とした家。真新しくて、真っ白な壁が大きな窓から取り込まれた陽光をめちゃくちゃに反射して、部屋の隅々まで照らしている。室内に飾られた植物は、わずかに許された領地で青々と輝く葉を誇っている。それなのに、それに目もくれずに人々らはみんな猿の様にやたらと大きく声を出して笑いながらオードブルを食べて、お酒を飲んで、実に楽しそうな表情をその皮にのっけて話している。

 顔をしわくちゃにして、気持ちが悪いくらいにぴったりとして、胸元の大きく開いた紫色の派手なドレスを着た、気持ちが悪いくらいにごてごてと厭らしいネックレスと、気持ちが悪くなるくらいに香水をつけたおばさんが話しかけてきた。

「貴方、赤棟さんでしょう。テレビでお見かけしたことがありますわ。お痩せになられたけど。きっと、そうでしょう」

 筋肉にわずかに引っ付いている頬の肉をプルプルと震わせて、おばさんは強引に決めつけて話を続ける。

「貴方の小説、二つとも読んだわ。とても悲しいお話なことね・・・」

 わざとらしく目を伏せて、いったん間を置いた。それから目の前の男の手をその肉のついているくせにしわくちゃになっている手で握る。その手にはごてごてと、美しさなどどうでも良くて、ただ誇ることしか考えていない、不細工にでかい石を付けただけの酷い出来の指輪をしている。一切力の入っていない手を握り締めると、また頬の肉をプルプルとさせる。

「貴方もお辛かったのね。わかるわ。私も同じですもの。年を取ると嫌なものばかり見ますわ。本当に、皆が皆幸福に暮らせるようになれば良いのにね」

 爪がとても長くて、ドレスと同じ紫色だった。痩せたせいでたらりと弛んで黒ずんだ頬の皮がわずかに上げて、またにっこりとほほ笑む。いまだに手に力は入っていない。握り返しもしない。だから、その場を取り繕うために、そして自らを貶めないためだけに慰めてみせる。

「よいのですよ。よいのです。わかっています。わかっていますわ。貴方は傷ついているのですものね。大丈夫ですよ。大丈夫」

「皆川さん。皆川さん。ちょっといいですか」

 早口でそういうと、筋肉質で日焼けをしていて、少しだけ髭を生やした男に呼ばれる。顔を綻ばせると、軽い挨拶をした。

「あら、あら。何かしら。じゃあ、またね、赤棟さん」

 筋肉質の男は、カツカツとハイヒールの靴を鳴らし、もったいぶって歩いてきたおばさんの耳元で何かを囁いた。彼女はまんざらでもなさそうに微笑んだ後で、急に偉そうになって手を軽く上げて男を制した。男はほんの少しだけ心底骨が折れるという表情を浮かべたが、へりくだった。おばさんは満足そうだった。男はやはり心底疲れている様だった。

 にぎやかだったその家がほんの少し静かになった。急いでビデオカメラを取り出す。ホストである佐藤と彼の奥さんがすっと現れた。奥さんは深紅の、背中の大きく開いたドレスを着ている。けど、それは決して下品ではなくて、むしろ気品があった。耳で光るイヤリングも控えめだった。佐藤の方はというと、いつもテレビで見るのと同じようにぴっちりとしたスーツを着ていて、それでいて、ほかを圧することのないような大木のようなたたずまいだった。

「皆さん。今日は楽しんでいってください」

 にっこりと笑顔を作る。拍手をする。機械仕掛けの猿のおもちゃのように。パチパチパチパチ。

「奥さんやつれたね」

「ああ、やっぱり雄大君のことだろう」

「こんな時にね・・・」

「仕方ないんじゃないか、政界まで狙ってるらしいし、この家だってローンだろ」

「それもそうね」

 言葉が濁流のような拍手に押し流されていく。ゲストに対して、丁寧にあいさつ回りをしている彼らが近づいてきた。背筋をしゃんと伸ばして、明るい表情を作る。手にわざとらしくグラスをもって。

「佐藤さん。お久しぶりです。林です。とても盛大なパーティーで、とても楽しませていただいております」

「おおー、おおー。林か。南さんもご一緒で。なんだ、なんだ二人とも、もうすぐゴールインなんじゃないの」

「ははは、嫌だなぁ。勘弁してくださいよ」

「おい、おい。何言ってんだよ。お前よぉー。なぁ」

「ええ、南さんをあんまり不安がらせちゃいけませんよ」

「そうなんですよ。加奈さん。この人ってそういうところの決断力がなくって」

「ええ、お前こっちの味方だろ」

「はははっ」

「はははっ」

「はははっ」

「はははっ」

 とても和んで、そう軽く一言二言交わしてから、また挨拶回りを続ける。後方に二人が流れていった。残された二人は彼らを見送ると、手に持っていたグラスをすぐそばの机にさっさと置いて、頬の肉をすとんと落とした。

「やっぱり奥さん辛そうだったね」

「ほんとにね」

「いい気なもんだよなぁ・・・」

「ほんとにね」

「佐藤さんもなんだかなぁ・・・」

 深紅のドレスをひらひらと翻した奥さんが、佐藤から離れて紫色の派手で、胸元の大きく開いたドレスを着たおばさんに話しかける。

「皆川様、この度はお越しいただいて・・・」

「ああ、加奈さん。当り前ですわ。私が佐藤さんのお誘いを断るわけがないじゃありませんか」

 垂れ下がった頬の肉を精一杯に持ち上げて弛んだ皮膚にまでも力を入れようとするために複雑な皺を顔に付いてしまう。深紅のドレスが楚々とした佇まいをより一層引き立てている。細い、柳の様な体と時折影の差す表情に忌々しくも筋肉質の男が見惚れている。喉を精一杯に絞って甲高い声で答えた。

「皆川様には本当にお世話になりっぱなしで・・・」

「あらあら、そんなこと・・・」

「いいえ、この間も主人の為に骨を折ってくださって」

「あら、そんなのはご主人のご人望のたまものですわ。それより心配ですわね。雄大ちゃんのこと・・・」

 ふっと目に涙が浮かぶ。そのせいで今にも化粧が崩れそう。とってつけたように耳の小さなダイヤが輝いた。隣にいる筋肉質の男が同情したように彼女に触れようとする。

「加奈さん。大丈夫。ごめんなさいね、私無神経なことを聞いてしまったわね・・・。許して頂戴ね」

「ああ、いいえ、皆川様。大丈夫です。大丈夫・・・。すみません。ちょっと・・・」

 彼女は薄暗いキッチンの方へと足早に歩いていった。また取ってつけたように耳の小さなダイヤがきらきらとした。

「ああ、あなた。ちょっと飲み物がないからからとってきなさい」

 とても良い笑顔で隣の筋肉質の男に命令する。目で行く先を追っていた魯鈍な男はその言葉にはっとして、慌てて飲み物を取りに駆けて行った。鼻で大きく息をすると垂れ下がった胸を張った。

「加奈さん、どうしましたか」

 パーティーの会場から離れた薄暗く、静かなキッチンの隅に蹲っていた。涙が頬をつたって、為す術もなくはらはらと落ちていく。

「大丈夫ですか。加奈さん」

 ふっと顔を上げる。薄暗がりの中でわざとらしくイヤリングが光った。

「ああ、赤棟さん。ええ。大丈夫です。大丈夫ですから・・・。なんでもありません。なんでもありませんよ」

「加奈さん・・・」

「ごめんなさい。いいから、大丈夫ですから。ごめんなさいね」

 無理に笑顔を作って、精一杯の強がりを言って立ち上がる。涙を溜めたその立ち姿は今にも消えてしまいそうなほどに儚いものの様だった。パーティー会場からの喧騒は止まない。とても楽しそうな声が上がる。パチパチパチパチ。

「おい、どうした」

 彼が現れる。瞳からまた涙がこぼれていった。それはとめどなくふくよかな頬を濡らしていく。

「貴方・・・。ううっ」

 漏らした嗚咽が全てを伝える。パーティーの喧騒はいよいよ遠く彼方で、薄暗い静けさはすべてを沈下させるよう。

「加奈。ごめんな」

 彼女を抱き締める。その柔らかな体には強さなど微塵も無いようで、腕の力をより一層きつくする。しばらくののち、体を離す。はにかみを浮かべてスーツについた化粧をハンカチで落とした。

「佐藤さん。あの・・・」

 一つの封筒が差し出される。そのとても小さな、とるに足らないものに顔をしかめ、歪め、また涙を零した。

「今度は君のところに来たのか・・・」

「ええ、その。中身は・・・」

「いや、いいんだ。わかっているよ・・・」

 とても、とても悲しいすすり泣く声をかき消すように大きな笑い声が上がった。パチパチパチパチ。天を仰ぐ彼の顔は力が抜けきってしまっていて、その瞳には何も映っていないようだった。しばらくすると涙が滲み始める。

「悪いんだけれども、それは君の方から警察に届けてくれないか」

「・・・いいんですか」

「ああ、いいんだ・・・。・・・いいんだ。もう、いいんだ」

 体に力の入らない様子の奥さんを連れて彼はその場から離れていった。またわざとらしく耳の小さなダイヤが光った。

 まもなくパーティー会場に戻ると、ビンゴが行われていた。

「ああ、遅いっすよー、佐藤さん。もうビンゴ始まってますよっ」

「ああ、悪い。悪い。ちょっとな・・・」

 ビンゴの紙が手渡される。真ん中にまず穴をあけて、ほかの番号は読み上げられるのをいまかいまかと待っている。

「えー、16番」

 溜息をもらすもの、小躍りするもの、無関心を装うもの、たった一つのことなのに様々な反応があった。16と書かれている場所を指で折った。

「ああー。佐藤さん。はずれっすね。惜しいですね。17はあるのに」

「うん、ああ。そうだな・・・」

「そういや、加奈さんは」

「うん、ああ。ちょっとな・・・」

「そうすっか」

 ガラガラガラガラとビンゴが回っていく。全ての視線が期待を込めてそそがれる。一切を主るそれは無機質でいかにもどうしようもない。

「えー、36番」

 視線を紙に落とすと、ある男が話しかけてきた。

「君が赤棟くんだろ。そうだろう」

 手に持った紙の36と書かれたところを折ってから顔を上げる。

「ええ・・・」

 素っ気ない答えに続いて、興奮を抑えることのないままで続く。

「君の新作読んだよ。前作はよかったけど、今作はいまいちだね。それにあれはあれだろう、きっとー」

「ビンゴ」

 佐藤がビンゴの紙を持った手を高く掲げている。そこにいる人間の視線が一様に彼に注がれる。ほんの少し浮き上がった気分と、ほんの少しの気恥しさを浮かべて、みんなの前に出て、ビンゴのマシンの横に立ち景品を受け取ると、一言。

「いやー、なんかすみません」

皆が手を叩いて笑う。誰も彼もがみな彼を見ている。笑っている。心底楽しそうに笑っている。

パチパチパチパチ。

 パチパチパチパチ。

 パチパチパチパチ。

「はぁ、はぁ。どうだい。君のお父さんはとても楽しそうにしているだろう。はぁはぁ。僕がね。ビデオで撮ってあげたんだ。はぁはぁ。僕ともね。仲良しなんだよ。はぁ、はぁ。とってもね。とっても仲良しなんだ」

「・・・・・・」

 肉の薄い小さな背中にはあばらが浮かんでいる。骨ばった肩に手を掛ける。もう何度も何度もそうしたせいだろう、肩にはべったりと、手の形の痣ができていた。色の変わった皮膚をまた押し付ける。筋肉が縮こまる。

「はぁはぁ。でも、このままじゃダメなんだよ、はぁはぁ。このままじゃダメなんだ。君ならわかるでしょ。本当のお友達にならなくちゃいけない。本当のね。はぁはぁはぁはぁ」

「・・・・・・」

 息が荒くて、熱した鉄の様に熱い。背中が異常に引き攣った。ぐらぐらと頭の上の電灯が揺れる。影がぐらぐら、ぐらぐらと揺れる。外は真っ暗で、締め切られた窓に映し出されるのはとてもにこやかな男の顔。

「はぁはぁ。はぁはぁ。はぁはぁ。はぁはぁ」

 じっと手を見ている。もう曲げられない指を食い入るように。背中は十分にひきつっている。筋肉は十分に縮こまっている。それなのに我慢ができなくて、崩れた顔にある真っ暗な瞳がほんの少しだけ色を付ける。

「っ・・・・・・」

 ぱきりと音がする。必死になって結んでぐちゃぐちゃになっている唇の合間から何かが漏れてくる。笑った。心底愉快でたまらないと、とても大きく笑った。パチパチパチパチ。締め切った窓が、手の先がその振動につられて共振する。また歯を食いしばる。またぱきりと音がした。

「っ・・・・・・」

「はぁはぁ。はぁはぁ。君のお母さんは今とっても痩せているよ。はぁはぁ。すごく青白い顔をしているよ。泣いちゃってね。はぁはぁ。酷い女だ。もう大丈夫だって。もう大丈夫だってよ。はは、はははっ。はぁはぁ。はぁはぁ」

「っ・・・・・・」

 ぱきり、ぱきり。もう無くなってしまったものでは食いしばることもできなくて、大きく開いてしまう口の隣をはらはらと幾筋も幾筋も熱いものが伝っていく。大きな声。パチパチパチパチ。

「お父さんももういいんだって、せっかく届けてあげたのに。もういいんだってよ。ふふふっ。けど、これからだよ。最後があるんだ。そうすると本当のお友達になれるんだよ。ふふっ。はっはっははははっはははっははははは」

 息がいよいよ荒くなって、背中が戦慄いた。背に何かが触れるように下の方から上がってくる。それに呼応するように脈打つものが恐ろしいまでに生を実感させる。

 とても良い笑顔で、とても自信に満ち溢れている。素晴らしいものの為にいま生きている。全部に陰影が、色が、階梯が出来上がっている。どこまでも、どこまでも上がっていく。背中の薄い肉が引き締まって、またあばらが強く浮く。

「ああっ。はぁはぁ。はぁはぁ」

 体がもう境界なんて失くしたようにぐちゃぐちゃになって溶けていく。頭は嫌になるほど冴えているのに力を放出した体は泥のように動かなくなってしまった。

「ははっはっははっはははははは。またベッドを汚したね。またベッドを汚したよ」

 大きな声。パチパチパチパチ。失われてしまったものをもう一度と息巻く声と息遣いはまた熱された鉄のようで、呼応するように力の入らぬ指の先を震えさせる。

「もう少しだ。はぁはぁ。もう少しだ。はぁはぁ。僕たちだけ、僕たちだけだ。はははっはははっははっはっはっは」

 パチパチパチパチ。パチパチパチ。パチパチパチパチパチパチパチ。

 


          3


「この度は皆さまの応援のおかげで、ぐず、ぐず。当選することができて、ぐず、ぐず。誠に光栄です。ずずー。これからもご期待を裏切ることなく、ぐず、ぐず。頑張っていきたいと、ずずー。思います。ずずー、ずずー。お引き立てのほどを、うっ、ううっ。よろしくお願いいたします」

 何度も、何度も鼻をすする。克己によって幾重もの苦難を乗り越えて、自らの願望を成就した慶びに満ち満ちた顔に、幾多もの光が無遠慮に浴びせかけられては消えていき、影を複雑につけている。周りの人間たちはガラス細工の瞳で、自らの仕事を完遂するためだけに彼の言葉を取りこぼさないようにとマイクを彼に向けている。画面の点滅はいよいよ激しくなってくる。

「ああ、いいよ。そのまま、音を立てて、同じように音を立てて」

「ずずー、ずずー。ずっずっ。ずずー、ずずー」

 べたべたと唾液を垂らして、小さな頭が揺れている。昼と夜のほんの少しの合間に、一生懸命に遊ぶ子供たちのはしゃぎ声が聞こえてくる。動きが少しだけ淀む。それがとても嬉しくて、両手を使って力づくに動きを強いる。

「ずずっ。ええ、息子のこともありますが、ずずー、それでも、ずずっ、それでもやはり、前を向いていきたいと思います」

 くだらないにこやかさを伴った質問に、とても誠実に答える。それからパシャパシャパシャパシャと音がする。そこにいるガラス細工の瞳をした人たちは皆が皆、その言葉を我が子の様に大切だと思っているのだろう。

「ずずー、ずずー。ずずー」

「ずずー、ずずー。ずっずっ。ずずー、ずずー」

 息遣いが激しくなっていく。パシャパシャパシャパシャと点滅はひどくなっていくのに、穏やかな静けさを湛えた空では星々が瞬き始めて、それでもやっぱり元気いっぱいな子供の声が聞こえてくる。

「ずずー、ずっずーずずーずーずっずー」

「息子のような子供をこれ以上出さないようにしたい。ずずっ。えー、そのためには、良い社会をつくることが必要だと思います。ずずっ。相手のことを思いやれる人間が必要だと思います。相手の気持ちを理解できない人間が多すぎるような気がするんです。ずーずー。そのためにも教育に力を入れていきたい。ずっずっ。そのためにこそ私は身を粉にする覚悟で政治に携わっていきたいと思います。ずずー」

「ずずー、ずずー。ずずー、ずずー」

「うっ」

「っ。がはっ。ごほ、ごほっ」

 びちゃびちゃと唾液とともに口からこぼれたものが床のカーペットに染み込んでいった。ぐちゃぐちゃの皮膚と肉だけになった口の上にある、大きな瞳からは涙が滲んでいて、電灯に照らされて輝くそれには黒い影が映っている。異様な形に拗けて、もう曲がることのなくなってしまった指の震えが大きくなった。ばちんっ、ばちんっ。と幾度も破裂音がした。

「どうしてできないのっ」

 ばちんっ。ばちんっ。破裂音は続いていく。真っ赤になって腫れあがった肉のせいで細くなった瞳の、先ほどの大きかったはずのその奥からはらはらと溢れて毀れる。それは床に落ちたものと一緒になってカーペットを汚していく。

「どうして汚すんだ、お前は。これは全部お前の為なんだぞ。全部、全部お前の為なんだ。そんなことでは苦労するんだぞ。お前が苦労するんだ。だから、全部お前の為なんだ」

 ベッドに投げ出す。また夕方の男の子の愉快そうな声が聞こえて、パシャパシャと点滅する。曲がらぬ指の、歪な手をじたばたじたばたと動かす。必死に、とても必死に。汗がわずかに浮いた薄い背では肉が収縮して蠢く。後ろから思い切り押さえる。

「ーはい。やはり、これまで支えてくれた妻や、支援者の皆様。後輩。そして・・・。そして、友人たち。彼らが一緒だったから、公私共に支えてくれたから、協力してくれたから今まで頑張ってこられました。彼らには感謝しかない。本当に私のやりたいことを理解してくれて・・・。すいません。ずずーずっずー。すいません」

 パシャパシャパシャパシャ。また点滅。食いしばることなどは出来るはずもなくて、ただ手に力を込める。でもそれは曲がらずに幽かに震えるだけだった。

「っ・・・・・・」

「はぁはぁはぁはぁ」

「ーはい。彼にも感謝しています。ずずーずっずー。はぁっ。一緒に投票を呼び掛けてくれたり、それこそ公私ともに、そう友人として助けてくれました」

「ずずー、ずずー。ずずー、ずずー」

 目から溢れるものを抑えることもできずに、鼻から流れるものを必死になってすすって零さまいとしている。そのたびに体に力が入って、肉が蠢く。頭を思いきり引っ掴んだ。

「なんで汚すんだ。お前が汚したんだ。お前が汚したんだ」

 ぐわり、ぐわりと頭が回る。視界が回る。パシャパシャと音がする。風が巻いている。窓を閉め切ったはずの部屋の中で轟轟と風が巻いている。残照の空に浮かぶ星々がゆったりゆったりと回転していく。狭い部屋でベッドが軋んで、薄青のシーツは見る見るうちに薄汚れて、染みができていく。

「ええ、息子のことは今でも心配です。ですが、それでも、いや、それでこそ私はやり遂げなければならないのです。必ず、必ずやり遂げて見せます。期待に応えて見せます」

「ずずー、ずずー。ずずー、ずずー」

 熱い、体がとても熱い。肉がまた蠢いてその存在を誇示すると染みが増えていく。口からは涎が垂れて落ちていった。呼吸も、鼓動も荒くなる。それとともに脈打つ手が生暖かい。パシャパシャパシャパシャと音が鳴って、たくさんの点滅が様々に影を彩っていく。

「ずずー、ずずー。ずずー、ずずー」

 ぱきり、ぱきり。

「っ・・・・・・」

「ああっ、いいよっ。とってもいいよっ。僕たちは友達になれるよ。きっとなれる。僕は知っているから。全部わかっているからっ」

 ぱきり、ぱきり。

「っ・・・・・・」

「はぁはぁ。はぁはぁはぁはぁはぁはぁ」

 視界が揺れる。ぐわり、ぐわりと揺れる。背が戦慄いて、とても、とても薄い肉に熱い汗が滲む。

「ずずっ。これからも頑張っていきたい。ずずー。支えてくれていた人たちに恩返しをしていきたい。ずずっ。妻にも、友人にも、諸先輩方にも、ずずっ。後輩たちにも。ずずー。うっ。それに、それにあの子にも」

「ああっ。もう少しだ。もう少しで、ふたりだけだ。もう少っ。っうう。はぁはぁ。はぁはぁ」

 視界が正常に戻る。それはかっちりとしていて、全てが確たるものとして明晰に立ち現れている。余韻の脈動が一つ、二つ。もう残照は音もなく消えて行って、夜が空を覆っている。それでも轟轟という音は止まなくて、それなのにパシャパシャという音がやけに大きく、まっすぐで無機質な電灯の光が作る影を薄くしたり濃くしたりしている。

「はぁはぁ、はぁー」

「ひゅー、ひゅー」

「ああ、また汚した」

「ひゅー、ひゅー」

「お父さんはもう君のことがどうでもいいみたいだよ」

「ひゅー、ひゅー」

「僕たちはね、今前を向いているんだ。同じ方向をね。一緒に見ているんだ。でも、それだけじゃね。それだけじゃダメなんだ」

「ひゅー、ひゅー」

「それだと同じだから。皆と同じだからね」

 浮き出ているあばらに沿って背を撫でる。脂の浮いた汗が指を濡らしていく。筋肉が緊張している。軽く薄っぺらい体を動かす。曲がらない指では、細い腕ではそれを拒むことはできない。揺れた瞳がダイヤの様にわざとらしく煌いている。

「ずずー、ずずー。ずずー、ずずー」

「本当にシーツが駄目になってしまったなぁ」

「ずずー、ずずー。ずずー、ずずー」

「本当に駄目だなぁ」

「っ・・・・・・。ずずー、ずずー」

「本当に、はぁはぁ。本当に、はぁはぁ。君は駄目だよ。はぁはぁ」

「っ・・・・・・」

「はぁはぁはぁはぁ」

 視界がまた揺れ始める。電灯がゆらゆらとしている。パシャパシャと音がする。熱い、とても熱い。轟轟という音が一層強くなっていく。

「はぁはぁ。僕たちは、はぁはぁ。同じものを見ているんだ。はぁはぁ、友達になったんだよ。でも、それだけじゃだめだ。ふう、ふう。だから君がいるんだ。僕たちは二人きりになるんだよ。ううっ」

「っ・・・・・・」

「はぁはぁはぁはぁ」

 呼吸の荒い男の下で、肋骨の浮いた腹がゆるやかに上下する。こもり切った臭気が鼻を満たして、脳にまで入り込む。彼は外の暗い空を仰ぐ。

「ああ、見てごらんよ。すごく穏やかな空だよ。きっと明日は晴れるだろうね」

「・・・・・・」

「そうだ、僕はね。今度お父さんのお祝いに行くんだ。お父さんの誕生パーティーと兼ねるんだってよ」

「・・・・・・」

 揺れる電灯の下で、男はなおも話を続ける。その様はとても愉快そうだった。

「僕はお父さんと友達なんだ。だから、行くんだよ」

「・・・・・・」

「お祝いにね。僕とお祝いに。確かに他に人はいるけど。それでも僕たちは二人だけになるんだよ。君のおかげだよ」

「・・・・・・」

「プレゼントは何にしよう。どうしたらいいと思う」

「・・・・・・」

「ふふふっふ。そうだね。もういいよね。きっとこの時が一番いいよね」

「・・・・・・」

「ふっふっふふふ。・・・・・・はぁはぁ」

「っ・・・・・・」

 矢継ぎ早に繰り出されるそれが締め切って臭気の満ちた部屋に虚しく集積していく。男の下の肉が収縮する。男は頬の肉を持ち上げると、もう一度呻きを上げた。汚れきったベッドのシーツにまた染みが増えていった。


 ぐにぐにと力なく動くそれを、丁寧に丁寧に、根気よく根気よく、球体のそれに張り付けていく。脂肪が固まり、かつての張りが失われたそれは力なく伸び切って、貼り付けることが大変でしょうがない。

「ああ、歯を取っておけばよかった・・・」

 後悔はどうしようもなく、捨ててしまったものに思いを馳せるけれど、それは何とも無意味なようで、容易く時間の果ての果てへと赴く想念とは裏腹に体を重たくする。

 引っ張って頬の丸みを付けようとするけれども、押さえつけている部分にどうしても皺が寄ってしまって均一にならない。他の場所も抑えようとするのだけれども腕は二本しかなかった。ふと思いついてセロテープを使ってみる。うまくいって、皺もなく広がっていく。盛り上がりを付けようとして、口の方から綿を詰め込んでみる。けれど、あまりに不自然に盛り上がってしまってうまくいかない。なんだかおかしくって、ちょっぴり愉快な気持になって、今度は少し綿を減らす。すると自然に頬が膨らんでいるように見えた。とても気持ちがよくなって、そこに接着剤と付けて、乾くまで置いておく。彼に送るもので、これがなくちゃ僕はただの猿になってしまうから。これほどまでに大切な仕事をしたのは初めてだ。良い仕事だ。とても良い仕事だ。

 フンフンフフフフーン。

 鼻歌が出てきて、空が嫌味なくらいに青くて、雲がとてもゆっくりと流れて行って、幸せだった。もう少しだった。あと少しだった。とてもとても幸福で仕方がなかった。

「総理、総理それは違うんじゃないんですか。総理。答えてください」

 社会正義に燃える彼の評判は上々で、いつでもテレビに映っている。昔と同じように細身で、スーツを着ている。彼の誕生会を兼ねたお祝いには僕もスーツを着て行こう。彼が今着ているのと同じ紺のスーツ。でも、ネクタイは違う色にしよう。

 もう春だから、風が強くなっていて、きっとお祝いの折には桜は散ってしまっているのだろうなとふと気が付いて、桜を添えてあげようと思った。こう今の頭と言っていいのかわからないところに、ふっと添えてあげてもいいのかなと思った。

「死刑は必ず必要です。いいですか、確かに人権はありますよ。でもですね。彼らは決して我々の言葉を理解はしないのです。考え方自体が違うんですよ。俺らの言っていることが理解できないんじゃ無い。きっと頭じゃ理解できてるんです。けどそれだけなんです。社会の中では生きてなんていけないんですよ。そんな人間に反省はありません。わかりますか、ないんです。絶対に無いんです」

 外はまだ少し肌寒いから、上着を着て行こう。桜の木は確か川沿いに植樹されていたから、そこまで行ってこよう。その間に接着剤は乾いて、きっとセロテープもいらなくなっているから。

「それはおかしいですよ。俺が感情的になってるって。そりゃそうです。感情抜きに何かを話すことなんてのは俺には出来ない。けど、気に入らないからっていうのは違う。許せないんですよ。俺は。例えば、懲役を受けて、出所してきて、それで万々歳、罪は償ったなんて言うのは許せないんですよ。おかしい。俺は死んでほしい。命で償ってほしい」

 上着はどこに置いただろうか。ああ、そうだ暗くなった瞼の中には何を入れようか。花びらじゃ芸がない。彼の好きだった昆虫でも入れてあげようか。一握の土くれでも入れてあげようか。湿った土と桜の香りはとても相性がいいだろう。

「おい、俺が息子のことを利用しているっていうのか。ふざけるな。お前、お前ふざけるんじゃないっ。この野郎っ」

 ああ、きっとすぐ済むから、テレビはつけっぱなしでいいか。窓もしっかり開けておかなくちゃ。風呂場にある彼の残りが最近少しだけ臭うから。でも、いいか。もうほんの少しだから。あとほんの少し。あと少しだから。

 ギイと鉄の扉が開く。一瞬だけ真っ白な光が差し込んできて、黒い男の影が浮かんだかと思うと、またバタリと締まる。後はしんとして、開け放たれた窓からは風が吹き込んで、カーテンを揺らした。先ほどまで彼が熱心にいじくっていたものの接着剤が剥がれて、まだ弾性の残っていた為に戻る。皺が付いて、詰めていた綿が落ちた。

「おい、触るな。触るなって。俺は落ち着いてるよ。俺は落ち着いてる。触るなって。離せって。ちくしょうっ。ちくしょうっ」

 

 とても広い部屋の中にわんさと人がいる。窓から取り入れられた光はめちゃくちゃに反射して、隈なく照らしている。ただ、わずかな領地を与えられていたはずの緑は不思議なことにすっかり萎れてしまっていた。けれど、人々はそんなことは心底どうでもいいようにオードブルをむさぼって、その口で訳の解らないことをたくさん喋って、シャンパンを喉に流し込んでいた。

 重たいプレゼントを両手でしっかりと持っている。揺らさないように慎重に人の波の間をさまよって辺りをきょろきょろと窺う。

「あら、貴方、赤棟さんでしょう」

 しわくちゃの顔を真っ白にして、干からびた唇に馬鹿みたいに口紅を塗りたくり、下品なくらい真っ赤な、暴力的に胸元と背中の大きく開いたドレスを着て、吐き気がするくらい香水を振りかけた年を取った女性が声を掛ける。

「赤棟さんでしょう。わたくし貴方の小説読んだわ。とても悲しいお話なことね。全て、そう、全ての人が幸せにー」

 つかつかと歩いていく。揺らさないように、慎重に両手で支えて。人込みを縫って。残された女性は呆気に取られて、魚のように口を開けていたかと思うと、急に真っ赤になり、後から来た筋肉質の男に当たり散らした。周りにいた数人がそれに気がついてどよめくが、結局は、オードブルを口に入れて、その口で訳の解らないことを楽しそうなていで喋って、シャンパンを喉に流し込んでいる。

 佐藤はたくさんの人間を侍らせ、輪の中心にいた。いつもの様にぴっちりとスーツを着た彼は白い歯を見せて笑う人々の中で楽しそうにしている。加奈さんの姿は見えなかった。力能によって象られたそれは周縁に従ってその力を強くし、より広がっていく。それなのに中心に近づく者はいなかった。

「すいません。道を開けてください。道を開けてください」

 大きな声を出す。驚いた数人が振り返る。波及するそれが中心に届くと、また大きく声が上がる。

「おお、カガシ。こっち来いよ。なんだよ」

 輪が割れて、歩み寄る。誰も近づけなかった中心へとゆっくりと、着実に。人々は見送る。佐藤はとても穏やかな笑顔で迎え入れる。

「おお、カガシ、お前、痩せたなー」

 はにかんで見せる。すっと両手で持っていたものを差し出した。黄色とピンクをした可愛らしい箱にリボンを付けた、スイカほどの大きさのものをズイと手を伸ばして。

「おお、プレゼントか。悪いな。ん、これはこのまま蓋を上にあげればいいのか」

 箱を受け取ってくれた彼から一歩下がってからにこやかな顔をしてコクリと頷く。とても笑顔で、周りの人間も祝福したように笑っている。彼は蓋を上にあげた。箱を覗き込む。土と花と、昆虫、そして饐えた匂いが一気に表に出てくる。辺りの人間はまだ祝福した顔をしている。佐藤の表情は初め、何もわからないというようなものだったが、徐々に曇り、両の手でしっかりと掴んだものをそのままに膝を折った。慟哭する。周りの人間もそこで初めてなにかと色めきだった。笑う。心の底から笑う。それは体の内から次々溢れてくる。

 バンッ

 大きな破裂音がした。ほんの少しだけ炎が上がって、佐藤があおむけに倒れる。彼の両手と顔からはたくさんの血が溢れて、真っ白な床に広がっていく。人々は逃げまどう。誰も彼も我先にと。力能で象られたものの一切はその一瞬で虚しく消えて失せて、たった二人だけが残った。 

「ハッピバースデーツーユー。ハッピバースデーツーユー。ハッピバースデーディア、洋二ー。ハッピバースデーツーユー」

 大きく口を開けて、どこまでも高らかに、力強く謳いあげる。パチパチパチパチ。パチパチパチパチ。パチパチパチパチ。

「おめでとうー。おめでとうー。おめでとうー。おめでとうー。おめでとうー。おめでとうー。おめでとうー。おめでとうー」

 誰も入ることのできない血だまりの中で、いつまでも、いつまでも壊れたおもちゃの様に声を張り上げ続けた。



          4


 小鳥が飛び立つ姿が格子のついた小さい窓から見えた。その影が畳の上を横切った軌跡を何度もなぞっていると、突然声を掛けられる。

「8番立て」

 努めて無機質なその声の主に血色の良い顔を上げると、男はとても愉快そうに、それでいてとても気安く話しかける。

「ねぇ、刑務官さん。知っていましたか、日本には陪審員席なんて言うものはないんですよ。僕は間違えてしまいましたよ」

「8番立て」

 刑務官はそれに答えずに、もう一度声を出す。男はゆったりと立ち上がる。ガチャリと扉が開いて、二人の刑務官が彼の両脇を抱えて、カチャカチャと手かせ足かせをつけていく。男はとても満たされた顔をしていて、何の恐れもないように薄く笑っている。

「刑務官さん。僕には友達がいるんですよ。とてもいい人なんですよ。とても誠実で、家族思いで。僕はそんな友人がいることが誇らしくてしょうがないんです」

 刑務官たちは彼を牢から出すとコツコツと靴を鳴らして歩く。口をしっかりと結んだまま、石でできた兵士のように厳めしい表情で、細長く、なぜだか少しだけ薄暗い廊下の先へと無機質に進んでいく。男はそんな彼らのことなどはどうでもいいようで、とても饒舌に話し続ける。どこかしっちゃかめっちゃかで、どこに焦点があるのかわからない彼の言葉はただ、発話したのが彼ということだけの外延しかなくて、それはただの無意味の束に過ぎないようだった。

「友人とは互いに共通のものを持っていなくちゃいけないと思いませんか」

「いったい、どうして私たちが理解しあえると思いますか」

「僕はね、昔、太っていたのですよ。今ではほらこんなに健康なんです。とっても健康なんです。皆言っていました。医者も言っています。病気じゃありません」

「どうしてでしょうね。どうしてでしょう。皆おかしいんですよ。けど、皆やっていることですよ」

「けどね、本当に来てくれるでしょうか。たくさん手紙は書きました。でも、一つとして返事はないんです。一向にないんです」

「もしかしたら、彼に何かあったのかもしれません。生きていると聞きました。確かに聞きました。火薬だって気を付けていたんです。でも、彼は頬を寄せていたから。慈しむように頬を寄せていたから」

「嫌われるなんてことはあるはずないんです。いや、でも・・・」

「ああ、でも、あれは仕方ないことなんですよ。しかたのないことなんです。今こうやっているのも仕方ないと思います。でも、二人だけのことだから。きっと平気なんです」

 彼以外はとても静かで、すっすっと電灯が後ろに流れていく。大きな、分厚い扉の前に立つ。少しだけ古くなったその扉がギイと音を立てて開く。考えられない程に真っ白な電光が、天井から垂れ下がった、輪を作るロープを真っ白に照らしている。それは揺れることなくじっとしていた。奥には三つのボタンがあって、その前に三人の刑務官が控えている。ロープに正対して、大きなガラス張りがあって、人々が険しい表情で座っていた。コツコツと連れられて、床に白いテープで枠の示してある床に立つ。手かせと足かせをその時初めてはずされる。そして、反対に首には真っ白な縄の輪っかをかけられた。でも、そんなことの一切はどうでもいいようで、押し黙って、ただ眼をくるくると回して、男は必死に何かを探している。そして、あっと声を出すと、顔を綻ばせた。それは愉悦からではなく、照れからでもなく、ただ幸せそうな笑みだった。彼の頬の肉の柔らかさはびっくりするほどで、綺麗に上がった口角に、綺麗に皺が付いている。


 椅子が整然と並べられた、人がニ、三十人ほど入るだろうかという部屋の前に大きなガラスがある。その大きなガラスの向こう側のとても明るい電灯に照らされた中で、首に縄をかけた男が法悦かと見まがうほどに幸せそうに笑っている。たった一枚のガラスに隔たれた彼と姿形の全く変わることのない人々は一様に顔を歪ませる。ただ、顔と両手をぐるぐると血で汚れた包帯で覆われた男は、口に通る管のせいでわずかに開いてしまう隙間から、ひゅー、ひゅーと必死にか細い息を吐き出している。彼の隣にいる医師と看護師はしきりに状態を図るバイタルに目をやり、一挙手一投足に至るまで気に掛ける。

そんな医師と看護師が急に慌てだした。辺りの人々も浮足立っている。ガラスの向こうの男は大きく口を開け延ばして、何か歌っているようだった。とても高らかに力強く、聖歌でも神に捧げるように。

包帯に血と膿、そして滲みだした涙がしみ込んでいく。ガラスの向こうの男の大きく広げられた口の闇は奈落のように深い。がたがたと震えだして、灼けるように手が熱くなった。塞がったはずのもう何もないところから血が溢れてくる。

「ハッピバースデーツーユー。ハッピバースデーツーユー。ハッピバースデーディア、洋二ー。ハッピバースデーツーユー」

 立ち上がることなどもはやできないのに、復讐するための手もないのに、動かすべき顔の筋肉などもはやないのに、涙だけは止まってくれない。ガラスの向こうの口の動きも止まってはくれない。

「おめでとうー。おめでとうー。おめでとうー。おめでとうー。おめでとうー。おめでとうー。おめでとうー。おめでとうー」

 パチパチパチパチ。パチパチパチパチ。パチパチパチパチ。

 辺りの人間が慌ただしい。看護師も医師も慌ただしい。彼らはもう縄を首にかけられた男に意識を向けていない。ガラスの向こうは嘘のように静謐だった。それをじっくりと見ている。食い入るように見ている。いつまでも歌っている。どこまでものびやかに。ブーーーーと、ブザーの音が鳴る。

 ガチャリッ。


チャンチャラチャッチャチャーチャラチャラチャラチャッチャララーララーラーラーチャーラーララーチャーラーチャッチャッチャ。

「えー、続いては朝のニュース一気見です。それでは三村さん、お願いします」

 細身でスーツを着た男は、それまでのにやけ面をいったん落ち着けると、カメラをまっすぐに見つめて真剣そうに云い放つ。三村と声を掛けられた女も同様に、すとんと頬の肉を落として、今まで甲高かった声を低くすると、これまた真剣そうなまなざしでカメラを見詰めて話し始めた。

「はい。まずー」

 お互いに目を合わせることもなく正面を向いたままで、つらつらと束ねられたニュースを順繰りに消化していく。事件の概要を読み上げて、いくつか薬にも毒にもならない、そんな当たり障りのない意見を司会者が差し挟んで、時間通りに納まる様にとさっささっさと後ろに流していく。

「ーというわけで死刑が執行されたそうですが、林さん、この事件は本当にやり切れませんね」

「ほんとに。佐藤さんもね・・・心配ですね・・・」

「ええ・・・」

 身振り手振りで、顔に作る皺で、一生懸命に悲しみを表現して、意見しあっているくせに、お互いに顔を合わすこともなく、カメラに向かって二人は、言葉を口からぼろぼろぼろぼろとだらしなく零していく。ぐったりとした倦怠を安楽と勘違いしている音楽が流れて、これでもか、これでもかとくどいくらいに演出をする。しっかりと身だしなみを整えた司会者と、しっかりと化粧をした女の目にはキラキラとわざとらしく輝く涙が溜っていて、その言葉尻はちょっとだけ揺れている。けど、二人とも前を向いたままだった。

「いったいなぜこんなことになってしまったのか・・・」

「ええ、お気の毒でなりませんね」

「まったく犯人が憎くてなりません」

「ええ、本当に全く理解できません。いったいなぜあんなことをしたのか。やっぱり彼の性向がそういうものだったのでしょうか」

「恐らくはそうでしょう。やはり、あんな小説を書く人間というのは、それは全員ではないでしょうが、そうなんでしょう。結局は自らの性癖を肯定するためだけにあの様なものを書いているのでしょう。佐藤さんや、雄大君。そして加奈さんがお気の毒で仕方がありません。許せませんよこれは」

 誰かの模倣をしているように精一杯の威厳を取り繕って、顔を赤くして怒りを露にして見せて、女の方はというと、いつものようにそれに対して全くその通りだとコクコクと首を縦に振って同調してみせる。前を向いたままで。そのうえで、そんなやり取りにできるだけ会話の濃度を薄めて、牛歩の様にできるだけ時間を割いている。その実にかったるい、泥沼でつかみ合いをしているようなやり取りが数十分続いた後で、女が珍しく明後日の方向に目を滑らせると、いったん体を整えてから、しっかりとカメラを見た。

「今後も、この事件についてはこれからも話し合っていかなくてはならないと思います。・・・。はい、では、続いてはお天気です。吉田さーん」

「はーい。今日ですが、実はですね、今お日様は顔を出しているのですが、次第に雲が多くなって、雨が降ってくるー」


 まっさらな朝に日差しを存分に取り入れたダイニングの机に少女と少年が腰かけている。少年は中学校に上がったばかりの様で、まだ制服がぎこちない。一方で少女の方はというと、少しおしゃれにも気を使っているようだったが、いかんせんだらしなく、口を大きく開けてトーストを頬張っていた。彼女がごくりとそれを飲み込んで、隣の少年を飛び越して台所で洗い物をしている母親に話しかける。

「お母さーん。今日、雨降るって、折り畳み傘持ってった方がいいかなー」

「んー、そうねー」

 母親は手を止めないで、洗い物を続けている。少女はまたトーストを頬張ろうとしたが、隣の少年に話しかける。

「高志、あんたもあの頭おかしい犯人に気に入られちゃうかもよ」

悪戯っぽく笑って、年少の彼を怖がらせる。少年が少し青い顔をしていると、彼らが話をしている間に洗い物を終えて、自らも食事をしようと椅子に腰かけた母親がそんなお姉ちゃんを嗜める。

「こらっ、真由やめなさいっ。全く、あんたって子は」

少女はほんの少しだけむっとしたが「はーい」と、返事をして、またトーストを頬張った。少年はというと、安心したいのか牛乳を口に含む。すると、ちょっとだけ口の端からこぼしてしまう。母親はそんな彼の世話を焼いて、ティッシュで口元をぬぐう。少年の瞳は少女と同じようにテレビに向かったままだったが、それはどこかぼんやりとしていた。

「ああ、ああ。ほんとにいつまでも子供なんだから」

文句を言いつつもまんざらでもない様子の母親は、慈しむようなまなざしをぎこちなく制服を着た少年に向けていた。いつの間に天気予報から変わっていた画面からはすかすかとした音楽が流れてくる。少女は顔を上げると、パンを頬張ったままで感嘆を漏らした。

「あー、やっぱり松田君はサイコーだなー」

とても綺麗な顔をした少年に羨望の眼差しを向けてから彼女は目を滑らせて、隣の少年を眺めると、ふっと鼻で笑う。

「でも、本当にお気の毒にね、佐藤さん。おかしな人がいるものよねー。あんたたちはまともで良かったわ」

 母親はだいぶ前に終わってしまった話を蒸し返して、少女に話しかける。少女はもはやアイドルに虜になっていて、そんなことには気が付いていない。それなのに母親は更に話を続けていく。

「けど、あんな頭のおかしい男なんて滅多にいるものじゃないわよ。あら、高志もういいの」

「うん、今日は日直だから早くいかなくちゃいけないんだ。ごちそうさま。いってきます」

「はい、いってらっしゃい。気を付けるのよ」

少年は立ち上がって鞄を持つとさっさと行ってしまった。少女は彼を見送りもしないで、まだテレビに夢中になっている。もう彼女の意識はそこにはなくて、遥か彼方にある想像の世界で、テレビの中の少年と睦言でも交わしているようだった。母親はやっと一息ついたというように同じようにテレビを眺めていたが、意識はそこに向かわず、夕飯のことなどを考えているようだった。そんな二人にもかかわらず、テレビからはずっとすかすかとした音楽が流れ続けていた。




                                  終わり


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