三章・さよならの先の光
最近の天気はあまり良くなく。雨か曇りの二つだけだった。
公演前日、今日は久々の快晴で、太陽が空の上に輝いていた。明日もこの天気なら、お客さんもたくさん来て文句なしだ。
昨日、本番宛らの予行を行いテントでの感触も確かめたし、体調も悪くない。自分の天気も文句はない。
今日は明日のために午後から自由訓練となり、英気を養ったり、コンディションを整えたりと他の団員も様々に行動している。
そして自分はというと――一人で日向ぼっこをしているだけだった。
二人が太陽の下にいたい、外に出たいとねだってきたので、今の時間日当たりの好い寄宿舎の裏に連れて来た。表の喧騒はしてもここには誰もいない。
出たはいいが自分はすることが無い。なので壁に凭れ座って、思いっきり楽な姿勢で――誰にも聞こえない――二人の歌を聞きながら一人日向ぼっこをしているだけだった。
青いお空に赤い球
明るい光が降り注ぐ
光と陽気に包まれて
母のぬくもり思い出す
思い出したらさあ行こう
未来の母になるために
思い出したらさあおいで
あなたを待つ人のもと
精霊は久しぶりの日光がとても嬉しいらしい、あっちこっち歌って踊って、はしゃぎ回って飛び跳ねている。
この二週間で精霊の扱いにはずいぶん慣れたものだと思う。好き放題にはしゃぐ二人のおかげで赤っ恥なエピソードが随分増えた。
精霊には人間の常識は通じない。
一緒に生活するのは躾のなってない小さな子の世話をする様に大変で、誰かに苦労話をしたらきっと一夜は明けられるだろう。
でも、最近はそれが楽しくなってきた。
「ようこそ。さ、こちらへどうぞ……」
声が聞こえた。考えてみるとここは団長室の傍で特に気になった訳ではないが、動くのも面倒だったのでそのまま聞くことにした。
「遅くなってすいません団長さん。いつもの道と違う道を通ったものですからすっかり遅くなってしまいました」
「構いませんよナーハバーさん。団員達の噂では今、ゾンネ・ヴァルトに入るのは危険だとかいいますし――」
「そうなのです! 隣町からここにくる途中、試しにちょっと入ってみれば暗くて不気味で――そう、やはり町中の噂通り『迷いの(フェアイルテス)森』になっていたんです!」
「――やはりそうですか。噂は本当だったんですね。……しかし、雨の日ならともかく、今日の様に晴れた日は子供でも迷わない森なんですけどねえ」
「はぁ、不思議です団長さん。ここしばらく天気が悪かった所為でしょうか、森の中は世界が変わったとしか言いようがなく、子供たちは森から吹く風や木々のざわめきがおかしいと言っています……」
「ああ、私も聞いたことがありますね。鳥の声に元気がなくなった、花が萎れやすい、何よりも暗い。と――何でも二週間前辺りからそうなったらしいようで――」
『二週間前』
この言葉にグレンツェンは息を呑んだ。二週間前といえば自分が森に入った日である。もしかしたら自分に関係している話かもしれない。
『森の世界が変わった』
しかし、二週間前は何も変った処はなく、ただの森だった。それがその日を境に急変するなんて絶対におかしい、あの時森に何かあったのだろうか……
「まさか」
踊っている二人に目を向けた。二週間前までは有って今は無いもの――それは『森の精霊』だ。自分に関係ではなく、最悪自分が原因かもしれない。
一度思い立つと居ても立っても居られなくなり、グレンツェンはゾンネ・ヴァルトに向け無我夢中で走りだした。
「あれ、グレンツェン何処行くの?」
入り口でメヒェンとバッタリ会ったが話しかける余裕が無かったのでそのまま走った。ゾンネ・ヴァルトに早く行くこと、それだけしか今は頭に無かった。
「なんだ、あいつ……」
クレフティーヒのことは微塵も感じなかった。
「何だ、この森の暗さは……」
二週間前とは比べ物にならない暗さだった。木々も生い茂っているのではなく、萎れて垂れ下がり、死んだ様にも見えて怖い。
小さい時から何度も通った道だが、今は全く知らない道へと変貌していた。同じ道なのに、漂う気配や印象が全く違う。
団長の知り合いの言う通りフェアイルテス・ヴァルトと化していて、記憶通りに進んでも慎重に行かなければすぐに迷いそうだ。
これはもう樹海だった。
しばらく進むと広い空間に出た。
目の前には大きなブナの樹が一本あり、周りの草木はブナの樹から少し離れる様にして生えている。暗くて印象が全然違うが間違いなくここが『森の主』の場所だった。
迷わずに着いてよかった、と胸を撫で下ろし安堵した。道が入り組んでいて内心辿り着けるかどうか冷や冷や物だった。
しかし、ここも変わってしまった。二週間前は寝ていると感じたこの樹は衰弱しきっている。森の主のこんな姿は見たことがない、たった二週間でこうも変わるものなのか。
ヴァルト・ゼンガーに初めて出会った場所。ここなら、何か手がかりが――と樹に近づいたとき、森の主の樹の下で一人の女性が幹に凭れ掛っていたのに気付いて足を止めた。
何かを思うように目を閉じ、白い顔をして弱々しい印象を感じるが、佇まいが凛然として見るものを圧倒させる――ある種の強い存在感を感じさせる女性だ。
「あの、顔色が悪いみたいですけど――大丈夫ですか?」
青白い顔が心配だったので圧倒されつつも恐る恐る声をかけた。
咄嗟に女性は目を開け、こっちを見た。どうやら声をかけられたことに驚いたらしく目を数回瞬いたが、自分を見据えると落ち着いた声で返事を返した。
「いや、なんともない。人を待っているだけだ。顔色もじき良くなる」
そういってまた樹に凭れ空を見上げた。
凛とした態度と澄んだ眼差し、背は自分より少し高く年も自分より上だと思う。凭れ掛る様が妙に綺麗で絵になっていた。しかし、初めて見る人のはずだが初めての感じがなく、昔から良く知っている人に思えてしまう。
彼女から漂う雰囲気が何故だかそう感じさせる。
「ずっとこっちを見て、何かあるのか?」
「え、あ……特には――あ! な、名前! それと待ってるって、誰を――」
言い終える間もなく睨まれ、脅威のあまり口を噤んでしまった。細い双眸が背筋を凍らせて、後退りまでさせる。
知らず知らずの内に見つめてしまったらしい、敵対されている訳ではなさそうだが分っていてもやっぱり怖い。
それに咄嗟とはいえ変なことを聞いてしまった。
「名はブンヒェ、待っているのは……無邪気で一途な子供二人だ」
鋭い眼差しを閉じ口元を微笑みに変えた。ブンヒェが微笑むと辺りを漂わせた緊張感は消え、元の雰囲気に戻った。
グレンツェンは流されるままに「はぁ」と答えた。
「お前は一人でここに来たのか?」
逆に聞かれてはっとし左右を見ると、いつも傍に居る二人の姿がなかった。
記憶を辿り、二人を置いて来たことに今頃になって気付いた。
しかしよく考えればあの二人は自分以外の人には見えないのだから例えいたとしても一人に見えるだろう。どっちでも同じことだ。
二人のことを思い出している間の沈黙を肯定と取ったらしく、彼女は言葉を続けた。
「ここは今、悲しき影の森と化している。森の悲しき木魂があちこちに響き渡っている所為で迷いやすく、危険な状態だ。大体、森に入ること事態そう容易くない筈、こんな所に一人で来る理由でもあるのか?」
言葉に詰まった。ヴァルト・ゼンガーに初めて出会ったこの場所なら急変した原因か何かあるかもしれない、というただの思いつきでここに来ただけだ。しかも肝心のヴァルト・ゼンガーを置いて来てしまった。
無我夢中になりやすいのも考え物だと改めて反省する。
無駄足を踏んでしまったと少し失望しかけ気付いた。
ブンヒェがいる。
「ブンヒェさんは何処から来たんですか?」
「……隣町からだが……」
何かを隠すようなおかしな間があった。それにこの答え、矛盾している。
一つの憶測が生まれた。
「この森は今シャーテン・ヴァルトと化しているって、言いましたよね?」
「言ったが何か?」
「一人で来るのは危険なんですよね?」
「ああ、そうだ――それがどうした。見た通りの筈だが?」
彼女の答えが、憶測を疑問へと変貌させた。
「でも、隣町の人たちはフェアイルテス・ヴァルト、迷いの森と呼んで――それにブンヒェさんは人を、子供を待っているって言ってましたけど、それって変です! 大人がとても入れたものじゃないって言うほど不気味な森に子供が易々来られるわけないです!
僕でも何度か迷いそうに、ここにくるのは大変で……ブンヒェさんは一体どうやってここへ! 顔色が――具合が悪そうなのにわざわざここへ来て、しかも僕が来るずっと前からいる様子で――何でそんなに落ち着き払っていられるんですか!
……こんな時に、子供とこんな場所で待ち合うのに、一体何の理由が……」
一度思い上がった疑問が矢継ぎ早となり、自分が何を言ったのか分らなくなってきた。
ブンヒェは目を閉じ、少し俯いて静かにグレンツェンの言葉を聴いていた。そしてグレンツェンの言葉尻があやふやになってきたとき――
「つまりお前は何が言いたいのだ?」
威圧を含めたような声音だった。しかし口調と相反して口元が少し綻んでいる、目は前髪で隠れて見えない、
その為だろうか何故か彼女が笑っているように感じる。
しかしグレンツェンは口元の綻びを見るなり緊張をよりいっそう強めた。
次に自分が何を言うかでこの先が決まる。
彼女の口元が綻んだのが何よりの証拠だ。
あれは笑みではなく自分を試す含み笑いのような気がしてならない、ここは慎重に言葉を選ぼう。
そう思い始めてすぐ、胸の鼓動がうるさい程に高鳴りだした!
「僕は……ブンヒェさんがも、森の……」声が震えてきた
「森の、へ、変貌の原因を……」目が開けられない!
「し、知って……」手を強く握る、後一言!
「僕はブンヒェさんが森の変貌の原因を知っている人だと思います!」
大いに叫んで言い切った。
何も聞こえてはこなかった。静かなことを、しいんとしているというが今この瞬間はその言葉も似合わない――真の意味で無音。
しかし、頭の中では今の自分の言葉が目まぐるしく駆け巡り、その五月蝿さで目の前が真っ白になりそうだった。
それを堪え、グレンツェンは息を切らした。無音だった辺りに、はあ、はあ、と吐くグレンツェンの息が響き渡る。その息の音を聞いて我に返り、大きく空気を吸って息を整えるとグレンツェンは顔を上げた。
見ればブンヒェの口元の笑みは消えていて、どう受け止めたのかは分らない。
今の言葉をどう受け止めたのか気になりだした時、
《ああああ》
何事かとグレンツェンは声の飛んできた方へ振り向いた。
<ゾンネ・ヴァルト見つけたね> <ゾンネ・ヴァルト見つけたよ>
置いてきぼりになっていたヴァルト・ゼンガーが木々の陰から顔を出した。無邪気に走って飛んでくるものだからグレンツェンとブンヒェ、二人の間に生じた緊張感がすっかり拭い取られてしまった。
ブンヒェは先刻同様佇んでいるが、グレンツェンは驚きと驚愕を隠せないでいる。さっきまでのあの緊張感は何だったのか?
呆気に取られて物も言えずついでに目も丸くなってぱちくりしている。
<置いてくなんて酷いね> <置いてくなんて酷いよ>
ヴァルト・ゼンガーが何か言って欲しそうに腕を引っ張る。しかし、今ここで答えようものならいつものパターンに陥り、ブンヒェに一人芝居をしている奇妙な奴、もしくは変人と思われてしまう。
それだけは絶対に避けておきたい選択肢だ。
グレンツェンは横に居る二人を居ないものと思い込むようにし、腕の引っ張りも気の所為と言う事にして何とかさっきの緊張感ある空気に戻そうとした。
しかし、戻そうとすればするほど二人の腕の引っ張り具合も強くなり、仕舞には新手の遊びと思ったのだろう、しがみ付いたり肩車したり、はしゃぎ方に拍車が掛かってグレンツェンは都合の良い遊具扱いとなった。
一応はさっきと同じポーズ、同じ目、同じ視線なのだがはっきり言ってこれは辛い。毛虫に食べられる葉っぱになった気分で、もし今の自分のこの状態を傍から見たならば結構笑える体勢だと自分でも思う。
集中もほんの数秒持ったきりでもう表情なんか作れない。この二人を相手に無言で通そうなど無謀な挑戦だと今はっきり解った。
でも、一人芝居とは思われたくない。ブンヒェが俯いてて本当に助かった。
(助かったけど、この状態からどうすればいいんだろ……)
自分で好き放題に遊ぶ二人、今はもう毛虫なんてレベルではなく蛇に巻付かれた気分というか本当にそう言える状況であり、今の気持ちを強いて言うなら――
呆れ四十%、諦め三十%、嘆き十%、重い二十%であり、とどのつまりは迷惑被害被っています。
抵抗する気は完全に無くなっていた。さっきの熱意は何処ヘやら、改善されないこの状況に失意のどん底へ段々落ちてくこの心理。
絶望とはこのことを言うのだろうか。
「く……く、く、く……」
本気で悩もうとした時だった。今までずっと黙止していたブンヒェから僅かに声が聞こえてきた。グレンツェンはもちろん遊びに夢中になっていた二人も、ブンヒェのほうに向き直った。
「プ、ププ、プ! ワハ、ワッハッハハハ。もう駄目、もう堪え切れない」
見るとブンヒェは今までのイメージを総崩しするほどに腹を抱えて仰け反り、全身で笑っていた。
あまりにも突然のことでグレンツェンは訳が判らず目を疑い、自分で遊ぶ二人のことも忘れて彼女の木霊する笑い声を聞いているだけだった。
「アハハハハ、ア~ァ、面白かったぁ」
息を全部吐き終え笑いを止めた彼女は笑い過ぎて少し乱れた髪と顔を手で軽く整えだした。今の彼女の表情はまだ笑顔が残っていてとても満足そうである。
顔色こそ変わらないが、笑顔満開の彼女からは気さくな印象を受け、さっきと今では打って変わりまるで別人のようであった。
そんな彼女をただポカンと眺めていたグレンツェンはまだ事の成り行きが解らず、目を白黒にしてパチパチとするしかなかった。
そんなグレンツェンにブンヒェは気さくに声をかけた。
「あぁすまん、こんな大きな声で笑ってしまっては誰でも面食らってしまうな」
言葉に威圧感が無く、口調も柔らかめであるが、凛然とした態度だけは残っていた。
「お前の言葉通りだ。初めは正直驚いたが、ヴァルト・ゼンガーの『家移り先』だったとは納得だな。しかしその居着き様、見ていて思わず笑ってしまったぞ」
「もしかして、ブンヒェさんこの二人最初から見えて――」
「もちろん」
破顔一笑で間髪を入れない返事が来た。が、グレンツェンはまだ現状がはっきりせず、その返事を飲み込むため頭をフル回転で情報処理しだした。
その間、少しずつ理解していく様がグレンツェンの顔色から手に取るように判断でき、しかも顔の変化が面白い。青くなったり赤くなったりと様々だ。
それがまたブンヒェの笑いの壷にはまって行く原因となった。
顔の変化が収まり恥じらいの赤一色で止まった。どうやら現状が理解できたようだ。
「ってことは、ブンヒェさんあの情けない姿をずっと!」
「もう最高に面白かったぞ、こんなに笑ったのも初めてだ。顔色も変えずによくもまあ平然と立っていられるなあ。あ、駄目、また笑っちゃう。ク、クク」
「そ、そんな――僕の努力は……」
あの苦労は何だったんだ、我慢した意味ゼロ、頑張った結果が『最高に面白い』
「僕、本当の意味でのピエロだ――」
笑われたくなくて頑張ったのに――出来ることなら逃げ出したい。奈落の底に落とされた気分で、ひゅうと落下音が聞こえて来そう。
自分の周りだけ暗いのは気の所為……?
グレンツェンが灰と化す様をブンヒェは首を傾げて見ていた。
ブンヒェにはグレンツェンがこの森のように沈む理由が今のやり取りの中にあったのか全く分らなかった。
ヴァルト・ゼンガーの二人は目の前にいる二つのゾンネ・ヴァルトに戸惑っていた。
グレンツェンを見てはブンヒェを見る。ブンヒェを見てはグレンツェンを見る。
<ゾンネ・ヴァルト二つね> <ゾンネ・ヴァルト二つよ>
《一体全体どういうこと?》
どんな状況だろうといつも笑顔を見せていた二人が初めて戸惑いの色を見せ、今にも泣きそうな、迷子の子供のような顔になる。
何も考えられない、誰か助けて――そんな悲しみが二人に芽生え始めた。
ブンヒェはグレンツェンからヴァルト・ゼンガーに視点を変え、泣きじゃくる二人にやれやれと息を下ろしたが――その目には我が子を見つけた親のような嬉しさと優しさがあった。
吐き出した息を胸の中に仕舞い、心引き締め二人を見据えた。
「シュティメ、クラン」
ブンヒェの光の様な声がヴァルト・ゼンガーに届き、二人は泣くことを止めた。声が聞こえた光の差す方に振り向くと、大きな太陽が二人の目に映った。
「お帰り」
二人を受け入れるようにブンヒェは手を大きく前に広げて出迎えていた。
シュティメとクランが二人同時に歩を運び、太陽と感じる場所に駆けて行く。
そこが私達の居場所なのだから、何も怖くなかった。
ヴァルト・ゼンガーが走り出す。自分を振り返りもしないで真っ直ぐに。
「! 二人とも何処へ――」
自分の許からブンヒェの許へ走り去るシュティメとクラン。離れれば離れるほど二人の姿が少しずつ透けていくように見える。
だけど、それが自然で当然のように思えた。
元気いっぱいに走り去る二人を眺めて――ただ見ていることしか出来なかった。
本当は走り出したときに止めに入りたかった。だけど、二人の中にはもう自分の存在は無くなっていて――それを感じとってしまったら、何も出来なくなった。
ブンヒェの前で二人は消えた。跡形もなく空気に溶け込んでいった。
「待ってくれ、行かないでくれ!」
消えた途端になって思っていた言葉が口から出てきた。頭の中では似た言葉や思いが次々と飛び出してきて溢れそうになる。
「あの二人は? あの二人は消えたのか!」
ブンヒェに掴み掛かるグレンツェン。今大事なことは消えた二人についてだけだった。
「落ち着け、シュティメとクランは消えていない。辺りを見てみろ」
「ぅ――くっ」
言われるままに必死で辺りを見回す。焦っていて気が気ではない乱雑な探し方ではあるが二人の外見的特長は見逃すほうが難しい。
何度も何度も同じ所をぐるぐると探し回った。しかし、
「いない――ブンヒェさんあの二人は、うわっ……」
グオッ――、突風が来た。あまりに突然だったので反射的に目を瞑った。
今までそよ風の一つも立たなかったのにどうしていきなり突風が来るのか。
今の風は何だったのだろう。そう思いつつ目を開けた。
「どうだ? 見つかったか?」
クスッと悪戯っ子の様な笑みを浮かべるブンヒェ。探し者を何時見つけるか楽しんでいるようだが――、
目の前の風景に呆然とした今のグレンツェンには聞こえて来なかった。
「いつもの森だ――」
心地よい風、木漏れ日が清々しく綺麗に優しく――そして暖かく全てを包み込んでくれる空気――。
踊るように生き生きといた木々や草木。
いつもとなんら変わらないゾンネ・ヴァルト――『太陽の森』だった。
風が吹いて目を瞑っていた間に何が起こったのか、
瞬く間の様変わりが未だ信じられずグレンツェンは茫然自失していた。
「呆けていないで、早く探したらどうだ?」
ゲームの続きを催促する少し意地悪な声にムッとしてブンヒェに目を向けた時、また目を疑ってしまった。
蛹から蝶なのか一皮剥けてしまったのか、彼女の印象が真逆になっていた。
色艶で張りのある顔に全てを見通すかのような大きな目。すらりと整った体つきに一種の妖艶さまでも感じてしまうが、清楚な穏やかさは失われない程の落ち着きよう。
さっきまで容姿には気に留めなかった。しかし今では細部にまで目を奪われてしまう。
この人は只者ではない。
凛然とした態度は相変わらずだが、今の彼女には威厳も加わっているようにも思えて、もし今さっきのような矛盾を感じてもそれを言い出せる自信は無い。
それほど彼女の存在感は強くて眩しかった。
この一瞬で彼女に何があったのだろう。
考える中、ふわりとそよ風が耳を掠めた。さっきと違い実に心地よい風だったが、何故か風に聞き覚えがあった。
「まさか」
今度は耳を疑った。いや、信じられなかった。
風の流れに二人のメロディーを感じるなんて……
「見つけたのか?」
戸惑う心を見透かすような意地悪な声。しかしゲームを催促するには充分な声だった。
見つけたうちに入るのかどうか分からないが、確かにその風の流れに二人はいた。二人の歌声が風になっているのが分かる。なら二人は何処に?
思い返してみる。二人のことを、
輝くものを求め、輝く筈のものを輝かせるために歌い、自分をゾンネ・ヴァルトと呼んで輝かせる為に歌うと言った森の精霊、ヴァルト・ゼンガー。
その二人が今まで歌っていた内容を思い出すと、出会い頭から唐突に言っていた訳の分からない言葉の意味が今になって明確に分かってきた。
本来のヴァルト・ゼンガーとは「輝くもの=ゾンネ・ヴァルト」を輝かせるために歌い踊る森の精霊だ。
そう、【森を輝かせるためだけ】にいる精霊が自分から森を離れるなんて事は有り得ない。だけど二人は一時的にとはいえ森を離れて自分について来た。
何故か? それは二週間前の森の様子で察しが付いた。
あの時二人は「森は眠っている。眠っていては輝けない」と言っていた。
そんな時にたまたま森へ来た自分が『輝くもの』の条件に合っていた。
だから、輝くものを輝かせるために自分をゾンネ・ヴァルトと称してブンヒェの言う【家移り先】にした。
そして今、森は眠りから覚めヴァルト・ゼンガーは自ずと森に帰った。
「二人は森の精霊だから本当の居場所に帰っただけで、森も二人が帰ってきて嬉しいんだ。だから悲しき影じゃなく、太陽の様に輝くよう(ゾンネ)になった……」
きっと、自分の前に姿を現すことは二度と無いだろう。
そう確信してしまった今、辺りから二人のメロディーを感じるその事実が妬ましかった。
全てを悟った今、二人が消えたことに対する寂しさや後悔といった無念が心の奥底から噴き出し――
「僕は【仮の宿】だ! 家移り先でも何でも無い今の僕に二人はもう見えない、もう会えない! 二人も僕を見ることは二度と、二度と無いんだ!!」
二人が与えてくれた自信や希望が全て消えてしまっていた。
この叫びとも悲鳴とも付かない本声も含めたものがグレンツェンの答えだった。
「やれやれ、おかしな奴だ。見つけたのなら見つけたと素直に言えば良いだけのものを、何故そう泣くのか」
これは只の遊戯、隠れん坊だ。見つけられない不安や悔しさで鬼が泣くのは理解できるが、見つけたときの鬼に泣く要素は無い。
理解不能。これがブンヒェの本音である。
涙を流し続けるグレンツェンの瞳は目の前の何をも映し出せず、心の内の、無限に広がる暗い漆黒の闇ばかりを見つめていた。
「僕、これからどうすれば良いのかな……」
漆黒の闇。その闇に溺れて抵抗できない自分がいて、光がない世界だと判っていても光が欲しくて踠き苦しむ自分がいる。
いくら拭っても勢いが増すばかりのこの涙が辛うじてグレンツェンの意識を現実へと向け――絶望への歯止めとなってくれていた。
ブンヒェは溜息をついた。一人静かに涙を流す、ほっとけばずっと続くこの状況にはある種の耐え難いものを感じているようだ。
グレンツェンを見る目が少し険しく、何かを見定めるようである。
「お前が今思っていることを言ってやろうか――」
じれったい状況に止むを得ず口火を切った。
「シュティメとクランのいない未来が怖い」
何かが胸に突き刺さる鋭い感覚を覚えた。だけどこの痛みがグレンツェンの心を闇の最中から外へと僅かに向けさせた。
さっきからずっと何を考えていたかなんて自分でも分からない、なのに何故ブンヒェさんの言葉に怯えるんだろう。
外を向いたのに、まだ闇に溺れている。
「二人の歌でお前は此の上なく輝き、歌の甘美さに酔い痴れてしまった。
だから怖いのだろう? もう酔えない。いや、――二人の歌がなければもう酔えないと思い込んでいるから――な」
胸を引き裂かれたかと思った。雷撃が走り酷く痛む。
この人は何を言ってるんだ?
歌に酔う? あの二人が歌ってくれたからこそ僕は輝けた。そう思っている。
でも、酔うって一体――
「あの二人は宿主を輝かす力こそ有るが宿主に無い力を与えることは出来ない。それに輝くといっても人目を引きつけるぐらいの微々たるモノだ。ましてや人間の身体的能力を底上げする力など無い。本々、森を活性化するために生まれた精霊だしな」
二人に出会う前、出会った後、そして今。思い当たる節が多くて、まるで二人と一緒にいる自分を見てきたかのような言い振りだ。
何を見てこうも的確に言えるんだ?
「二人がお前に齎した輝きは想像が付く。大方、アクロバットか何か曲芸の類――」
「ブンヒェさん! あなたは一体誰――いや、何者なんですか!!」
何かが自分の中で弾け飛んだ。何でこの人はこうも自分のことが手に取るように分かるのか。何で自分のことを知っているのか。
今もふつふつと覇気みたいなものが体中から沸いて溢れ出そうとしている。
ブンヒェは驚いていた。しかしそれはグレンツェンが言葉を遮るほどの威勢を短時間で取り戻したことに対してではなかった。
「分かっていなかったのか? ヴァルト・ゼンガーの本質を百%といっていい程見抜いたお前が、私の正体を見抜いていなかった……と――」
信じられないといった感じだった。
「あなたが人でないことは分かっています。あの時ブンヒェさんも森に関係のある精霊だと解りました」
森が元に戻ったときブンヒェも変わった。これに繋がりが無いはずが無い。
「森の精霊だからってどうして僕の心の内が分かって、何で僕がサーカスの団員だと知っているんですか! ブンヒェさん、あなたは一体――」
コツン、コツン、
ブンヒェは何も言わずにずっと傍にあった樹を握り拳でそっと叩いた。
音に気を殺がれ、感情剥き出しで無茶に食い入るのをやめると、モチベーションも次第に無くなり、音の意味を探るようになった。
そして、ブンヒェのこの行為の意味が解った時――グレンツェンの心は解き放たれた。
「解ったか?」
裏のある笑みをこぼし解りきったことを前提に問いかける。――意地悪を超えてもはや嫌味な域に入りそうだ。
「そっか……」
負けた。只そう思えてきて不思議でならない。はなから勝負なんかしていないのにこう思えて仕方なく、すっきりしすぎて心の底から笑ってしまう。
体中の力が全て抜けた感じだ。心が軽い、このまま空に吸い込まれてしまいそうだ。
「ブンヒェさん『森の主』だったのか……何で気が付かなかったのかな?」
小さいとき暇があったら何時もここにきていた。ここで遊んだりクレフティーヒ達と喧嘩をしたり、夢を話し合ったり――メヒェンと二人だけで会話したこともあった。
何よりも辛いこと、寂しいこと、悲しいことがあったら必ずここにきていた。
森の主は何時も自分達を見ていた。
ブンヒェが自分を知っていても何も不思議では無い。
森の主の樹はブナの樹で、彼女はそのままブンヒェ(ブナの樹)と名乗っているのだから気が付かない方がどうかしている。
今まで何を見て何を聞いていたのか、肝心なところがそのまま抜け落ちていたなんて……どうかしていたのは自分だ。
自分で自分を笑ってしまう。
自分は馬鹿だったと諦めがついた。
いつからだったか、こんな風に意味もなく笑わなくなったのは――
「シュティメやクランのことで頭が一杯だったのだろ。少しは目が覚めたか?」
目が覚めたなんてものじゃなかった。何しろ溺れていた自分を引き上げてくれ、勝手に作り上げた分厚い雲を消し去り――自分で隠して見えない振りをしていた光までも見つけ出してくれたのだから。
まだ万全とはいえないがとても晴れ晴れとした心だった。
「全く、あの二人にはいつも手を焼かされる。家移り先のアフターケアはいつも私だ」
グレンツェンの心のケアから開放された安心感からか、ブンヒェは柄にも無く愚痴をこぼした。
「そんなに毎回手を焼いているんですか?」
面白そうな気がして思わず聞いてしまった。
「まあな、私達は朝日と共に起きて夕日と共に眠る。つまり太陽が出ている時以外はいつも寝ているからな。この陰雨の時期になると雨や曇りの連日だから私たちはずっと寝てしまう」
頭を抱えるブンヒェに納得していくグレンツェン。
「そっか、だからあの日は森が寝てるって思ったのか――」
「だがあいつらは草木ではなく精霊だ。宿主の起床=歌う、宿主の就寝=休むぐらいしかない。だからこの時期あいつらは暇に耐えられなくなって人間に家移りしてしまう――」
「えと、つまり僕たち人間は暇つぶし――」
「そうだ、お前は十年ぶりの三十八人目だ」
「か、数えてるんですね……」
怒りで口が滑らかになっていく。おそらく今までの出来事がアルバムのように思い描かれているのだろう。ヴァルト・ゼンガーの存在は良い意味でも悪い意味でも大きくて、大事な存在らしい。
八つ当たりの的にだけにはなりたくなかった。
「全く、あれほど言い聞かせたのに十年しか持たんとは……」
まだムッとしてるが一応は収まりが付いたらしく口が堅くなりだす。――しかし、目の微笑みは残っていた。何だかんだ言って良い思い出もあるのだろうか。
彼女の頬も思わず緩んでいるのに気付いた。初めて見せる彼女の心からの笑みに見惚れて思わず頬が赤くなる。
もしかしたら女の人を『美しい』って思うのは初めてかもしれない。
メヒェンを見るときとは違う感情だった。
「なんだ? また私をじっと見るのか?」
「え――あ、そんなつもりじゃなく……」
またやってしまった。「その笑顔を見てました」という本音しか出てこない。ブンヒェさんは見られるのが嫌いなのか――なんて事よりもこんな時どう返答すれば……。
回答に悩めば悩むほど答えが遠ざかるような気がする。ツヴァイなら軽くあしらえられるけど、ここには自分しかいないのだ。当たり障りの無い返答を返さなくては――。
グレンツェンは必死で考えれば考える程考え方が大仰になる変な癖がある。ブンヒェにはそれが面白くて堪らなかったが出会い頭同様、今の何気ない会話に何か深く考えなくてはならない要素はあったのかと疑問に思い素直に笑ってしまう。
「お前もしかしてシュテルンの子供か?」
「違いますよ。シュテルンさんは独身ですし、僕の尊敬する人っ――え、え? ええ!」
何でここでいきなりシュテルンさんの話になるのか皆目見当が付かなかった。
「なんだ違うのか。そっくりだからつい親子かと――ああ、歳が近すぎるか」
シュテルンさんは二十五歳、僕は十五歳。親子でも兄弟でも親戚でも何でもない。
「そっくり? 僕とシュテルンさんが??」
シュテルンさんと自分は似ても似つかぬ容姿や風格、おまけに性格すら懸け離れている。
まだ自分は成長期だからといっても将来似る可能性は限りなくゼロに近い。
それにシュテルンさんのアクロバットの技術は天才的だ。追いつこうとしてもいつも遥か彼方の先にいて、眩しいくらいに輝く演技で誰の期待も裏切らない。
どんなに厳しく辛い訓練にもそんな風は微塵も感じず、臆することもなく、妥協を許さず常に新しいことに取り組み挑戦する。
そんな超人的な人に何を持ってそっくりだというのだろうか。
「何だ? その変なものを見たような顔は、あいつの仕草や態度はお前をそのままコピーしたようなものだ。お前同様変で面白い奴だったが――、
お前あいつを尊敬しているのか?
止めておけ、確かにあいつはお前そっくりだが泣き虫で臆病なところはお前を遥かに凌いでいたぞ。本当にどうしようもない奴であの時のアフターケアは散々だったな」
やれやれ、と言い終わり渋い表情を浮かべていたがそれもまた良い思い出だったのかもしれない。優しい目をしていた。
昔のシュテルンがどんな人だったかなんてグレンツェンは考えたことも無かった。昔から天才だったのかと思っていたからだ。
あの人にも臆病な頃があった。自分と同じような頃が会った。
そのことに共感と感動を覚えると自然と力が湧いてきた。自分だって今からでも遅くない、あの人になれる。
希望で胸が膨らんでいくのが分かる。
アフターケアは散々だったろうけど、それを乗り超えたからこそ凄い人に――。
「アフターケア……?」
アフターケア。感動が一変してまさかに変わった。
変わったら何故か血の気が引いてきた。
そのまさかを否定したくなってきたからだ。
「まさか……十年前、ヴァルト・ゼンガーの家移り先になった人って……」
「シュテルンだが」
衝撃だった。
十年前といえばシュテルンさんがデビュー公演した時であり、その時見たあの人のアクロバットが決め手となって自分はサーカス学校に入学することを決めたのだ。
それなのにその時のシュテルンさんが今の自分以上に臆病で泣き虫だったなんて信じられない。たとえ少年時代でもあの人だったら迷いもなくヴァルト・ゼンガーを森に返すほどの自信と希望に溢れていると思っていた。
今度こそ致命的にグレンツェンの中のシュテルン像は崩れ去った。
崩れたショックで呆けているグレンツェンを見て――
「十年か、あいつは十年でそんなに変わっていたのか。侮れん奴だ」
ブンヒェは今と昔でシュテルンのイメージがかけ離れるほど成長したと悟り、何処か懐かしそうに遠くの空を眺めていた。
「……――」
ブンヒェの耳に風に混じって人の声が届いた。こっちへ向かっているらしいが距離からしてここにくるにはまだ時間が掛かるだろう。
「おい、グレンツェン」
「は、はい……っええ!」
初めて名前を呼ばれて驚き、咄嗟に慌ててしまいかっこ悪くなってしまった。
慌てるグレンツェンをよそにブンヒェは首を振って来た道を見るように促す。
促されるまま後ろを向いたが、寄宿舎へ通じる道があるだけで何があるのか疑問に思った。
しばらくして――
「グレンツェーーン――どこぉ」
「おおぉぉい。馬鹿グレンツェン、返事しろおぉぉ!」
メヒェンとクレフティーヒ、二人の呼び声が聞こえてきた。
「ブンヒェさん、二人が来た――あれ?」
目の前にあるのは一本の大きなブナの樹、森の主と呼ばれる樹。
自分とその樹の間を無数の風が通り抜け、今までいた空間の広さを再認識した。
今まで目の前にいた人の残像が見えると、思い出したようにブナの樹へ駆け寄り、幹にそっと手を触れてみた。
記憶が思い出に変わっていくような気がして涙がこみ上げて来る。
「ブンヒェさん……ダンケシェーン(ありがとうございます)」
溢れる気持ちが涙に変わり、幹を目の前にしてしっかりと言葉でお礼を述べた。
今日はよく泣く――男らしくない日だったけど、今日という日があって本当に良かった。
今日が無かったら泣く気持ち好さなんて一生分からなかったと思うから。
「あ、見つけた。クフィー、見つけたよ。グレンツェーーン」
「っておい、ちょっと待て! っていうかメヒェンもいい加減その呼び方止めてくれ!」
目の前が開け森の主の下にいるグレンツェンを見つけるとメヒェンは意気揚々と走り出し、その後ろをクレフティーヒも小走りで付いていく。
メヒェンが自分のところに向かってくるのを確認すると慌てて涙を拭い、泣いていた痕跡を消そうとした。
この涙は拭えばすぐ消えてとても助かった。
「グレンツェン!」
メヒェンはスピードを緩めなかった。
そのままのスピードでグレンツェン目がけて突っ込んで行き、あっという間にグレンツェンを抱きしめた。
涙を隠せたかなんてどうでもよくなってしまった。走っていたメヒェンがいつの間にか目の前に来て自分の胸元に飛び込んで腕を回していた。
頬と頬が擦れあう触感が目の前の色彩全てを淡く染め上げ、それに比例するかの如く鼓動が膨れ上がった。
そして段々と胸の高鳴りがゆっくりと感じていき時間の流れは止まったかのように思えてきたが――
目の前にやって来たクレフティーヒが彼特有の殺気で辺りを侵食してきたのでそれはやっぱり気のせいだと分かった。
気配をキャッチしたメヒェンがまあまあ、とクレフティーヒを軽く落ち着けさせる。
「この馬鹿! まず俺たちに何か言う言葉は無いのか?」
「え……! クレフティーヒ、何そのボロボロの格好は?」
儚い時間に別れを告げ、まじまじとクレフティーヒを見つめた。
「どこをどう歩けばそうなったの?」
服はボロボロであちこちがかなり汚れている。
服が軽装な分、腕や足にも擦り傷や切り傷、泥の跡があり、どこか未開の地でも探検して来たかのようだった。
しかしそれと対照的にメヒェンのワンピースには汚れた形跡がなく、二人一緒に行動してきたのか不思議に思えるくらいだった。
「どこを、どう、歩けば、だとう……」
静かにクレフティーヒの怒りが溜まっていく。二人の事情が分からないから何がクレフティーヒの地雷ワードなのか分からない。
もしかして天国から地獄へと急行してしまうのだろうか。
「もう、クフィーったら」
メヒェンが荒馬を撫でるように諌め、カウントダウンへの制止をかけてくれたので地獄行きは何とか免れた。
「私達ずっとこの森でグレンツェンを探してたんだよ」
「え? どうして?」
「どうしてって。この森、みんなから危険だ、入るなって言われてたでしょ? なのにグレンツェンったら迷わず入って行くんだもん。慌てて追いかけて来たのよ」
初耳だった。この森の噂がそんなにも有名になっていたなんて、もしかして知らなかったのは自分だけだったのかもしれない。
メヒェンもこの噂を知らなかったグレンツェンに驚きを隠せないでいる。
「――もしかしてグレンツェン、知らずに森に入っていったの?」
メヒェンの問いにクレフティーヒの目が光る。
頷くしかなかった。後が怖いと判っていても頷くことしかできなかった。
頷いた後は静かだったが、膨大なエネルギーが膨らんでいくのを感じて背筋が凍る。
張り詰めた糸が切れたとき、
「どおぉいうことか説明しろおぉぉ」
「きゃあぁぁ、クフィー落ち着いてえぇ」
「い、今説明するよ、クレフティーひ~~」
鬼気迫る昔から変わらない馴染みのスタイルに戻っていった。
「――なるほど、大凡の事はよく分かった」
これまでの経緯を聞き、満足げに納得するクレフティーヒだったが、グレンツェンは説明に疲れ果て生きた心地がしなかった。
クレフティーヒが大魔神と化したときの恐ろしさは半端じゃない。
一歩歩けば地震が、腕を動かせば突風が、そして睨んだ先は荒野と化す――というのは大袈裟だが実際それくらいの迫力はある。
噂ではあのヘァリッヒ先生にも引けを取らないとか何とか。
だけど話した内容を嘘といわずに受け止めてくれたのは幸いだった。
「よし、今度お前が服を買ってくれるって事でチャラにしてやる」
「え!? 嘘だろ? クレフティーヒ」
「あ、じゃあ私も、今度新しい靴買ってね」
「そんな、メヒェンまで――。もう、二人とも僕の話の何を聞いてたの!」
二人がじっと見つめる。こんな理不尽な要求受け付けたくないのだが……。
「お前の所為で森がシャーテン・ヴァルトに変わり果てたってこと」
「グレンツェンがヴァルト・ゼンガーを送り届ける為に森へ入ってっちゃったってこと」
二人は自分を探すために危険を承知で森に飛び込んだのだ。クレフティーヒはメヒェンに怪我させまいと頑張った結果、服がボロボロになってしまった。
メヒェンも服装こそ乱れていないがあっちこっち迷った上に不安定な凸凹道やぬかるみを歩き回った所為でおしゃれな靴が台無しになっていた。
仕方が無いといえば仕方が無いのである。
「あ~もう、分かったよ二人共! 買う、買うよ!! もう、人のお金だと思って……」
お金が飛んでいくのは歓迎したくないがそれが事を起こした張本人の後始末だと信じてこの際きっぱり割り切ることにした。
「やりぃ、絶対だぜ、グレンツェン。約束だからな」
「やった! 精霊様々ね」
手を合わせて喜んでる。二人の喜び方を見るとなんか只乗せられただけのような気がしてきて微妙で複雑な気分だ。
「よし、善は急げだ。このまま服屋へ直行するぞ!」
「え、嘘? ちょ、ちょっとメヒェンも何とか言ってよ」
走り出そうとするクレフティーヒの服を掴む、もし離せばそのまま服屋へ突っ込む勢いだ。さすがにそれは勘弁して欲しくてメヒェンに救済を求める。が、メヒェンも乗り気だった。頭の中は欲しい靴で埋まっている。
「二人とも何考えてるの、不謹慎だよ。明日が公演なんだよ、今日は明日のために体を休めるのが目的でそんな――」
「まだ不安だったのか? だったら訓練付き合うぜ」
「え? 不安なんてないけど……」
意外な言葉で手が緩み、その隙に走り出されてしまった。
「だろ? だったらそのまま服屋へ直行!」
「クフィーに賛成!」
メヒェンまで走り始めた。
「ちょ、ちょっとクレフティーヒ、あ、メヒェンまで」
仕様がないので追いかける。幸い二人はそんなにスピードを出していなかったのですぐに追いついたが三人でそのまま森の中をかけっこする羽目になってしまった。
「なあグレンツェン、お前今すっげぇ良い顔してるぜ」
「え? い、良い顔?」
走りながらの会話が始まった。なだらかで明るい、迷う事のない道だから昔もよくこんなふうに走りながら会話していた。
でも突然顔のことを言われてもぴんと来ない。
メヒェンはその言葉の意味が分かるのかクスッと笑っている。
「昔のお前みたいで『僕に出来ないものはない』って顔」
口の端をにんまり伸ばして子供っぽく笑って見せるクレフティーヒ。
クレフティーヒは今の自分を歓迎してくれた。
きっとクレフティーヒも昨日までと違って自分に対する不安や気掛かりなところは微塵も感じなくなったに違いない。
「御生憎様、僕は昔の僕とは比べ物にならないよ」
こっちも同じくらい笑ってお返ししてやった。
「明日。今のお前ならどうするよ」
「別に、明日はやることをやるだけだよ。誰よりも輝くアクロバットをね」
「それを聞いて安心したぜ。だったら俺はお前のその輝きって奴をかき消してやる。明日の客はみんな俺に釘付けだぁ!」
「クスッ、二人とも頑張ってね、私も輝くから」
「任せとけ!」 「任せて!」
必ずやってくる未来を信じて森を駆ける。
風が吹いた。それはメロディーも何もないただの風。でも、風を感じたら何も無い闇に光が差し込み、未来へと続く道が現れた様な気がする。
そう、無意識に飛んだあの時の様に。
メヒェンはひたむきに今を見詰める。その真っ直ぐな瞳が欲しくて過去を忘れようと必死になる自分が辛かった。
クレフティーヒは常に明るい未来を見ている。その真っ正直なところを常に羨んでいたから、無理と分かっていても真似したくて堪らなかった。
でもそれは二人の未来への歩き方で、自分の歩き方ではない。
途中何度も後ろが気になって振り返ろうと思ったけど、今は止めておこうと思った。これはクレフティーヒやメヒェンの真似じゃない、自分で決めたことだ。
過去を感じて未来へ駆け出す。これが自分の未来への歩き方。
過ぎ去ったことに気を置いて振り返ったら自分に掛けたこの魔法も解けてしまう。
それだけはもう勘弁して欲しい。
過去はいつも思い出として心の中にある。
振り返るのはいつでも出来ることだ。だから振り返るのは止めてクレフティーヒとメヒェン、三人一緒に止まらず走るほうを選んだ。
光溢れる未来の為に
一つの光が走り出す
過去と未来と光と闇と
小さな水晶大きな器
溢れる光の受け皿抱え
その身に未来を刻みだす
風の中に流れる精霊の歌を聴くことはもうできない。でも、風に耳を澄ますことはできる。
風は自分を後押ししてくれる。その中には光溢れる為の呪文が詰まっているから、時間という闇の中でも未来という光に向かって歩みだせる。
二人の息吹を感じる。
ありがとう、僕は自分を信じられる。