月白の雨の記憶
私は優しく腕を引いて前を歩いてくれる彼女に感謝しつつ、転ばないようゆっくり歩を進めていた。こんなに長い道のりを歩くのは久しぶりなのだ。
『雨が降っている』
無理やり転換された話に対して不思議に思いつつも、深く聞かないでほしいのかと思った私は聞くことをやめて、自分の覚えている雨の光景を何となく思い出していた。朧気な景色の中で、はっきりと覚えている雨の中に佇む自分と、その感触。ただ思い出せない感情。
―――雨の中で佇む私は何を思っていたのだろう。
そうしたらなぜだか、ものすごく雨に触れたくなってしまったのだ。
申し訳ない気持ちもあったし、こんなこと黒岩さんではなくお医者さんに頼めばいいのだが、どうしても゛頼む゛という行為が難しいのである。
言おうかな?迷惑じゃないかな?どのタイミングがいいかな………そう思うと、もういいかなってなってしまうから。
だからと言って黒岩さんに頼むことが楽、というわけではない。今回は無意識に口に出してしまったのだ「外に出たい」と。慌てて忘れてほしいと頼んだのだけど彼女が黙ってしまったものだから、困らせてしまったと思い、申し訳なくなった。
だけど今はこうして手を引いてくれている。
彼女はきっと優しいのだと思う。出会ってからまだ数カ月の仲だけど、彼女には何度も助けられたから分かる。今だってこうして手を引いてくれているから。優しさの中に何かあるような、そう感じてしまうことも稀にはあるのだけれど。
私は実際、自分の病室からほとんど出ることはない。出るときなんてトイレに行く時ぐらいだ。その距離もかなり近いため、今ではもう1人でトイレに行けるまで成長した。最初は一人で出歩いて看護師さんに心配かけてしまってたっけ。今は個室の中にトイレもあって本当に出ることはないんだけど。だからこそ、これ以上の距離は初めてだから少し怖かった。
前が見えないというのも理由ではあるし、私があそこから出ていくことで迷惑をかけてしまう人たちがいると思うから。多分お母さんもお父さんも私が部屋から出ることをよく思わない。迷惑をかけたくないと思うため、少し怖い。まだ家族だということも思い出せないし、それも申し訳ないから。
やっぱり今からでも部屋に帰ったほうがいいだろうか。
心臓がバクバクと気持ち悪い。部屋から出たことに突然不安が押し寄せてくる。今日は両親が来る予定はないけれど、先生にも何も言っていない。
一歩、一歩、ゆっくりと闇の中を前へと進んでいく。今はどこらへんなのだろうか。長い距離を歩いたような、歩いていないような変な感覚だ。ここがどこか、病院じゃない知らない場所にいるみたいだ。そう思っていると、くろいわさんが立ち止まる。
「あの、どうかしましたか…?」
私が問いかければ手に「エレベーター」「屋上」と書いてくれた。それで今から向かう場所を理解する。
―――そっか、屋上に行くんだ。
少しだけ不安とは違うドキドキを感じてた。
この胸の高鳴りは不安からか、高揚感からか。私にも分からなかったけれど、こんなにも感情が動いたのは久し振りかもしれない。
エレベーターに乗り込み、振動を感じる。体から感じる浮遊感に少し気持ちが悪くなるが、それも一瞬のことですぐにエレベーターから降りた。もうついたのかと思ったがどうやら、屋上まで直通してはいないらしい。ここからは階段で行くと彼女は説明してくれる。気をつけて、と。
それから屋上に着くまでに中々時間がかかった。彼女は私の歩幅に合わせて一歩一歩歩く。左手で手すりを握り、右手を彼女が支えてくれた。階段を上っていると、突然彼女の手が私から離れる。
前も後ろもわからず、何もない空間に階段が前にずっと続いているような…そこに放り出されてしまった、そんな感覚だ。単純に怖い、それだけだった。しかしそれも一瞬のことだった。
「ついたんですね」
右掌に書かれた『ついた』という3文字で屋上に着いたことがわかった私は目に見えない景色に手を伸ばす。しかしそこに雨はなく、空虚な空間を掴むだけだった。その事実に少し残念に思いつつも、手をおろし前を見る。
きっと今、目の前には雨が広がっているのだろう。灰色の空に薄暗い景色、とめどなく降る水滴を打ち付ける地面から跳ねる雨水。はねた水は泥と混じって私のところまで飛んでくる。
実際水滴は飛んでは来ていないのだけど。ここはまだ室内なのだろうか。
そして、今度は「かさ」と書かれる。
「傘?………と、り、に……分かりました、何から何まですみません」
どうやら傘を取りに行くから待っていて、という旨らしい。ここが室内だと考えるに、今から外の方まで連れて行ってくれるらしい。もしかしたら、私の気持ちを察してくれたのだろうか。そんな事実に有り難さと申し訳無さが入り混じった。
すると少し手を引かれてから、後ろへと肩を押された。倒れる、かと思い頭が真っ白になったが背中を何かに支えられた。それは大きく、冷たい無機質なもの。壁だろうか、強固なそれは私をしっかり支えてくれている。
もしかして、後ろにに壁があるから安心してということなのだろうか。私は肩の力を抜き、壁にもたれかかった。何もない空間に立っている感覚は確かになくなり、大きな安心感がある。黒岩さんは凄いなと、改めて感じた。
静まり返る。背中の感触以外の刺激は何もない。私の手を握っていたくろいわさんの手は今はないため、きっと今ここにはいないのだと思う。
―――傘を取りに行くって言ってたしな。
私はボーッと恐らくそこにあるであろう曇天の空を眺める。私はもう一度手を伸ばしてみた。それはやはり空気を掴むだけで何もない。今度は壁に手をついてみる。そして壁沿いに一歩、一歩と歩いてみた。3歩目、足を進めようとした瞬間、私の足に冷たい何かが飛び跳ねる。
―――あぁ遠いと思っていた空は今、こんなにも近くにある。
もし耳が聞こえればザーっという音が聞こえていたかもしれない。もしかしたら弱い雨でポツポツって水たまりで水が跳ねる音がしたかも。
私はまた前に手を伸ばしてみた。すると先ほどとは違い雨水が触れる。こんなにも近くに雨があった。それは想像よりも強くて、土砂降りだ。
「こんな土砂降りの中、来てくれたんだ…」
毎日欠かさずに私の病室まで足を運んでくれるくろいわさん。忙しいときは来れないと、最近言われていたが、一週間で来れない日なんて今の所1日、2日くらいだ。
最近は黒岩さんが来るのを待つのが日課になっていた。
最初こそ、この人なんだろうとか思っていたけれど、自分の怪我が治ってからも来てくれるものだから日を増すごとに優しい人なのだろうな、と感じるようになっていた。変な人だな、とは思う。出会った理由だって病室を間違えただけで、サヨナラしてしまえば一瞬で終わる縁だった。それが今もまだ続いてる。そして、こんな日常が当たり前になり始めている私も変だなぁって思う。少し心が暖かくなる感じがした。
何分経ったのだろうか。彼女はまだ来ない。時計をおいてきてしまったため今どれくらいの時間が過ぎたのかもわからない。そうだ、と私は足元に気を付けながら一歩踏み出してみた。
「………冷たい」
ザーっと私の体に雨粒が降ってくる。それはやっぱり強い雨で、激しく私を打ち付けた。冷たさにブルっと体が震える。温度を調節された部屋では感じることのない冷たさだ。そして一歩、もう一歩と前へと進む。
この土砂降りは収まりそうにもない。そう言えば、今は梅雨だった。そんなことすら病室に篭っていた私は忘れていた。全身の感覚が研ぎ澄まされていく。
―――この雨が続けば、黒岩さんもここに来るのは大変ではないだろうか?やっぱり、もう来なくていいよって言った方がいいのだろうか。
研ぎ澄まされてた感覚に、冷たくなっていく思考。私は彼女に何をしてあげられるのだろう。そんな考えすらも、きっと厚かましいのだろう。
だんだんと重みを増す服。あの日の感情を探すかのように、私は雨に打たれる。
最大限に重くなろうとしていた服を軽くするように、雨粒は突然打ち付けることをやめた。
一体どれくらい雨に打たれていたかは分からないが、すごく短い間だってことは私にもわかるし、雨が止んだ理由も分かる。
「早かったですね、あいたっ」
私がそう言えば、間髪入れずに頭に軽い衝撃がきた。痛くはないが突然の衝撃に思わず痛いと言ってしまった私の手を取り、彼女は「かぜ」と書いた。恐らく風邪のことだ。心配して怒ってくれているのだろうか、そうだったら申し訳ないことをしてしまったな。
確かに数秒だけだけど、結構濡れてしまった。私は逆の手で水を吸って重たくなった洋服に触れてみた。思っていたよりも濡れていたそれに私は苦笑しかできない。
―――これは結構ビショビショになっているみたいだ。
「ごめんなさ………?」
素直に謝ろうとすると私の肩に何かが掛けられる。不思議に思いかけられたものに触れてみるとそれは服のようだった。
―――カーディガンみたいだけれど、これは…
恐らく、くろいわさんの服であろうことはすぐ分かり彼女の服が濡れてしまうと思い脱ごうとするがそれは駄目だと言わんばかりの勢いで止められる。
「でも、」
『き、て、て』
「…ありがとうございます」
お願い、と言う彼女の好意に甘えることにした私はお礼を言う。そこまで言うのに断る訳にはいかないではないか。衝動的に動いてしまって後の事を考えてなかった私は少し自分の行動を反省する。
しかし、雨に触れる事ができて良かったとも思ってしまう。ずっと部屋にこもっていたら、この肌寒いって感覚は思い出す事すらできなかったのだから。
私は彼女に手を控えれ、室内へと戻る。無意識に後ろを振り返り、見えもしない雨を最後まで見つめていた。




