赤丹色のバス停
『かえるね』
「はい」
『また、あした』
「また明日」
そっと握っていた手を離せば白石さんは笑顔で手を振ってくれた。そんな彼女に胸が暖かくなりながら俺も振り返して部屋を出る。
―――今日はなんだか密度の濃い時間を過ごしたな。改めて分かったこともあったし………コミュニケーションの大変さも。
無事連絡先も聞くことができたため、満足ではあるのだが。
「何1人でニヤニヤしてんだよ、気持ち悪」
「はぁ?ニヤニヤしてねー………し?良樹!?」
「病院では静かにしろよ」
「あぁ、ごめん………じゃなくて、あれ?帰ってなかったの!?」
部屋を出た瞬間、少し向こう側にある窓の下に置いてあるベンチの上で座っている良樹に声をかけられた。彼は大きな欠伸を漏らしながら気怠そうに立ち上がる。
彼はさも当たり前のようにそこにいるが、俺からすれば帰っていると思っていた友人が目の前にいるのだから驚きである。
相変わらず固まって動かない俺に、良樹は呆れたようにため息をつき、俺の隣へとやってきて肩を支えるようにして背を押す。
「早く帰るぞ、俺は腹が減った」
「そこにポテチのゴミが見えるんだけど」
「あれで足りると思ってんのか」
「食ったことは否定しないのね!」
唖然としていた俺も帰ることを促されたため、仕方なく歩き出した。
良樹の片手には食べ終わったであろうポテチの袋が握られており、俺が指摘すれば彼は否定することなく、すぐ近くにあったゴミ箱に投げ入れる。そして良樹はエレベーターのボタンを押して俺を見た。
「面倒くさいな」
「え?」
「白石さんとの会話」
俺はすぐ隣にいる友人の言葉にギクッとした。その言葉は先ほど自分も思ったことだからだ。いきなり言われたその言葉に俺は何も言えずに上を見上げ、8の文字を示している文字盤を見てエレベーターは早く来ないのかと思った。
そんな俺を気にしていないのか、彼は真っ直ぐ前を向いたまま眠そうに欠伸をする。相変わらずのマイペースを貫く彼に、適当なのかそうじゃないのかと、今度は俺が呆れてため息をついた。
「あ、良樹。今日夕飯食ってくだろ?」
「おー、食ってくー」
ちょうどきたエレベーターに乗り込む。中にはすでに何人か乗っており、時間も時間だし恐らくみんなお見舞いの帰りだろう。そして俺はすでに押してある一階へのボタンを確認した。
昔から良樹は遅くまで俺の家にいた。それは良樹の両親も承知していることで、翌日が休みならば泊まっていっていたし、泊まらなくても夕飯は食べて帰っていたのだ。だから彼はいつも遊びに来る前にお泊りセットを持ってきていたり、夕飯を食べてくるということをは彼の親も認知済みなのである。今日は姉さんにも言ってあるから帰ったら3人分の夕飯ができているだろう。
「てかさ、もう姉さん帰ってきてるんじゃね?」
「んー、帰ってきてるかも」
1階につき、エレベーターを先に降りる。腕時計を確認すると6時を指していた。姉さんはいつもこれくらいの時間には帰ってくるため良樹の言ったとおりもう帰ってきているだろう。これより遅くなる事もあるが、その時は連絡が必ず入るため、今日はそんな連絡も着ていないことからこれは確実である。
「家から出てて大丈夫か?出るなとか言われてんじゃねーの?」
「………あ、」
昨晩の夕飯を思い出し、俺は背中にヒヤリとしたものを感じた。その瞬間携帯のはバイブが俺のポケットの中で震える。恐る恐る携帯を取り出し、画面を見ると”姉さん”の文字があった。
―――これは、やばい。
俺は助けを求めるように良樹を見やれば、思いっきり視線を逸らされる。そして諦めるというように肩を叩かれた。俺は諦めて電話を取る。
「那津、3コール以内で取りなさい」
「そんな無理な」
「文句でもあるの?」
「いいえありません」
「それで家にいないんだけど?」
「クロはいる、でしょ?」
「そのクロに夕飯あげといてって私頼んだよね?」
「あれーそうだったかなぁ…」
電話口から聞こえる淡々とした姉の声に冷や汗か止まらない。思わず歩みを止め両手で携帯を持つ。隣を見ると良樹は俺に憐れみの視線を送っていた。心の底から腹が立つ。
「良樹くんは?」
「あ、隣りにいます代わりますか?」
そういった瞬間の良樹の顔を俺はこれからも忘れないと思う。まさにこの世の終わりのような目をしていた。姉さんの説教が恐ろしいのは良樹も同じであり、昔よく一緒に怒られていたものだ。
「いやいい。那津」
「はい」
「昨日言ったこと覚えてるよね」
「………」
「那津」
「………はい」
「ゆっくり早く帰って来なさい?お説教はそれからね」
「了解致しました」
電話を切ると良樹は、先ほどとは売って変わり大丈夫かという目で俺を見ていた。それは恐らく自分の身を案じてのことだろうと思うと更に腹が立ってくる。少しくらい俺の身も案じてほしいものだ。
「帰ったら説教だって」
「お前だけだろ?」
「多分お前も」
「うっそだろ………」
大きくため息をつき絶望を口にしながらも、夕飯を食べずに帰るという選択肢がないところが不思議である。逃げるのなら自宅に帰るのが一番なのだから。そんなところも良樹らしいと思うくらいには俺達の付き合いは長いのだけれど。
オレンジ色に染まるバス停へと俺たちは急いだ。




