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色彩  作者: 蒼依ゆき
第二章
15/37

黒茶色

「おぉっし、改めて気合を入れなおしますか」



俺は病院の入り口で深呼吸をした。行き交う人々は俺を変な目で見ているが今はそんなこと気にしている余裕はない。なぜなら約一週間振りに白石さんに会うのだ、現在進行形で変な汗が止まらなくて困っている。


 俺は無意識に右肩から左腕の脇辺りで斜めにからっている小さめの鞄のチャックを開けたりしていた。初顔合わせではないのだから落ち着きたいものだと、内心気が気じゃないが冷静に自分に突っ込みながら自動ドアをくぐった。


 ―――確か、三階だったよな306号室。


 俺はエレベーターに乗ると3階のボタンを押し、まだ新しい一週間ほど前の記憶を手繰り寄せ、306号室へと向かう。番号を探さなくてもいいくらいには病室の場所を覚えている自信はあるため、迷う心配はないはずだ。そう思いながら3階で降り、記憶の中にある道を辿る。広めの廊下をまっすぐと行き、一週間前に白石さんと別れた場所についた。


 俺は一息ついてドアをノックした。そして返事は来ないと分かっているためすぐにドアを開ける………それがいけなかったのだろう。


 目の前の光景に目が奪われてしまって言葉を発するのを忘れてしまっていた。それほどに驚くべき光景が広がっていたのだ。



「んん?誰じゃ?」


「ま、孫です」


「わしの孫はもうちっと大きかった気がするがのぉ」



 ―――何言ってんの自分。


 首を傾げるご老人を放って、俺は一人パニックに陥る。咄嗟に浮かんだ〝孫〟という設定はものの見事に失敗しているため病室にいるご老人は訝しげに俺のことを見ていた。


 ―――え、待って。じゃあ白石さんはどこに!?


 そんなことは寧ろどうでもいい俺はもしかして退院したのかとか、俺の姉さんみたいな家族がいて退院前日に「明日、退院だからシクヨロ」とか言われたのか、なんて自分でも意味の分からない思考をしていた。


 ―――連絡先も知らないし、というかなんで入院中に聞いてないことにすら気づいてなかったの俺!…あぁ!病院内でかなり近い距離にいたからです!たしかに余裕ぶっこいてましたとも!!くそー!姉さん恨んでやる!!



「白石さんが性転換して老けた………」



 そして最後に出た決断がこれだった。もう俺の頭の中は真っ白である。白石さんがここにいない理由が馬鹿な俺には分からなかった。しかしご老人は白石、という名前を聞いて少し考えて思い出したかのように俺を見る。



「白石?あぁ、前にここにいた子だね」


「前?も、もしかしてもう退院…!?」


「どうじゃろなぁ…退院したとは聞かなかったなぁ」


「失礼しました!!」


「はっはっは、若いのぉ」



 勢い良くドアを開け、後ろの笑い声を無視して走った。折れた足と折れた腕を思いっきり振って。ズキズキと悲鳴を上げる骨を俺は余裕で無視をした。目指すは3階ナースステーション、あそこには俺も知っている看護師さんたちがいる。もし退院していたとすれば、看護師さんに聞けば全てわかるのだ。困った時のナースステーションである。


 すぐ近くにナースステーションはあるため、走ってきた俺は数秒足らずで到着した。パソコンを操作していた看護師さんが息を切らす俺を見て目を丸くする。丁度俺が入院していた時に俺の担当をしていた看護師さんだ。



「く、黒岩くん?足は良くなって………ないよね?」


「はい!痛いです!超!」


「だよね、無理しちゃダメって言ったでしょ?早く座って」


「いえ、いいです!ちょっと急ぎで聞きたいことが!」



 ズキズキと脈打つ治療中の足は確実に悪化した気がする。しかしそんなこと気にしている余裕はなく、心配そうに椅子を準備する看護師さんに詰め寄るようにして問いかけた。



「306号室の白石那津さん!どこですか!」


「し、白石さん?白石さんなら今は6階のお部屋に移動しているけど…」


「移動!?」


「大分よくなってたから最近部屋の移動が決まって、」


「っ、よかったー、」



 退院したわけではないと分かり、気が抜けた俺は受付の台の上に力なく突っ伏した。そんな俺の挙動不審感に看護師さんはついて来れないようで、訝し気に首を傾げるばかりだ。俺は突っ伏した顔を横に回し頬を冷たい受付台に当てて、お騒がせしましたと謝った。



「とりあえず、ギプスの具合見るから。もう走っちゃ駄目だからね」


「すみません…」



 俺は少し声のトーンが下がった看護師さんが、用意してくれた椅子の上に座り包帯の具合などを見てもらった。特に異常はなかったらしく、(ほど)けているところを直してもらう程度で大丈夫だったため良かったと思う。しかし今更ながら怪我がすごく傷んできた。特に足がかなり痛い、どうしようもなく。


 そして当たり前だが院内を走ったこと、怪我が治っていないのに走ったことを怒られてしまった。すみません、と謝った俺に看護師さんは飽きれたように笑って親切に白石さんの病室の場所を教えてくれた。


 看護師さんは俺が白石さんの部屋に通っていたことを知っていたため教えてくれたらしいが、普通なら個人情報であるため親族以外教えられないそうだ。看護師さんの優しさに感謝である。


 俺はお礼を言って、またエレベーターのところまで来た。先程走ってしまったせいで若干足を引きずってしまっているが松葉杖があるから安心である。そういう問題ではないけれど。


 俺は上のボタンを押し、エレベーターを待つ。


 ―――やっぱり今日、連絡先を聞いておこうかな。


 頻繁に連絡をしなくてもいいにしろ、こういう部屋移動とかがあった場合、連絡先を知っていた方が安心する。俺からメールとかしても目が見えない訳だから返事は書けないかもだけど、白石さんからの連絡なら受け取れるし。メール送れるかどうかの確認で無理って言われたらそこで終わりなわけだけど。


 エレベーターの扉が開き乗り込む。デジタル画面に映し出される数字をぼーっと眺めていれば6階にはすぐに着き、ゆっくりと降りて辺りを見回した。3階以外では屋上に一度だけと、一階の売店に行ったことはあるが、この階は初めてである。形は三階と同じようだ。


 俺は605号室を探すべく廊下を歩く。601、602……605号室はすぐに見つかった。


白石那津(しらいしなのつ)


 そこでやっと一息つく。本当にまだいる、それがすごく安心したのだ。退院していればそれが一番いいのだが不謹慎ながらも入院していることにひどく安堵してしまった。それからまた個室にいてくれたという事実にも安心する。共有とかでは知らない人も同じ部屋にいるためなんだか気恥ずかしい気持ちになるのだ。


 俺はもう一度デジタル画面に表示されている名前を確認し、ゆっくりとノックをする。耳を傾ける。返事はもちろんない。物音ひとつ聞こえなかった。そのため中に誰もいないことが分かったため、慎重に扉を開いた。


 サァっと風が吹く。どうやら窓が開いていたらしく、春の少し冷たい風が体を吹き抜けた。相変わらず広い個室に大きめのベッドが1つあり、どうやらこの部屋にはトイレとお風呂も設置してあるらしく入口横にもう2つ扉があった。


 その奥にあるベッドの上には窓の外を眺めている白石さんの背中が座っていた。ベッドの側面に腰掛け、視線が窓の外を向いているため本当は目が見えているのではないかと錯覚してしまう。しかし相変わらず俺の存在に気づいていないことから未だに音も聞こえず、何も見えない状態なのだろうと思った。呆けていた俺は我に返って白石さんのそばに歩み寄る。そしてその背中に手を伸ばし、優しく肩を二度叩いた。



「………あ、の、」



 ビクリと肩を揺らした白石さんがこちらを振り向く。その表情はとても無感情で、無意識に息が止まった。白石さんも驚くだけでいつもなら………一週間前ならば必ず「黒岩さんですか?」と不安げながらにも返事を聞くことができた。しかし今は声すらまともに聞けていない。


 ―――一週間の間で俺のことを忘れてしまったのだろうか?


 不安の波が押し寄せ、二人の間の時間は止まった。いや、白石さんの時間がいつまでも止まっているのだ。そこまで考えてやっと動き出すことができた。苦しくなった呼吸を整える。まるで自分の時間も止まってしまったような感覚に陥ってしまうほど白石さんの表情からは感情が抜けていたのだ。自分に向けられているのかと思うと息もできなかった。


 恐る恐る白石さんの前へ行き手を取る。窓が開いていたせいか手はすごく冷えていた。俺はそれを包み込むようにして白石さんの手のひらにゆっくりと「黒岩です」と書く。


 ピクリと小さな反応があった。


 それでも、まだ大きな動きが見られないためもう一度「く、ろ、い、わ」と書くと、白石さんはゆっくりと手のひらの方へと視線を移し、そして俺の方へと視線を移した。本人は見えていないのだろうがその瞳には俺が映っている。やっと合った視線にドキリと心臓が鳴った。これは初めてあった頃と同じ瞳だ。



「くろ、いわ………さん?」



 やっと聞けた彼女の声は弱々しい。俺が急いで手のひらに『◯』を書けば白石さんは力なく笑った。そして「久し振りですね」と言ってまた力なく笑ったのだ。


 なんでそんなふうに笑うのかは分からない。彼女に何があったかなんて、一週間も会っていなかった俺には分からない。最初から彼女のことは録に分からなかったけれど。でも俺は何があったのかなんて聞く気はなかった。この一週間、俺が毎日ここに来ていれば分かっていたことではあるが、知らないことへ俺が詮索することはない。


 外の光を反射する彼女の茶色の瞳が暗く輝いていた。なんだかこれ以上彼女を一人にしてはいけないような気がした。俺は無意識に震える手で白石さんの手を強く握ったのだった。

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