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色彩  作者: 蒼依ゆき
第一章
11/37

306号室、柳煤竹色。

―――今日は来なかったな。



 机の上に出された食事の温かさを肌で感じながら私は小さく呟いた。


 そんな私の呟きは隣にいた松川先生には聞こえていなかったようで、私の手を取っていつも通り今日の献立を書き始める。松川先生はとても丁寧に字を書いてくれるし、1人で食事を摂ることが難しい私のために毎食手伝いに来てくれるからとても助かっているのだ。


 たまに私の母親と父親も食事に同席しているらしいが、あまり関わることはない。たぶん私を見ているのが辛いのだと松川先生はおっしゃっていた。それに関しては私が記憶をなくしていることが悪いわけだし、仕方ないと思う。それに記憶がない分、悲しいとか寂しいとかそういう感情は湧き上がってこない上に、むしろ家族の存在を怖いと感じている自分がいるから。


だから今日の夕食も1人。松川先生がいるから2人だけどね。



「?先生、どうかされましたか?」



 すると夕食の献立を書いてくれていた松川先生の手がピタッと止まる。不思議に思った私は問いかけると、先生は手のひらをキュッと軽く握ってから離れていった。これは『待っていてね』という先生の合図みたいなものだ。何か問題があったのだろうか?


 1分くらいだと思うがその間は何もなく、ただ待っていた。どうしたんだろう。少し不安になってきたとき……肩を優しく2回、叩かれる。


 突然のことに少し驚いた。先生だと思って手を待機させていたから……それにこれって、



「くろいわさん?」



 そう問いかければそっと私の手をとり、『○』と書いてくれる。それがとても嬉しくて、今日は来ないのかなって思っていたからなおさら嬉しくって。


私の唯一の友人である、くろいわさん。


 今日はなんだか遅いな、まだ時間じゃないのかな。この間みたいに何かあって遅くなっているのかな。今って何時くらいだろう、いつも何時くらいに来てくれてるんだっけ。


 考えないようにしながらも、ずっとそんなことを考えていた。



「あの、」



 私が声をかけようとすると、握られている手に力が入ったことが分かった。今日は本当に何かあったのではないだろうか、もしそうだったら何があったのか聞いてあげたいなと思った。私はいつも聞いてばかりなんだけどね。


 しばらく何も言わずに私の手を握りしめる。それは何か言うのを躊躇っているみたいで少し不安になってしまう。だから何か声をかけようと思っても、何を言えばいいか分からないから何も言えない。



「た…?」



 しばらくしてから書かれた文字。私は聞き逃さないよう、手に神経を集中させた。ゆっくりと書かれるその文字の意味を理解するのは難しかった。



「ごめんなさい、もう一度いいですか?」



 私が申し訳なく思いながら言うと、彼女はまた書いてくれる。今度はさっきよりもゆっくり、はっきりと。


「た?………い………い………ん………?」



 〝たいいん〟やっと理解できたと思った文字は、先ほどと同じ形の文字。聞き間違いではなかったみたい。でも、たいいんってどういう意味だろう?


 私はあまりにも意味を理解できなくて自然と首が横に倒れていくのに気づかず『たいいん』の意味を考えた。やっぱりまだ手書き文字には慣れないなぁ。


 たいいん…タイイン…体、隊、鯛………たいいん…隊員………退………。



「え?」



『しあさって』



 やっと言葉の意味を理解時始めたときに続けて書かれた文字は、すんなり頭に入ってきた。誰が?なんて聞かなくても分かる。


 一単語ずつ紡がれる文字はとても喜ばしいことで、いいことだった。

だけど信じたくなくて、分からないふりをしたかった。だけどずっと前から分かっていたことでもあったから。



『いう おそくなって ごめん』



 明々後日、くろいわさんは退院する。今日を合わせてもあと3日しかない。


 特に面白いことも言えない私のところに毎日きて話をしてくれたが、それももう終わりなのだろう。永遠の別れではないとしても、退院してしまったらもう会えないような気がして怖く感じる。だって彼女はこれから元いたところに戻って本当の友人たちのところに行ってしまうのだ。入院生活の少しの暇つぶしだったかもしれない私の存在なんて忘れてしまうに違いない。そう考えるととても苦しくなった。


 利用してもいいから、私を1人にしないで。必要として。

そんな考えが脳裏に浮かぶ。そんなこと考えてもいないのに。


 ボーっとしている私の肩が少し強く揺さぶられる。そこで我に返り、くろいわさんに肩を掴まれていることに気付いた。優しく掴まれていた肩はなぜかジンと痛んだ。


 もう一度握りなおされた手のひらに1文字1文字伝わるようにと書いてくれた言葉。そのたったヒトコトに私はまた優しさをもらった気がした。



〝またくる ぜったい〟



 それはまた私のところに来てくれるという言葉。私の勘違いでなければ絶対来てくれるっていう約束だ。思わずこぼれた笑み。ニヤケてしまう顔。ゆっくりと離された手は優しい熱を帯び、先ほどまでの不安はなかった。


―――すごいな。


 まるで私の心を読んでいたかのように私を安心させてくれた。本当に病院だけの付き合いで会えなくなってしまったらどうしようと思っていたから、単純に嬉しい。まだ友達だよって言ってくれているようで、本当に。


 なぜこんなにも寂しさを感じたのかはわからないけど、きっとくろいわさんが私の中で大切な存在になっていたのだろう。記憶のない私の唯一の友人だしね。


 そして次に私の手を取ったのはいつも通り松川先生だった。本当に一瞬の出来事で、もう少しお話しできたらいいなって思うけど、今は夕食の時間だし、それはあっちも同じなわけで。私が普通の人みたいにスムーズに会話ができればもう少しお話ができたのになって思った。



「そんなこと初めて思ったかも」



 ポツリとそう呟いて、私は夕食の続きを先生と摂る。

 電気の明かりがまぶた裏で少し眩しく感じた。

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