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 犯人。その姿を見た途端、私の身体は針金に巻き付かれたように固まってしまった。「逃げろ」と言う本能と、「逃げるな」という本能が頭の中でせめぎ合っている。あの刀が怖いんだよ刀が。生きているだけあって命は惜しい。さっき男の子に声をかけた時点であいつにはもう私の存在は気付かれているのだろうか。私は犯人の影をじっと見つめた。月光を背に屋根の上に立つ影がゆっくりと腰かけた。刀は右手に持ったまま。足を組んでいる。


 遠くからサイレンの音が聞こえる。その方向を見ると不安を誘う赤い光が見えた。警察だ。誰が通報したのかは知らないが、あの犯人を捕まえに来たのだろう。犯人がその方を向く。警察の襲来にも動揺していないように見えた。そしてもう1度前に向き直った。月光の角度が変わって、代わりに犯人の眼光が私の目に届く。背中に冷やしたビー玉を入れられたような感覚がした。それが冷や汗だと分かった頃には、私の身体は浮いていた。


「おい、どこまで引っ張っていく気だ!」


 犯人の背中が、所々はねたロングヘアーが上下に動く。確かに女だったようだ。女は私の胸ぐらを片手でつかみながら電信柱や人家の屋根の上を渡っていく。人間業じゃない。一体何を食べればこんな身体能力がつくんだ? 足は普通のスニーカー、紺色の地に赤いひもがかかっている。子供の頃夢に見たようなバネがついたものだったりはしない。


 一体どこへ連れていかれるのか。女は私の方も下も向かず、ただ前を見つめていた。高台からは下りていないようだ。この高台は頂上のあたりがかなり開けている。家もそれなりにあるし、緑豊かな公園もある。この女が隠れる場所は多くある。

 

 サイレンの音が消える代わりに、がれきの山を切り崩したような足音が聞こえる。下の路地を見ると重々しい装備をした警官たちが私たちを追っているようだった。地域住民の迷惑じゃないのか。随分と大仰だなと、犯人に捕まっている側ながらに思った。だが警官たちは着実に私たちの真下に近づいていた。

 

 犯人が初めて下を見た。犯人が舌打ちをして、唾の粒が私の頬にかかる。その直後、女が急降下して小さな人家に突っ込んだ。ガラスの窓を肘でかち割り、その勢いのまま部屋の床に叩きつけられた。ほこりが宙に舞い、私の鼻を刺激した。


「へっくし! 痛っつ……」


「静かに」


 女が私に大きなペンチを突き付けた。ゴムの取っ手もついていない、刀鍛冶が使っているようなペンチだ。


「これ以上騒ぐと、舌を抜くわよ」


 女が私の唇にペンチの先をつける。私は首を縦に2回振り、服従の意を示した。女の顔が間近に迫る。縁の厚い眼鏡をかけている。レンズの奥から私を覗く目は水銀のように光っている。


 どうもこの家は人が住んでいるらしく、下で警察と住民が会話しているのが聞こえる。ただ話を聞いてみると、こんなに派手に窓を割って入ったのにもかかわらず、住民は気付いていないようで、むしろこんな夜遅くの警察の来訪にいらだっているようだった。


 住民がしぶしぶ家の中を調べる許可を下ろした。ここは3階建ての建物の最上階で、物置として使われているらしい。住民は「3階の部屋」とは言わず「物置」と呼んでいた。確かに段ボールや何か物の入ったビニール袋が辺りに散らばっている。


 警察が階段を上る音が聞こえる。女の息が荒くなっていた。歯をきしませ、息がハト派の間からしゅーしゅーと漏れる。私もこの部屋の入り口を見ながら心臓を高鳴らせていた。警察に見つかるのは、生きている分、私も都合が悪い。死んでいようが生きていようが、彼らは容赦しない。


 ――見つかるわけにはいかない。


 自己防衛本能だった。辺りを見回し、大きなふすまの中にすき間を見つけると、女を抱えてその中へ飛び込み、近くにある段ボールを自分たちの周囲に積み、自分の上にも積み、ふすまをピシャリと閉めた。


 扉を荒々しく開ける音が聞こえた。警察が部屋の中に入ってきた。


「なるべく早く探せ。家主怒ってるから」


 そんなか細い声が聞こえる。家主相当面倒くさがりなんだな。不幸中の幸いというか、家主の性格に救われるかもしれない。とはいえふすまの外は床にあるものを移動させる音が絶えず鳴り響いている。女がかすかにふるえているのが分かった。女を自分の胸に寄せる。自分の心臓の鼓動がどんどん増しているのが女の身体越しにわかった。


「へ……」


 女の口から不意に息が漏れた。女の口をふさごうと手をかけた瞬間、ふすまが勢いよく開けられた。


「…………!」


 私と女の吐息が止まる。女は身体を小刻みに震わせ、私の身体も鼓動に合わせて脈打っているような感じがした。


「……異常なし」


 警察がそう言ってふすまを閉め、部屋を出ていった。階段を下りる音が徐々に私に安堵感をもたらす。


 周囲にある段ボールをどけ、女を身体から離した。もともと汚いコートにほこりがべったりへばりついている。


「あーきったねえ。コインランドリー行く金あったっけ……」


 手でほこりを払い落とす。女はまだ床に伸びていた。その顔は疲れているわけでもほっとしているようでもなかった。強いて形容するなら――驚いている、だろうか。


 女の目が私の方を向く。


「あなた……」


「何だよ」


 女が口をパクパクさせ、唾をゴクリと飲み込んだ。


「生きてるの?」


「……おう」


 女がもう1度唾を飲む。


「初めて見た……」

「俺の周りには、結構いるけどな」


「そうなの……?」


「まあな」


 女が起き上がって身体に着いたほこりを払う。


「お前も、生きてるんだろ?」


「うん」


 私と女は音を立てないようにふすまを出た。女が私の目を見つめる。


「あなた、名前は?」


「盛郷正継」


「歳は?」


「36」


「連れてって」


「は?」


「私を生きている人たちがいる場所に連れてって。お願い」


 女が軽く頭を下げて上目遣いで私の目を覗いてきた。乾いた目で、淡々と。


「まあ、かまわん」


「ありがとう」


「ただ、あの窓から飛び降りるのは勘弁だぞ」


「私が持って行ってあげるよ、ほら」


 女は私をひょいと抱えた。世間の言うお姫さま抱っこである。こんなことされるのは初めてで、何より男女の立場が逆ということもあって、何だかこっ恥ずかしい感じがする。


「じゃあ、飛びまーす」


「え、うおっ!?」


 女がダン! と割れた窓の枠を踏み込むと、私の周りの風が押し流され、身体に大きな圧力がかかる。ビルの6階くらいの高さだろうか、そのくらいまで私と女は飛び上がっていた。


「そういやお前のこと何も聞かされてねえぞ。お前何者だ?」


「ああ、そうね。言ってなかったわね」


 女は無限の奥行きのある空に視線をやった。


「坂褒木ウエノ。22歳」


 身体がふわりと浮いた。下降に転じたようだ。


「よろしく。盛郷さん」


 上に持っていかれようとする私の身体を坂褒木は両手でしっかり押さえつけている。


「おう、坂褒木、お前どこから来たんだ? 身寄りは無いのか? 何であんなことしたんだ?あの日本刀は何だ?」


「そんな一気に質問しないでよ。順番」


「じゃあ、どこから来たんだ?」


 坂褒木はアスファルトで固められた道路を見下ろした。そして、私の目を見て笑う。


「地獄」


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