始まり編1
灰色の外壁に所々ヒビが入ったような年季が入った6階立ての小さなビル。その4階の一角には『岡崎探偵事務所』がある。
室内は、扉の前の空間にテーブルを挟んでソファが置かれ、反対の窓側は壁側に一ずつ机を置いていた。
その机には、それぞれ人が座り作業をしているのだが、表情は対照的だ。
右側の深い色合いの木製アンティーク机を使う岡崎 陣は鼻歌を歌いながらパソコンの画面を眺めている。
一方、左側のスチール製の机を使う明智 邦太郎は領収証の束と電卓を目の前に広げ睨みつけていた。
計算しても計算しても、同じ答えにしかならない。
分かってはいたのだ。
今月が、赤字だということは……
何しろ、3件しか依頼を受けなかった。
ガシガシと髪をかき乱して落ち着こうと思うが、うまくいかない。
そんな中、岡崎が弾んだ声で言った。
「ねえ、明智君。今度、温泉行こうよ、温泉。今見てみたんだけど、なかなかいい旅館なんだよね。古き良き趣があっいてててて……痛い、痛いって明智君!」
ついイラついて岡崎の耳を思いっきり引っ張ってしまったのは致し方ないことだろう。
赤字なのはこいつのせいなのだから。
「あんたが依頼をえり好みするせいで、赤字なのにどこに温泉なんて行く余裕があるんだよ。まったく、下らないことを検索して無駄に時間と電力を消費する前に単発のバイトでも探してきてくれませんかね?」
「違う、誤解だよ明智君。僕が個人的に行きたいといっているわけじゃなくてね、いや、温泉には確かに行きたいけど」
「先生、今月の家賃稼いでくるまで遊ぶ暇はありませんよ」
「すごいいい笑顔で、拳を振り上げるのは止めてくれたまえ」
ドンと足を踏み鳴らし、拳をすこし振り下げる真似をして威嚇する。
「ひいぃ。と、とりあえず、落ち着いて……」
「これが落ち着いていらいでか! 最近、よく仕事でもないのに出かけて金は浪費するわ。挙句の果てに温泉まで行きたいだと!? はっ笑わせる。ろくに働かねぇ人間に、遊ぶ権利あると思ってんですか? 人権あると思ってんですか?」
「明智君、それはいくら何でも暴論と言うものじゃないかな。人権くらいは認めてくださいぃぃ。……じゃなくて、遊びではないんだよ。仕事なんだ、仕事」
「俺は、そんな話し聞いてませんけど」
「ちょうど君が晩御飯を買いに行ってくれているときに来られてね。温泉に行けるって言うから受けちゃった」
てへっとでも後につづけそうなその口調にイラッとした明智はまた怒鳴った。
「男がそんな口調で言ってもかわいくねぇんだよ!」
「ご、ごめん。明智君。なんだか、今日は怒りっぽいね。もしや、生理前?」
「はあ?」
「違うよね。そうだろうとも。うん。もう、怒んないでよ。こう、なんていうか、軽い冗談だよ。場の空気を和やかにしようと思ってのだね」
「そういう、変な気遣いは無用なので仕事内容とっとと吐いてもらえます?」
「……はーい」
今回の仕事はちょっと変わった浮気調査だ。
浮気調査をすることが変わったことなのではない。仕事としては一番よくあるものだ。
変わっていると言うのは、調査する期間と言うか場所にある。
6月27日に旅館に行き、依頼人の旦那が愛人と会うことがないか見張ると言うもの。
その旅館に泊まる3日間だけでいいらしい。
どう考えても怪しい。
俺だったら、受けなかった。明智はそう思いながら岡崎の顔を伺う。
先ほど怒ったのが効いているのかチラチラとこちらの様子を伺うその様は情けないことこの上ないが、岡崎は馬鹿ではない。
何か考えでもあるのだろうか。
明智は岡崎をじっと見ながら眉間に皺を寄せた。これは彼の考えているときの癖だった。
「明智君、まだ怒っているのかい?」
「え? ああ、違いますよ。少し考え事をしてただけです」
人差し指で眉間の皺を伸ばしながら答えた。
「もう怒ってない?」
「しつこい。その上、聞き方が気持ち悪いです」
「……明智君。僕、泣いてもいいかな」
机に突っ伏しうぅ~と唸っている岡崎の姿は、やはり気持ちが悪いなと明智は思った。