*清く正しく
志保はそれから、影から匠たちを監視していた。
そんなとき──顔に絆創膏を貼った健を目撃し、志保は足早に駆け寄る。
「どうしたのこれ」
「あ、志保先生こんちは」
「挨拶はいいから」
「? 稽古でヘマしちゃっただけです」
「稽古? あなた部活には入ってないわよね」
「匠んちの親父さんに稽古つけてもらってます」
「!」
そういえば彼の父親は元自衛官だったわ。
しかし怪我をさせるなんて、適切な教えをしているのかしら……と小さく唸る。
そうと決まればさっそく──とばかりに放課後、志保は匠の家を訪ねた。
「……」
そこは学園から歩いて10分ほどだろうか、住宅街の路地に足を向ける。
『バルトグラス』と書かれた看板を見下ろし、品の良い木の扉を見つめた。
この時間はまだ準備中なのか、扉は固く閉ざされている。
来たからには少しでも彼の内情を知らなければ……とは思いつつ、なかなかドアを叩けずにいた。
「うちにご用かしら?」
上品な女性の声が聞こえ振り返る。
すらりとした体型に整った目鼻立ち、背中に流した黒髪は艶を帯びどこからどう見ても「美女」と呼ぶに相応しい人物だった。
40代だと思われるが、その歳でなければ決して滲み出ない大人の色気を醸し出している。
「え、あの……その」
突然の美女に志保は声を詰まらせる。
「匠の学園の方かしら」
「は、はいそうです。保険医をしている南 志保と申します」
「! 保険医?」
深々と頭を下げた志保に眉を寄せた。
「匠が誰かに怪我をさせましたか?」
「あ、いいえ! 違います。その、城島 健くんのことで」
「? 健くん?」
志保は、まだ開店前の店内に促されカウンターに腰を落とした。
「どうぞ」
「あ、どうも」
差し出されたグラスに会釈する。
「少しの怪我は仕方ありませんわ、体術の稽古ですもの」
「し、しかし。安全なんですか?」
「主人はしっかり安全性を確認したうえで稽古をつけておりますわ。それに、多少の痛みを感じなければ精神の鍛錬にはなりませんもの」
うっ、ごもっともな意見だ。
「しつけと体罰と稽古は似ているようでまったく異なるものですわ。そもそも稽古ではないものを匠が認めたりしませんもの」
「!」
母親は息子に絶対の信頼を寄せているようだ。
「もうすぐ主人が帰ってきますわ。何かお聞きになりまして?」
「い、いいえ! これで充分です。ありがとうございました」
志保は慌てて席を立った。
「お? 客か?」
「ヒッ!?」
入り口で長身の男にぶつかりそうになる。
白髪交じりの短髪に引き結んだ口、がっしりとした体型に全身から放たれる威圧感に思わず引き気味に小さく声が出た。
「おかえりなさい、あなた。匠の学園の保険医さんですって」
「! 匠が怪我でもしたのか?」
「いっ、いいえ! 違います! それでは今日はこのへんでっ」
「なんだ?」
逃げるように駆けていく女性の背中に首をかしげた。
「怖がらせちゃだめよ」
クスッと笑みをこぼし、すみれは店に入っていった。
その夜──
「! みなみ女医が?」
「ええ」
カウンターの端でやや目を丸くした匠に、夕飯のロコモコを差し出しながら母のすみれが頷く。
「保険医のお仕事に熱心なのかしらね。健くんの怪我が気になるなんて」
上品に笑う母に、匠はにこりと応えた。
午後8時になった店内はすでに賑やかで、客の笑い声が響き渡っている。
「奥の佐藤さん、あと1杯で終わりにした方がいいね」
食べ終わった匠が肘を突いて口角を吊り上げた。
ジュースをコップに注ぎに来た父が息子の言葉に奥を見やる。店内には、カウンターの他に奥にはテーブル席と座敷席がある。
その座敷席に数人の男性が会話と料理を楽しんでいるのだが、そのうちの1人に駅前商店街の中に店を構える佐藤さんがいた。
ベビーグッズを販売している店だ。
「おう、そうか」
昭人は応えてカウンターに戻っていく。
父が店の経営を始めてから、夕食のほとんどをカウンターで済ませているためか、匠は自然と客の飲酒上限を覚えてしまった。
佐藤さんは飲み過ぎると他の客にまで絡んでしまうクセがあり、それによるもめ事をいくつか起こしている。
そういう時は、必ず匠がいない。
嫁さんが怖いのか、佐藤さんは9時前には家に戻るのだ。それまでに限度を超える佐藤さんは酒が弱い。
なのに飲むから絡み酒になるという結果なのだが、とにかく今日はちゃんと家に戻れそうだ。
ジュースを飲み干した匠は、自室がある階段を上っていった。