王立婚約管理局
王都の春は華やかだ。
王立学園の卒業記念パーティーには、王族から大貴族まで勢揃いし、若者たちは未来への期待を胸に着飾っていた。
だからこそ、その瞬間は誰もが忘れられないものとなった。
「エレノア・フォン・ローゼンベルク! 私は君との婚約を破棄する!」
会場中が静まり返る。
壇上に立つのは、この国の第一王子レオナルド。
指を突き付けられたのは、公爵令嬢エレノア。
完璧な淑女として知られる女性だった。
「殿下……」
「私は真実の愛を見つけたのだ!」
王子は高らかに宣言した。
そして隣に立つ一人の少女の肩を抱く。
「私が愛するのはリリアナ・フォン・ウェストンだ!」
会場の視線が一斉に集まる。
子爵令嬢リリアナは目を丸くした。
「えっ」
「リリアナは身分差にも負けず、懸命に努力する素晴らしい女性だ!」
「えっ」
「私は彼女と結ばれる!」
「えっ」
どうやら本人も聞かされていなかったらしい。
エレノアは一瞬だけリリアナを見た。
子爵令嬢は青ざめ、今にも泣きそうな顔をしている。
その反応だけで十分だった。
少なくとも、この騒動を仕組んだ黒幕ではない。
むしろ被害者側だろう。
エレノアは小さく息を吐いた。
「承知いたしました、殿下」
そして優雅に一礼する。
怒りも悲しみも見せない完璧な所作だった。
会場の貴族たちはざわついた。
誰もが修羅場を期待していたのに、公爵令嬢はあまりにも冷静だったからだ。
「エレノア嬢が怒らないなんて……」
「まさか受け入れたのか?」
「いや、それにしては落ち着きすぎている」
ひそひそと囁きが広がる。
しかしエレノア本人だけは理解していた。
この場で感情的になったところで何も解決しない。
何より――。
(婚約破棄など、殿下の一存で成立するものではありませんのに)
王族と公爵家の婚約は国家規模の契約だ。
卒業パーティーの壇上で叫んだからといって消えるようなものではない。
明日になれば、現実を教えてくれる人間がいるだろう。
たとえば。
王立婚約管理局あたりが。
王都中央区。
王宮外郭庁舎第三棟。
そこには王国でもっとも地味で、もっとも恐れられる役所が存在していた。
その名も――王立婚約管理局。
貴族間の婚約登録、婚約変更、婚約解消。
さらには結婚予定日の管理まで行う特殊機関である。
王都の貴族たちから密かに「恋愛より書類を愛する者たち」と恐れられる役所だった。
貴族社会は契約社会だ。
婚約は恋愛ではなく法的契約でもある。
ゆえに婚約破棄にも正式な手続きが必要だった。
感情だけでどうにかなる話ではない。
「次の方どうぞ」
窓口の女性が顔を上げる。
伯爵令嬢クラリス・フォン・アシュベリー。
二十二歳。
王立婚約管理局勤務。
信条は一つ。
契約は人を守るためのもの。
クラリスは規則を誰よりも愛していた。
そこへ勢いよく扉が開く。
「来たぞ!」
第一王子レオナルドだった。
後ろには側近たち。
なぜか得意満面である。
「婚約破棄の手続きだ!」
「承りました」
クラリスは微笑んだ。
「必要書類をご提出ください」
「書類?」
「はい」
王子は眉をひそめた。
「婚約破棄だぞ?」
「はい」
「昨日宣言した」
「卒業パーティーですね。存じております」
「だから婚約破棄だ」
「手続きが完了しておりませんので、現在も婚約中です」
沈黙。
「……何?」
クラリスは慣れた手つきで机から冊子を取り出した。
分厚い。
辞書くらい厚い。
「王立婚約管理法第三章第二節。婚約解消申請についてご説明いたします」
「説明はいらん」
「必要です」
「なぜ」
「規則ですので」
王子の顔が引きつった。
「まず婚約解消申請書」
「ない」
「双方の署名」
「ない」
「保証人二名」
「ない」
「家門承認印」
「ない」
「資産分割確認書」
「ない」
「共同事業精算書」
「そんなものあるのか!?」
「ございます」
クラリスは淡々と答える。
「公爵家と王家の共同投資事業が七件ございますので」
「知らん!」
「知らなくても存在はします」
正論だった。
王子は言葉に詰まる。
「なお婚約期間が十年以上ですので」
「そうだが?」
「解消慰謝料算定資料も必要です」
「慰謝料!?」
「はい」
「なぜ私が払う!」
「婚約破棄を申し出た側だからです」
「そんな馬鹿な!」
「法令第五十二条です」
クラリスは即答した。
もはや反射である。
「公爵令嬢側に重大な契約違反が認められない場合、破棄申請者が補償責任を負います」
「契約違反ならある!」
王子は勢いよく言った。
「エレノアは冷たい!」
「記録します」
クラリスが羽ペンを走らせる。
「申請理由。『冷たい』」
「そうだ!」
「具体的には」
「……」
「いつ」
「……」
「どのように」
「……」
王子は黙った。
クラリスは待った。
窓口職員として実に模範的な対応だった。
「ございませんか?」
「......ない」
「では主観的感想ですね」
「そうなる」
「契約違反には該当いたしません」
ばっさり切り捨てられた。
王子の側近が助け舟を出す。
「で、ですが! 殿下には真実の愛が!」
「添付資料をお願いします」
「添付資料?」
「真実の愛証明書です」
「そんなものあるのか!?」
「ありません」
「ないのか!」
「ですので提出不要です」
クラリスは真顔だった。
側近は敗北した。
「本日は以上でしょうか?」
「……一度出直す」
王子は不機嫌そうに立ち上がった。
側近たちも慌てて後に続く。
その背中を見送ってから、クラリスは机の上の書類を整えた。
すると別の職員が近付いてくる。
「クラリス様」
「何でしょう」
「ローゼンベルク公爵令嬢がお待ちです」
「応接室ですね」
「はい」
クラリスは頷くと席を立った。
そして応接室の扉を開く。
そこではエレノアが優雅に紅茶を飲んでいた。
「お待たせいたしました」
クラリスはエレノアの向かいに腰を下ろした。
エレノアはティーカップをソーサーへ戻す。
「状況はいかがですか?」
「書類不備です」
「でしょうね」
エレノアは微笑んだ。
まったく動じていない。
「実は今朝、公爵家にも連絡が来ました」
「婚約破棄についてですか」
「ええ。父が大笑いしていましたわ」
「それはまた」
「殿下は婚約を恋人関係くらいに考えていらっしゃるようです」
「契約ですが」
「契約ですわね」
二人は意見が一致した。
そこへ別の職員が駆け込んでくる。
「クラリス様」
「何でしょう」
「リリアナ様がお見えです」
応接室に通されたリリアナは半泣きだった。
職員に促され、彼女はクラリスの隣の席へ腰を下ろした。
公爵令嬢であるエレノアの隣は空いていたが、さすがにそこへ座るほど無作法ではないらしい。
差し出された紅茶に口を付ける。
一口、二口。
ようやく少しだけ落ち着いたのか、リリアナは震える息を吐いた。
「あの……私、何も知らなくて……」
「そうでしょうね。昨日の反応で分かりました」
エレノアが優しく言う。
「本当に突然で……」
リリアナは肩を落とした。
「殿下は私が好きだと仰るのですが」
「はい」
「私、告白もされてなくて」
「はい」
「そもそも数回しか話したことなくて」
「はい」
「好きと言われても困るんです……」
クラリスはメモを取った。
職業病だった。
「参考になります」
「何のですか!?」
「後ほど説明いたします」
クラリスは手帳を閉じた。
その表情は変わらなかったが、何かを整理できたようだった。
数時間後――。
王子は再び王立婚約管理局を訪れていた。
朝の勢いはすっかり消え失せ、すでに疲労困憊である。
「つまりだ」
「はい」
「書類が揃えば婚約破棄できるのだな」
「はい」
何度も確認した内容だったが、王子はなおも念を押した。
「そしてリリアナと婚約できる」
「いいえ」
即答だった。
「なぜだ!」
「婚約には双方の同意が必要です」
「当然ある!」
その言葉に、クラリスは静かに視線を横へ向けた。
「確認いたします。リリアナ様」
「はい!」
「殿下との婚約を希望されますか?」
リリアナは勢いよく首を振った。
「してません!」
「だそうです」
「なっ……!」
王子が固まる。
「リリアナ!」
「殿下! 私、告白もされてません!」
応接室の空気が凍り付いた。
「昨日初めて好きだと知りました!」
「……」
「というか勝手に肩を抱かれて怖かったです!」
王子の顔色が変わる。
周囲の側近たちも気まずそうに視線を逸らした。
クラリスは静かに書類を閉じる。
「なるほど」
「なるほどではない!」
「整理いたします」
王子は嫌な予感を覚えた。
だが、婚約管理局の職員は容赦しない。
「まずエレノア様との婚約は継続中」
「……」
「婚約破棄申請は書類不備」
「……」
「リリアナ様との婚約は未成立」
「……」
「そしてリリアナ様からの好意確認も未了」
王子は何か言おうとして口を開いた。
しかし、その前にクラリスが結論を述べる。
「つまり」
一拍。
婚約管理局職員らしい、完璧な確認口調で。
「片想いですか?」
静寂が落ちた。
リリアナは両手で顔を覆い、側近たちは揃って視線を逸らす。
エレノアに至っては、危うく紅茶を吹き出しかけていた。
ただ一人。
レオナルドだけが真っ赤になっている。
「か、片想いではない!」
「現時点ではそのように判断されます」
クラリスは迷いなく答えた。
「違う!」
「では両想いですか?」
クラリスの問いに、王子は言葉を詰まらせた。
反論しようにも、その証拠がどこにもない。
代わりに向けられた視線を受け、リリアナが小さく首を振る。
「違います」
「承知いたしました」
クラリスはさらさらと記録を書き加えた。
その瞬間。
第一王子レオナルドの主張は、婚約管理局の記録上、完全に整理されたのである。
* * *
数日後。
王立婚約管理局に正式な書類一式が提出された。
提出者は第一王子本人ではなく、王家の法務顧問であった。
もっとも、その書類によって婚約破棄が成立することはなかった。
王家と公爵家による協議の結果、婚約は継続。
そしてレオナルドには長期間の再教育が命じられたのである。
リリアナは無事に学園を卒業した。
本人にしてみれば、ある日突然「真実の愛」の相手にされた挙げ句、婚約管理局で公開確認までされたのだから無理もない。
卒業後は家族の勧めもあり、今度こそ誠実な婚約者を探すことにしたらしい。
少なくとも、卒業パーティーで突然婚約破棄を宣言するような相手はお断りだそうだ。
一方のエレノアは婚約を解消しなかった。
もちろん思うところがなかったわけではない。
だが、幼い頃から共に育ち、未来の王と王妃になるため学んできた年月まで消えるわけではなかった。
そして何より――彼女はレオナルドを嫌いになれなかった。
「殿下は昔から、思い込むと周りが見えなくなる方でしたから」
そう言って苦笑するエレノアの表情は、どこか優しかった。
再教育期間中、彼女は何度もレオナルドに付き添った。
婚約者として、そして一人の幼なじみとして。
当のレオナルドもまた、今回の一件で自らの未熟さを思い知ったらしい。
何より、エレノアがどれほど自分を支えてくれていたのかを、初めて真剣に考えるようになったのである。
結果として。
遠回りはしたものの、二人の関係は以前より少しだけ良好になった。
少なくとも、婚約管理局が介入するような騒動は起こしていない。
ちなみに第一王子はその後も何度か婚約管理局を訪れた。
主な目的は恋愛相談だった。
「エレノアが何を考えているのか分からないのだが」
「婚約管理局は恋愛相談窓口ではございません」
「どうすれば機嫌が良くなると思う?」
「婚約管理局は恋愛相談窓口ではございません」
毎回追い返されたという。
そして今日もクラリスは窓口に座る。
婚約を結ぶ者。
婚約を解消したい者。
感情のままに突っ走る者。
様々な人々が訪れるが、規則だけは誰に対しても平等だ。
「次の方どうぞ」
差し出された書類に目を通し、クラリスは静かに頷く。
「不備はございません」
契約は人を守るためのもの。
だからこそ手続きは大切なのだ。
婚約破棄にも、必要書類がございます。
― 完 ―




