EP53『それだけで十分だから』
目が覚めたのは、朝の六時だった。
隣にメルがいた。起きているのか眠っているのか、わからないくらい静かに横になっていた。
未来はしばらく天井を見ていた。目がまだ少し痛い。昨夜泣きすぎたせいだ。
零のことを思った。
私はまだ少し怒っている。でも昨夜より、ずっと軽くなっていた。メルのおかげだ。
「起きましたか?」
メルが静かに言った。やっぱり起きていた。
「うん。ごめんね、付き合わせて」
「いいえ」
メルは未来を見た。
「今日、出発ですね」
「うん、ってメルちゃんも来るの?」
「お父様には話しておきましたよ」
「たくましくなったね」
未来は起き上がった。窓の外、造られた照明がいつも通り白く灯っている。
「私も零ちゃんに謝らなきゃ」
「未来ちゃんは偉いですね」
「言いすぎたしね……」
メルは少し考えた。
「謝るより先に、言いたいことを言った方がいいと思いますよ」
「言いたいこと?」
「昨夜、言えなかったこととか」
未来は少し間を置いた。
「……そうだね」
***
食堂には、まだ人が少なかった。
未来はメルと向かい合って座っていた。パンを千切りながら、ぼんやりと考えていた。
零のことだ。
メルのおかげで、少しだけ整理できた気がする。
謝らなきゃ、と思う。言いすぎた部分もあった。でも、言いたいことはちゃんと言いたい。
――どう切り出せばいいんだろう。
「未来ちゃん、スープが冷めちゃいますよ」
メルが静かに言った。見ると、手元のパンが細かくなっていた。
「……考えごとしてた」
「灯火看守さんのことですよね」
「そう」
未来はため息をついた。
「どう話しかければいいんだろ」
「いつも通りでいいと思いますよ」
「いつも通りか……」
簡単に言うなあ、と思った。でもメルが言うと、なぜか信じられる気がした。
その時、食堂の扉が開いた。心臓が脈打つ。やはり零だった。いつもこの時間には、この三人しかいない。
トレイを持って入ってきた零は、未来に気づいた。一瞬、二人の視線が交差した。
零は何も言わなかった。未来も何も言えなかった。零は少し迷うような素振りを見せてから、未来たちの近くの席にトレイを置いた。離れすぎず、近すぎない距離だった。
食堂に、微妙な沈黙が漂った。
未来はパンを口に運んだ。あまり味がしなかった。
零はスープを啜っていた。いつも通りの表情だった。でも、目の下にうっすら隈がある。
お互い眠れなくて、お互い気まずくて、それでも同じ食堂にいる。
「……零ちゃん」
気づいたら、声が出ていた。
零がこちらを見た。
「目の下、隈あるよ」
零は少し間を置いた。
「……よく眠れなかったんだよ」
未来は思わず笑った。笑うつもりじゃなかったのに、彼があまりにも素直だから。
「柄にもなく素直じゃん」
零も、口の端がわずかに上がった。
メルは紅茶を静かに口に運んだ。その表情は、穏やかだった。
笑ってから、少し気まずくなった。でも、昨夜よりずっとましだった。
零はスープに視線を戻した。未来もパンに視線を戻した。
メルは何も言わなかった。ただ、静かにそこにいた。
しばらく三人で黙って食べていた。食堂に玻璃や妖狐たちが入ってきて、少しずつ賑やかになってくる。
今だ、と未来は思った。零ちゃんが立ち上がる前に話さなければ。
「零ちゃん」
未来はご飯の皿を持って零の前に立った。
「……どうした?」
零はこちらを見た。
「昨夜、言いすぎた。ごめん」
零は少し間を置いた。
「俺も、色々と間違えた」
「うん、知ってる」
未来は零を見た。零も未来を見た。
「ねえ、一個だけ聞いていい?」
「なんだ」
未来は少し息を吸った。
「私は零ちゃんにとって何なの?」
食堂の賑やかさが、遠くなった気がした。零はしばらく黙って、冷めたスープを見ていた。それから、未来を見た。
「一番、信頼している人間だ」
未来の胸の奥が、じわりと熱くなった。
「……それだけ?」
「今はそれだけだ」
今は、という言葉が耳に残った。
「……そっか」
それだけで、十分だった。十分じゃないかもしれないけど、今は十分だった。
「零ちゃん」
「なんだ」
「今日も、隣にいていい?」
零は少し間を置いた。
「……もちろん」
それだけだった。でも、それで十分だった。
メルは紅茶のカップを静かに置いた。その口元に、小さな笑みが浮かんでいた。
食堂の賑やかさがまた戻ってきた。




