EP52『合理ではどうにもならぬ物』
零は少し間を置いてから、未来の部屋の扉をノックした。
「……誰」
「俺だ」
返事がなかった。しばらく待つと、鍵が開く音がした。扉を開けると、未来はベッドに座っていた。膝を抱えて、こちらを見ていた。目が少し赤い。
零は部屋に入り、扉を閉めた。
「怒ってるよな」
「当然でしょ」
「……そうか。だが、聞いてくれ」
零は続けた。
「今回の判断は合理的だった。緋華のカースの特性上、アネモネと当てることで暴走を引き出し、自分で止める経験をさせる必要があった。未来を使えばより安全だったかもしれないが、お前には別の役割があった」
未来は黙っていた。
「俺の左腕も、淡依が来ることは命令済みだ。全て想定の範囲内だ」
沈黙が落ちた。零は、未来の顔を見た。
泣いていた。声も出さずに、ただ涙が伝っていた。
「……すまない」
「わかった」
未来は静かに言った。
「零ちゃんの言ってることは全部正しい。合理的で、計算通りで、間違ってない」
声が震えていた。
「だから何?」
未来は半泣きになって零を見ていた。零は言葉を失った。
「私が怒ってるのはそこじゃない」
枕を抱きしめている。
未来はようやく顔を上げた。その目は、悲しそうだった。怒りよりも、ずっと悲しそうだった。
「零ちゃんにとって、私はずっと駒なの?」
「そんなことは」
「じゃあなんで、合理的な話しかできないの」
零は、何も言えなかった。
「もういい。おやすみ」
未来は布団を被った。
「……未来」
「おやすみって言ったよ」
零は扉の前に立ったまま、しばらく動けなかった。
「……おやすみ」
扉が閉まった。
廊下に出た零は、壁にもたれた。左腕が痛む。それより、胸の奥が痛かった。
「あ、灯火零看守さん……」
メルは概ね事情を察したらしい。
「任せてください、頑張ってみます」
「不甲斐ない……」
零と入れ違いに、メルが入っていった。
何が間違っていたのか、零にはわからなかった。それが一番、辛かった。
自室に戻った零は布団に入った。天井を見る。暗い。消灯しているのだから当然だ。どうでもいいことをいつものように観察し、分析する。冷静でいるための行いでしかない。
左腕が鈍く痛む。骨折の痛みは分散されているから、激痛ではない。ただ、じわじわと痛みが続く。それが余計に思考を乱す。
――私が怒ってるのはそこじゃない。
未来の声が、頭から離れない。
零は目を閉じた。何が間違っていたのか、整理しようとした。整理できなかった。合理的だった。判断は正しかった。結果も、概ね想定通りだった。
――零ちゃんにとって、私はずっと駒なの?
駒じゃない。そんなわけがない。だが、それを言葉にしようとした時、出てきたのは論理だった。感情じゃなかった。
零は布団を顎まで引き上げた。
未来のことは、大切だと思っている。それは確かだ。だが「大切だ」という感情と、「合理的に動く」という判断が、零の中では別々の場所にある。その二つを繋ぐ言葉を、零は持っていなかった。
答えが出ない。いつもなら出る答えが、今夜だけは出てこない。
カルネの声が蘇った。
――お前、未来のこと好きなのか?
わからない。本当にわからない。人から人への好意は見える。しかし、自分の感情は見えない。見えないものは言語化しえない。
だから今夜、俺は失敗した。ローダンセを倒し、緋華の成長を促すのは成功した。それなのに……。
零は目を開けた。天井は暗いままだった。
隣の部屋に、未来がいる。今頃、眠れているだろうか。メルが慰めているだろうか。
眠れていないだろう、と零は思った。それが、なぜかひどく胸に刺さった。
***
部屋にノック音が鳴り響く。
「未来ちゃん」
メルが静かに声をかけた。未来は布団を被ったまま動かない。
「入ってもいいですか」
「……どうぞ」
くぐもった声だった。メルは部屋に入り、ベッドの端に腰を下ろした。
しばらく、何も言わなかった。ただ、そこにいた。
「怒ってますか、灯火看守さんに」
「怒ってる」
「そうですか」
メルは膝の上で手を組んだ。
「わたくしは、父に怒ったことがありませんでした」
未来は布団の中で、少しだけ動いた。
「ずっと、怒る資格がないと思っていたんです。父はわたくしのために選んでくれていた。それはわかっていたから」
「……」
「でも、未来ちゃんに言われたんですよ。完璧じゃなくてもいいって」
未来は黙っていた。
「だから、わたくしにも言わせてください」
メルは静かに、しかしはっきりと言った。
「怒る資格はあります。灯火零看守さんが大切だから怒れるんです」
布団の中で、何かが崩れた。
「……っ」
小さな声が漏れた。それから、堰を切ったように嗚咽が溢れた。
「うあ……もう、なんで……なんでそんなこと……」
未来は布団を被ったまま泣いていた。声を殺そうとして、殺しきれなかった。肩が震えている。
メルは何も言わなかった。ただ、そっと背中に手を置いた。
「わかってるんだよ……零ちゃんが、不器用なのも……私のこと、考えてくれてるのも……全部わかってる……」
言葉が、嗚咽に混ざる。
「わかってるのに……ちゃんと言ってくれないから……信用されてないみたいで」
「信用されてますよ」
メルははっきりと言った。
「わたくしには、わかります。彼の目を見れば」
「……メルちゃん」
「未来ちゃんは、彼にとって特別です。それだけは、絶対に正しいです」
未来はしばらく泣き続けた。メルは背中をさすり続けた。何も言わず、ただそこにいた。
やがて、泣き声が少しずつ静かになった。
「……ありがとう、メルちゃん」
「どういたしまして」
「恥ずかしいとこ見せちゃった」
「いえ、わたくしも、前に見せてしまいましたから」
未来はくすっと笑った。目が真っ赤だった。
「ねえメルちゃん」
「なんですか」
「今夜、一緒にいてくれる?」
メルは少し驚いた顔をした。それから、頷いた。
「もちろんです」
その夜、二人は並んで眠った。正確には、眠れなかったが。それでも、一人じゃなかった。
隣の部屋では、零がまだ天井を見ていた。




