EP48『信頼』
48『信頼』
灯火先生が教室に入ってきた瞬間、空気が変わった。紅蓮寺緋華は足を机の中にしまい姿勢を正す。
いつもと違う。そう感じたのは、僕だけじゃないはずだ。先生は教卓の前に立ち、生徒たちを見渡した。その目は、いつもの静かな観察者の目ではなかった。
「今から授業をする」
誰も喋らなかった。
「歴史の授業だ」
先生は黒板に何も書かなかった。ただ、立っていた。
「30xx年、ギウス人がこの地に降り立った。最初に手を出したのはギウス人だ。しかし、最初に発砲したのは日本の警察だった」
教室が静まり返っている。
「どちらが悪かったか。その答えは出ない。ただ、結果だけが残った」
先生の声は低く、静かだった。しかしその言葉は、教室の隅々まで届いていた。
「日本は植民地になった。そして神様が、俺たちにある異能を与えた。平安時代から続く呪いの観念から転じ、ギウス人から、カース人と呼ばれるようになった。そして俺たちは監獄に閉じ込められた。それが、君たちの生まれる前から続いている現実だ」
僕は先生を見ていた。
「俺はセタガヤ支部で聞いたことがある。この歴史を、別の誰かから。その時、俺は反逆を求められた」
カルネは目を瞑り俯いた。未来は零を見て、零は一瞬だけ遠くを見た。それぞれの日々の景色が、網膜に蘇る。
「俺は君たちに、何も求めない」
その言葉が、緋華の胸に落ちた。
――求めない。
僕はずっと、求められることが怖かった。期待されることが怖かった。応えられなかった時の、あの感覚が怖かった。だから傍観者でいると決めた。求められない場所に、いると決めた。
「ただ」
先生の声が続く。
「君たちが掴みたい未来へ、進め。俺はもうすぐ、未来、カルネ先生と共にセタガヤへ帰る」
教室が、しばらく沈黙した。
僕は自分の右手を見た。烙印の跡が、じんわりと熱を帯びた気がした。
――進め。
求めない、ただ進め。
その言葉は、命令じゃなかった。強制でもなかった。ただ、道を示しているだけだった。進むかどうかは、自分が決める。
――届かなかった場所は、どうなるんだ。
あの日、廊下で飲み込んだ言葉が、また蘇った。しかし今は、少しだけ違って聞こえた。
届かなかった場所があったから。今度は、届く場所まで進めばいい。もう、傍観者ではいられないんだ。
「質問がある奴は手を挙げろ」
先生はそう言って、生徒たちを見渡した。
僕は手を挙げなかった。でも、立ち上がった。
「……灯火先生」
「なんだ、紅蓮寺」
「俺は、行きます。あなたと共に」
先生は僕を見た。いつもの静かな目だった。しかしその奥に、微か、に何かが灯った気がした。
「そうか」
それだけだった。でも、それで十分だった。
最初に立ったのは、雅火だった。
「俺も行く」
誰も驚かなかった。むしろ、それが合図になった。
次に玻璃が立った。静かに、でも迷いなく。
「私も、行きます」
頬が少し赤かった。それでも目は真っ直ぐだった。
妖狐が続いた。いつもの剽軽な口調は、この時だけなかった。
「行く。当然でしょ」
直人が立ったのは、少し間があってからだった。ポケットに手を突っ込んだまま、ぼそりと言った。
「ローダンセ看守長に一泡吹かせてやりたいしね」
そして最後に、幽が無言で手を挙げた。
「……」
零は六人を見渡した。
「すまない、君たちを巻き込んでしまって」
「謝んなよ先生、らしくねぇ」
雅火がぶっきらぼうに鼓舞した。
「俺はあんたを信頼してんだ。裏切ったらぶん殴るからな」
「ああ、任せておけ。セタガヤに来るなら、クラスメイトへの別れだけは済ませておいてくれ。後悔はないように」
***
メル・ホワイトリリィはずっと考えていた。灯火看守さんに言われた言葉が、ずっと脳裏に引っかかっている。
――ただ、あなたがどうしたいかは、聞かせてほしい。
その問いに、わたしはまだ答えられていない。
父はわたくしを愛している。それはわかっている。だからこそ、わからなくなる。愛されているのに、息が詰まる。愛されているのに、逃げたくなる。この矛盾を、どう言葉にすればいいのかわからなかった。
鏡の前に立つ。白いドレスが、灯りを反射して光っている。髪飾りの百合の花が静かに揺れている。
これは父が選んだものだ。ドレスも、髪飾りも、副看守という肩書きも。全部、父がわたくしのために用意したものだ。
未来ちゃんはわたくしを「メルちゃん」と呼んだ。ホワイトリリィではなく、メルと。
その呼び方が、どうしてこんなに温かいのだろう。
扉がノックされた。
「メルちゃん、いる?」
未来ちゃんの声だった。
「……はい」
扉が開く。未来ちゃんは少し困ったような顔をしていた。
「あのね、零ちゃんたちがセタガヤに行くことになったんだ」
「……知っています」
「メルちゃんはどうする?」
わたくしは未来ちゃんを見た。
「どうする、とは」
「一緒に来る? って聞きたかったんだけど」
胸の奥で、何かが動いた。
「……わたくしは」
言いかけて、止まった。父のことを思った。父の顔を思った。あの不器用な背中を思った。
「わたくしには、まず、しなければならないことがあります」
「お父さんに会いに行くの?」
未来ちゃんは静かに聞いた。責めていない。ただ、そこにいてくれている。
「……はい」
わたしは鏡をもう一度見た。そこに映っているのは、ホワイトリリィの名を冠した少女だ。でも今は、その名前が少しだけ、軽く感じた。
「行ってきます。未来ちゃん」
「うん、待ってるよ」
未来ちゃんは笑った。その笑顔が、背中を押してくれた。
メルは扉を開け、廊下へ出た。父の執務室へ向かう足取りは、いつもより少しだけ、確かだった。
執務室の扉を、メルはノックした。いつもより少し強く。
「入りなさい」
父の声は、いつも通りだった。穏やかで、静かで、隙がない。
扉を開けると、ローダンセは書類に目を落としていた。メルが入ってきたことに気づき、顔を上げた。
「メル、どうした」
「お話があります」
ローダンセは書類を置いた。
「座りなさい」
「立ったままで結構です」
一瞬、間があった。ローダンセは何も言わなかった。
メルは息を吸った。
「お父様」
「なんだ」
「わたくしは、父上の娘である前に、わたくし自身でいたいのです」
執務室が、静まり返った。
ローダンセは表情を変えなかった。ただ、書類の上に置いた手が、わずかに動いた。
「……そうか」
「白いドレスも、髪飾りも、副看守という肩書きも。全部、父上が決めたことです」
「だがそれは、お前のために選んだものだ」
「知っています」
メルは俯かなかった。真っ直ぐその瞳を見つめた。
「でも、わたくしは一度も、自分で選んだことがない」
ローダンセは黙っていた。
「灯火看守さんに言われました。あなたがどうしたいかを聞かせてほしい、と」
「……灯火零が」
「はい」
メルは続けた。
「わたくしは、自分で選びたいのです。ドレスも、場所も、進む道も」
ローダンセは長い間、黙っていた。窓の外で、造られた照明が白く灯っている。
「……私の成したことは、間違っていたか」
その声は、初めて、小さかった。
メルは少しだけ目を見開いた。父がそんな声を出すとは、思っていなかった。
「間違っていたとは、思いません」
メルは静かに言った。
「ただ、お父様の愛し方と、わたくしの受け取り方が、少しだけ違っていただけです」
ローダンセは窓の外を見た。その横顔は、いつもの端正な看守長ではなく、ただの父親だった。
「……それでお前は、どこへ行くつもりだ」
「灯火看守さんたちと、セタガヤへ行きます」
「危険だ。やめておきなさい」
「知っています」
「止めても、聞かないんだろうな」
メルは、初めて、笑った。
「はい」
ローダンせは小さく息を吐いた。それから、静かに言った。
「……気をつけろ」
「安心してください、灯火看守さんと未来ちゃんには、かけがえのない何かを感じます。わたくしは、彼らを信頼しています」
メルは深く一礼した。扉を閉める直前、振り返った。
「お父様」
「なんだ」
「ありがとうございます」
返事はなかった。でも、ローダンセの肩が、わずかに揺れた気がした。
メルは廊下へ出た。胸の奥が、じんわりと温かかった。白百合の髪飾りに、そっと触れた。これは父が選んだものだ。でも今は、それでいいと思えた。




