EP47『ある裏切り者の末路』
47『ある裏切り者の末路』
部屋の中では、まさに一触即発の様相を呈していた。
「あなたは非常に優秀ですね」
「お世辞は結構です」
零は椅子を勧めることもなく、廻流を見ていた。
「お世辞ではありません」
廻流は勧められてもいない椅子に、自然に腰を下ろした。その所作に迷いがなかった。
「カースも魔法も持たない人間が、セタガヤ支部で脱獄を成功させた。その事実だけで十分です」
「俺の経歴を調べていたんですか」
「当然です」
廻流は微笑んだ。
「あなたに会いに来たのですから」
零は黙っていた。あれはアスターの許可を得た上でのものだ。下手なことを言うとアスターの首が危機に晒されてしまう。
「単刀直入に聞きます」
「どうぞ」
「あなたは俺に何をさせたいんですか」
廻流は少しだけ目を細めた。それから、ゆっくりと口を開いた。
「監獄教育機関を、壊したいと思っていますか」
零の表情が、わずかに動いた。
「……それはどういう意図の質問ですか」
零は一瞬だけ黙った。
「思っています」
「ならば」
廻流は膝の上で手を組んだ。
「私も同じです」
零の中で胸騒ぎがした。
喜びでも安堵でもない。警戒でも疑念でもない。もっと曖昧で、輪郭のない感覚だった。
――この人間は、読めない。
同じ目的を持つ人間が現れた。それは本来、心強いことのはずだ。しかし零の直感は、その言葉を素直に受け取ることを拒んでいた。
「……なぜ、俺にそれを言うんですか」
「あなたに知っておいてほしいからです」
「何故、俺なんだ。あなたは俺をどこで知ったんですか」
「どこでも何も、あなたは脱獄犯でしょう」
廻流は零を真っ直ぐに見た。
「私は、あなたと、同じ方向を向いて歩きたいんです」
零は黙っていた。
「信用していませんね」
「当然です」
零は即答した。廻流は笑った。嬉しそうだった。
「それでいい」
「……は?」
「信用しない人間の方が、信用できます。裏切り者は皆、信用していると噓をつくものですから」
零はしばらく廻流を見ていた。この人間は何を考えているのか。何を見ているのか。何を知っているのか。いつもなら読めるはずのものが、何一つ読めなかった。
それが、零には一番怖かった。
「一つだけ聞かせてください」
「どうぞ」
「あなたはローダンセ看守長と、どういう関係ですか」
廻流の笑みが、わずかに止まった。ほんの一瞬だけ。零はそれを見逃さなかった。
「聡いですね」
「質問の答えになっていない」
「そうですね」
廻流は視線を窓の外に向けた。夜の街が、遠く光っている。
「その答えは、本人から聞いてください」
「あの人は話しません」
「ええ、今はまだ」
今はまだ、という言葉が耳に残った。
「脅しでもなんでもすればいい、話してくれないのなら無理やりこじ開けるんです」
それは零がセタガヤでした行為と似ていた。
零は廻流を見た。廻流は扉の向こうを見ていた。その横顔は、穏やかで、静かで、やはり読めなかった。
胸騒ぎは、まだ消えなかった。
「ああそうだ、灯火零看守。君は裏切られたらどうする?」
突飛な質問だ。俺に「裏切るな」と言っているのだろうか。
「仮に誰かに裏切られたら、それは俺のミスだ。別にどうもしないが、敵となり立ち塞がるのなら、決して容赦はしない」
零はまっすぐ廻流を見た。
「ご慧眼ですね、流石は劣弱の天才だ」
その名前が、自分の二つ名が、これほどまでに心地悪いものだと思ったことはなかった。ただし、この瞬間を除いて。
***
セタガヤ支部の夜は、静かだった。
殊夜は資料を広げ、机に向かっている。傍らには、アスターが立っていた。
「これで終わりか」
アスターが呟いた。
「ええ。ナゴヤ支部の看守配置と交代時刻、監視網の構造です」
「よく集めたな」
「あなたと私の役職なら造作もないことでしょう」
殊夜は資料をめくりながら答えた。その口調は淡々としていたが、目つきは鋭かった。
「問題は、これをどう零くんに届けるかですね」
「カルネに頼めばいい」
「カルネ看守は今、零くんの傍に置いておいた方がいいでしょう」
アスターは腕を組んだ。
「では誰が届ける」
「それより先に、整理しなければならないことがあります」
殊夜は一枚の紙を取り出した。そこには、いくつかの数字と記号が並んでいた。
「ナゴヤ支部の監視網には、一つだけ共通の穴があります」
「穴?」
「看守の交代時刻から三分間、監視カメラの死角が生まれる。設計上の欠陥でしょうね」
――あるいは誰かの思惑か。
アスターは眉を寄せた。
「それは……意図的なものか」
「わかりません。ただ」
殊夜は紙を机に置いた。
「彼ならこれを使います。間違いなく」
アスターは黙っていた。窓の外で、造られた照明が白く灯っている。
「アスター看守長」
「なんだ」
「零くんから手紙が来た時、私は驚きました」
「ほう」
「あの子が人に頼むとは思っていなかった」
殊夜は少しだけ笑った。
「ですが、頼んできた。それだけで十分です」
「お前も、あいつに期待しているんだな」
「期待ではありません」
殊夜は資料を閉じた。
「信頼です」
アスターは何も言わなかった。ただ、薬指の指輪に静かに触れた。
***
殊夜先生に呼ばれたのは、夜の十時を過ぎた頃だった。
廊下を歩きながら、僕は自分の手を見た。右手の甲に、うっすらと残った跡。特別看守として動いていた頃の名残だ。あの頃の自分が、今の自分を見たらどう思うだろう。
扉をノックする。
「入りなさい」
殊夜先生の声は、いつも通り静かだった。
部屋に入ると、先生は机に向かっていた。傍らには、アスター看守長が立っている。この二人が同じ部屋にいる光景は、まだ慣れない。
「叢雲魁斗」
「はい」
「あなたに頼みがあります」
先生は一枚の資料を差し出した。受け取って、目を通す。数字と記号が並んでいる。
「これを、ナゴヤ支部の灯火零看守に届けてほしいのです」
「僕の【情報伝播】で、ですか」
「ええ。スマホを通じて送れますか」
「できます」
即答だった。できる。それだけは確かだ。
しかし、手が少し震えていた。
灯火零。その名前を聞くたびに、胸の奥がざわつく。僕はあの人を裏切った。看守側のスパイとして、あの人たちの計画を流した。あの時は仕方なかったと、今でも思っている。でも。
「叢雲くん」
殊夜先生が僕を見ていた。
「躊躇っていますか」
「……少し」
「正直ですね」
先生は立ち上がり、窓の外を見た。
「あなたが零くんを裏切ったことは、知っています」
胸が痛んだ。
アスター看守長が口を開いた。
「だが彼は、君を恨んでいないさ」
「……なぜそう言えるんですか」
「彼は責任感ある男だ。あれは自分のミスだと悲観している。それに、結果的にあの失敗は、私たちの隙をついただろう。恐ろしい奴だ」
僕はもう一度、資料を見た。震えていた手が、少しだけ落ち着いた。
「……やります」
「ありがとうございます」
殊夜先生は微笑んだ。
スマホを取り出し、【情報伝播】を発動する。情報が、見えない波となって流れていく。ナゴヤへ向けて。あの人の元へ。
これが、僕にできる唯一の清算だ。




