EP44『執権代理』
44『執権代理』
零たちがナゴヤ支部に馴染んでから数日が過ぎた。にある日、ナゴヤ支部に珍しい来客があった。
玄関ホールに足を踏み入れたのは、一人の男だった。年齢は読めない。二十代にも見えるし、もっと上にも見える。ギウス帝国の紋章が刻まれた外套を纏っていた。所作の一つ一つが、静かで、無駄がない。
受付の看守が立ち上がった。
「し、失礼いたします。ご来訪の御用件を……」
「四葉廻流です」
男は穏やかに遮った。
「執権代理として、視察に参りました。ナゴヤ支部の状況を直接確認したく」
受付の看守が硬直した。執権代理が直々に視察に来るなど、前例がなかった。その報せは、すぐに零の元へ届いた。
***
零はローダンセに頼まれ、看守長代理として執務室で四葉廻流と向かい合った。
未来は隣に座っている。カルネは扉の外に立っている。
廻流は穏やかに微笑んでいた。威圧も、探るような視線もない。
——読めない人だな。
零は内心で呟いた。この感覚は久しぶりだった。
「灯火零看守ですね」
「はい」
「お若いですね」
「四葉さんこそ、役職のわりにお若いですね」
廻流は室内を見渡した。
「私のような裏方を存じ上げていますか」
「裏方なんてご謙遜を。帝国政治の最前線ではありませんか」
廻流は軽く一礼する。
「ナゴヤ支部は、良い空気ですね」
「そうですか」
「ええ。生徒たちの顔が、他の支部と違う」
零は何も言わなかった。
「活気がある、という意味ですよ」
廻流は笑った。嫌みではなかった。本当にそう思っているように聞こえた。
「視察の目的は何ですか」
零は単刀直入に聞いた。廻琉は少し目を細めた。
「直接的ですね」
「遠回りするのが苦手なので」
「それは結構」
廻琉は外套の袖を整えた。
「現場の実態を把握したかった。それだけです」
「それだけですか」
間があった。零と廻琉は視線を交わす。
どちらも穏やかに笑っていた。どちらも相手に真意を読ませなかった。
「では、施設を案内しましょう」
「ぜひ」
廻流は立ち上がった。その動作は自然で、急かすでもなく、構えるでもなかった。
零も立ち上がった。
——この人物は、何者だ。
その問いの答えは、まだ遠かった。
***
廻流が去った後、零は執務室に戻った。
椅子に座り、天井を見上げている。珍しい姿勢だった。
「零ちゃん」
未来が声をかけた。
「何だ」
「あの人について、どう思った?」
零は少し間を置いた。
「わからない」
未来が目を丸くした。
「零ちゃんがわからないって言った」
「意外か?」
「うん」
零は視線を天井から未来に移した。
「読めなかった。何を考えているのか、何をしに来たのか、何を見ていたのか」
「でも、悪い人には見えなかったけど」
「それが一番厄介だ」
零は立ち上がり、右往左往し始める。
「悪意がない人間は読めない。合理的な動機がない行動は予測できない」
「じゃあ純粋に視察しに来ただけかもよ?」
「執権代理が一つの支部ごときに直々に来る理由がない」
未来は黙った。零は言葉を続けた。
「あの人は俺を見ていた」
「そりゃ話してたんだから」
「違う」
零は振り返らないままだ。
「施設を見ながら、ずっと俺を見ていた。生徒たちを見ながら、ずっと俺の反応を見ていた」
未来の表情が、少し変わった。
「……何のために?」
「それがわからない」
零は再び椅子に座った。推理小説を手に取ったが、開かなかった。
その夜、零はほとんど眠れなかった。
——四葉廻流。
その名前が、頭から離れなかった。
動きがあったのは、廻流の視察から数日後だった。
零の元にカルネが来た。いつもと違う表情だった。
「零」
「どうかしましたか」
「ローダンセ看守長のことだ」
零は手を止めた。
「何かあったんです?」
カルネは椅子に座らず、立ったまま言った。
「セタガヤから通達が来た。お前と未来をセタガヤ支部へ返還せよ、との命令だ」
沈黙。
「……返還」
「ああ」
「その理由は」
「人員の再配置。表向きはな」
零は目を閉じた。数秒、黙っていた。
「タイミングが良すぎる」
「ああ」
「廻流が視察に来た直後だぞ」
カルネは腕を組んだ。
「私も同じことを思った」
零は目を開けた。
「ほぼ確実に密告者がいますね……だが、何のために」
「誰だと思う」
零はしばらく黙っていた。
「まあ、間違いなくローダンセ看守長でしょう。看守長は国選の人間なんで、執権絡みなら間違いなくあの人です」
カルネの眉が、わずかに動いた。
「なるほどな」
零は立ち上がった。
「ただ、最も可能性が高いというだけです」
カルネは少し笑った。
「お前らしいな」
「カルネ先生」
「何だ」
「俺はこの命令に従う気はありません。例え帝国からの勅命だろうと」
カルネの笑みが、深くなった。
「知ってるさ」
「正当性がない。ナゴヤ支部は人員不足でという理由でここに配属された。その任務を理由もなく中断させる命令には従えない」
「正論だな」
「ですが」
零は続けた。
「正論だけでは通らない相手が来るかもしれない」
カルネは頷いた。
「その時は私が出よう」
「お願いします」
二人は向かい合った。
「零」
「何ですか」
「メルのことはどうする」
零は少し間を置いた。
「……あの親子はまだそっとしておいた方がいい」
そうだな、とカルネは笑って、扉を開けた。
——ローダンセ看守長か。
零は窓の外を見た。
まだ、確信はない。しかし、動かなければならなかった。
ローダンセが零の執務室の扉を叩いたのは、その日の夜のことだった。
「失礼します」
入室した彼の顔は、いつもと変わらなかった。穏やかで、端正で、隙がない。
「灯火看守」
「何ですか」
「セタガヤ支部からの通達を受け、お伝えに参りました」
零は書類から目を上げた。
「カルネ看守から聞いています」
「では話が早い」
ローダンセは一歩前に出た。
「本日付けで、あなたと氷室看守のセタガヤ支部への返還が決定しました。準備をお願いします」
「お断りします」
間髪入れずだった。
ローダンセの目が、わずかに細くなった。
「……理由を聞かせてもらえますか」
「正当性がないからです」
零は立ち上がった。
「ナゴヤ支部は人員不足を理由に俺たちを配属した。その任務が完了していない状態での返還命令には、合理的な根拠がない」
「それは帝国側が判断することです」
「帝国の判断が常に正しいとは限らない」
しばらく沈黙が続いた。
ローダンセは、ゆっくりと息を吐いた。
「……わかりました。明日までに、お考えをまとめておいてください」
「それはどういう意味ですか」
「帝国に従うのか、叛くのか。どちらにせよ、覚悟を持った上でお答えいただきたい」
零は黙っていた。
「……ちなみに、私も好んでここに来たわけではありませんよ」
ローダンセはそれだけ言って、扉を閉めた。
静寂だけが辺りに残った。
——明日までか。
やるべきことが、一つあった。零はメルの連絡先を開いた。




