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 EP40『時の中の攻防』

40『時の中の攻防』

 

 玻璃はねむを一瞬だけ見て、前を向いた。

 妖狐はカルネを見ていた。カルネはまだ幻惑の中にいた。しかしその笑顔は、崩れていなかった。

 ――この人は、幻惑が効いていても余裕がある。

 妖狐の胸に、じわりと不安が広がった。

 その時、カルネが口を開いた。

「お嬢ちゃん」

「……なんですか」

「誰かに、ちゃんと見てもらったことはあるか?」

 妖狐の動きが、止まった。

 カルネは幻惑の中で笑っていた。

「お前の目が、そう言ってるんだよ」

 妖狐は何も言えなかった。胸の奥で、何かが揺れた。

 ずっと、見てほしかった。気づいてほしかった。それだけだった。ずっと、それだけだった。

「……関係ない」

 妖狐は絞り出すように言った。

「そうか」

 カルネは笑った。

「【IN MY HAND】」

 カルネが胸元の懐中時計を握ると、時間が歪んだ。

 妖狐の幻惑が、一瞬で剥がれた。

「——っ」

 カルネが目の前に立っていた。

「いい目をしてる」

 カルネは言った。

「でも今は敵だ」

 妖狐は、歯を食いしばった。

「……わかってます」

 それでも、足は動いた。

 ——零先生に応えなきゃ。

 妖狐は【夢幻抱擁】を、再び展開した。

「またか」

 しかし今度は、妖狐の姿は見えなかった。

「これじゃお互い手の出しようがないな」

 カルネは笑いながら、周囲を見回した。

 幻惑の空間だ。壁が溶け、床が揺れ、天井が遠い。どこに本体がいるかわからない。

「……まあ、いい」

 カルネは目を閉じた。

「【IN MY HAND】」

 カルネが胸元の懐中時計を握ると、時間が、止まった。

 音が消えた。雅火の炎が空中で静止し、玻璃の髪が風もないのに止まり、未来の吐いた息が、白いまま固まった。

 全てが、止まった。しかし、全てが停止したわけではなかった。カルネはゆっくりと歩き始めた。止まった世界の中を、一人だけ動いていた。

 幻惑の空間は、まだそこにあった。壁は溶けたままで、床は揺れたままだ。しかし時間が止まった世界では、幻惑もまた止まっていた。

 カルネは静止した幻惑の中を歩いた。一歩、また一歩。カルネは観察を続ける。

 幻惑の隙間に、僅かな空間の歪みを見つけた。

「見つけた。零なら時間を止めずとも、既に範囲まで絞り出しているころかな」

 カルネは妖狐の前に立ち、時間停止を解除した。

 妖狐の目が、大きく開いた。

「い、いつの間に」

 妖狐にとっては瞬間移動したようなものだ。

 カルネは笑った。妖狐は後ろに飛んだ。距離を取る。幻惑を再展開しようとした。

「待て待て」

 カルネが言った。攻撃ではなかった。

「一個だけ聞かせてくれ」

「……なんですか」

 妖狐は構えたまま答えた。

「さっきの話の続きだ」

 カルネは笑顔のまま、しかし声だけは穏やかに言った。

「誰かに見てほしかった、って。零のやつには、ちゃんと見てもらえたか?」

 妖狐の構えが、わずかに揺れた。

「……試験中に聞くことですか」

「悪いか」

 妖狐はしばらく黙っていた。それから、静かに答えた。

「……見て、もらえました」

「そうか。流石は私の教え子だ」

 カルネは嬉しそうに笑った。

「なら十分だ。さあ、勝負だ零、イヤホンを通して聴いてんだろ?」

 イヤホンに、声が届いた。

「妖狐、落ち着け。カルネ先生の弱点は知っている」

 妖狐の動きが止まった。

「……零先生」

「聞こえるか」

「聞こえます」

「カルネ先生の【IN MY HAND】には条件がある。懐中時計を触っていなければ、時間は止められない」

 妖狐は息を呑んだ。思い返す。時間が止まる直前、カルネは必ず目を閉じていた。そして手が、どこかに触れていた。

「……懐中時計」

「ああ。あの人は必ずそれを持っている。奪うか、触れさせなければいい」

「でも、近づいたら……」

「幻惑の中に隠れたまま近づけ。お前の【夢幻抱擁】は、本体が見えない。カルネ先生でも時間を止めるまでは居場所がわからない」

 妖狐は、じっと考えた。

「時間を止める前に、懐中時計を奪う」

「そうだ」

 零の声は、短かった。しかしその短さの中に、確信があった。

「お前ならできる」

 妖狐は目を閉じた。

 ずっと、誰かに見てほしかった。気づいてほしかった。

 ——見て、もらえました。

 目を開けた。

「【夢幻抱擁】」

 妖狐の姿が、消えた。カルネは笑っていた。

「さて、今度はどこだ」

 周囲を見回す。気配がない。音がない。カルネは懐中時計に手を伸ばした。

 その瞬間だった。

 指先が、時計に触れる寸前。

 手首を、掴まれた。

「——」

 カルネの目が、初めて丸くなった。

 妖狐がそこにいた。幻惑の中から、音もなく、気配もなく。カルネの手首を両手で掴んで、真っ直ぐカルネを見ていた。

「……いつから」

「ずっとです」

 妖狐は離さなかった。

「懐中時計に触れられたら終わりなので」

 カルネはしばらく妖狐を見ていた。それから、ゆっくりと笑った。

「やるじゃないか」

「零先生が教えてくれました」

「そうか」

 カルネは空いている手で後頭部を掻いた。

「参ったな」

 イヤホンの向こうで、零が聞いていた。

 カルネは空を見上げた。

「零、お前さんは本当に……」

「降参してください」

 妖狐が静かに言った。その口調は、目は、どこか昔の零に似ていた。

「……降参だ」

 カルネは笑って、両手を上げた。妖狐は、ゆっくりと息を吐いた。手が、少し震えていた。

 ——零先生に、応えられた。

 それだけで、十分だった。

「よくやった、妖狐。しっかりみていたぞ」

 その言葉に、妖狐は思わず涙ぐんでいた。

「だが、まけっぱじゃ追われねえな」

「え?」

「【IN MY HAND】」

 再び時が止まった。

「あの懐中時計は、私の魔力消費を抑えるためのものだ。別に魔法は使えるのさ」

「そんな……」

「お前はここで体力が尽きるまで、私と悠久の時を過ごしてもらう」

 妖狐が幻惑を出したまま、時間が停止した。すなわち、カース使用の副作用である体力消費を、余儀なくされるというわけだ。

「解除できないだ。なに、世間話でもしようじゃないか」

 時が止まっているため正確には一秒未満なのだが、数十分にも及ぶ我慢比べは、カルネの勝利に終わった。

 ――降参したし、負けたフリでもしておくか。

 カルネは玻璃の隣で仰向けになった。

 

 ***


 雅火は途中で違和感に気づいた。

 おかしい。体力の消耗が早い。いつもの倍、いや、それ以上だ。まるで自分の消費した分が、自分に返ってきているような感覚だった。

 ——あの看守か。

 アネモネを見た。アネモネは微笑んでいた。静かで、穏やかな微笑みだった。

 雅火は舌打ちした。

 ——炎を使えば体力の消費が早くなる。ならば。

 雅火は炎を消した。

「あら」

 アネモネが首を傾けた。

「どうしました?」

「うるさい」

 雅火は真っ直ぐ、アネモネに向かって走った。

「え、ちょっと……」

「【チェインコスト】」

 アネモネが咄嗟に発動した。しかし転写するデメリットがない。雅火は今、何の能力も使っていない。

「意味ないだろ、それ」

 雅火の拳が、アネモネの腹に入った。

「ぐっ——」

 アネモネがよろめく。雅火は止まらなかった。

「【チェインコスト】」

 また発動した。しかし起こらない。

「だから意味ないって言ってんだろ」

 次の拳が入った。アネモネが後退する。

「ま、待て……」

「待たない」

 雅火はアネモネを追い続けた。炎なし、能力なし。ただの拳と足だけで。

「【チェインコスト】」

「何回使っても同じだ」

 雅火の蹴りがアネモネの側面に入った。アネモネが膝をついた。

「……なんで」

 アネモネが息を切らしながら言った。

「なんで気づいたの」

「消耗が早かった。それだけだ」

 雅火は腕を組んだ。

「お前の能力、デメリットがなければ機能しないだろ」

「……正解です」

 アネモネは苦笑した。

「でもそれに気づいて、能力を手放せる人間はなかなかいない」

「俺はSランクだ」

 雅火はぶっきらぼうに言った。

「それだけだ」

 アネモネはしばらく雅火を見ていた。それから、静かに手を上げた。

「……参りました」

 雅火は鼻を鳴らした。

「遅い」

 顔面に、炎を纏った強烈な一撃が入り、アネモネは気絶した。

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