EP26『ノイズ』
保健室に運ばれた未来を置いて、零は再び戻ってきた。
「間に合わなかったか……」
沙華殊夜は、愉快そうに扇を揺らした。
「黒宮 星を呼びに行ったのでは? 時間が惜しいでしょう」
「友情の力とか奇跡を信じるくらいなら、俺は事実に賭ける」
零の声は、静かだった。
「……ほう?」
「今ここで、あなたを止める役割は、俺だ」
殊夜の目が細まる。それは嘲笑でも侮蔑でもなく、観察者の視線だった。
「無能力者が、私を?」
「無能力者だからだ」
零は一歩、前に出た。
「俺には、失うものがない。秩序に組み込まれていない存在は、計算を狂わせるだろう」
「自覚があるのですね。あなたが“異物”だということを」
「褒め言葉として受け取っておく」
殊夜は扇を閉じた。
「では、排除しましょう。秩序を乱すバグは、修正されるべきです」
視線が合った瞬間、空気が歪む。
「【秩序】【メモリーエラー】」
だが、零は瞳を逸らさなかった。
「来ると思った」
頭の奥に、冷たい指が触れた感覚。
思考が整理され、感情が削ぎ落とされていく。
――合理的に。
――最短で。
――感情は不要。
「……それで?」
零は目を見開き、笑った。
「それで終わりか?」
殊夜の眉が、わずかに動いた。
「おかしいですね。抵抗できるはずがない」
「抵抗してない」
零は、自分の頭を指で叩いた。
「ただ、受け入れていないだけだ」
「何……?」
「あなたの秩序は“感情を切り離すこと”で成立する」
一歩、また一歩。
零は、わざと間合いに入った。
「言っただろう、最初から、失うものなんてもうないんだ。叛逆を企てたときから、未来に”他人”と思われた時から!」
殊夜の脳裏に、一瞬だけノイズが走る。
未来の顔。
アスターの指輪。
劣弱の天才。
「……うるさい」
「ほら、出た」
零の声は低く、しかし確かだった。
「秩序を語るくせに、あなたは個人に執着してるだろう。俺に、未来に、アスターに」
「それは……」
殊夜が言い終わる前に、零が言い切る。
「羨望、とでも言おうか」
その一言が、刃だった。
【メモリーエラー】が、わずかに揺らぐ。
零の瞳を通して、修正対象が、自分自身に向き始める。
「あなたは、感情を捨てきれていない。だから、俺はここに立っていられる。その能力を扱うには俺の方が向いているんじゃないか?」
零は、立ち止まった。時計の針が、一つ進む音がした気がした。
「……時間稼ぎのつもりですか?」
零の瞳に映る自分は、紫色に光っていた。
「そうだ」
零は、振り返らない。
「俺は勝たない。負けもしない。ただ……」
廊下の奥から、微かな気配が近づいてくる。
人の足音。魔力のうねり。
「間に合わせるさ」
殊夜は、初めて舌打ちをした。
「劣弱の天才は厄介だな」
「知っている」
零は、目を細めた。
「だから、俺は自分に賭けるんだよ」
そして、足音が止まった。
***
「看守長、大丈夫ですか?」
声をかけると、アスターはゆっくりと瞼を開いた。
「……篝くんか。君こそ、大丈夫か」
「まあ、大丈夫です。たぶん」
冗談めかした口調に、アスターは小さく息を吐いた。
「篝、頼む。あいつを倒してくれ」
「看守長は?」
「少し……昔のことを思い出した。一人にしてほしい」
自嘲気味に、視線を伏せる。
「すまないな。上に立つ人間が、これでは……」
「……わかりました。任せてください」
篝は一度だけ、強く頷いた。
「零の方は、どうすれば?」
「ヤツを倒すまでは、協力関係だ」
一拍、間が空く。
「それと、篝くん。妹のことは、どう思う?」
不意の問いに、篝は一瞬だけ言葉を探したが、すぐに答えた。
「……愛しています」
迷いはなかった。胸に宿る決意が、全身にまで広がる。妹のために、そして未来のために、篝は今、全てを懸ける覚悟を固めた。
「僕のことを愛してくれたのは、人生の中で妹だけですから」
その言葉に、過去の後悔も不安も、全ては光のように消えていく。篝は握った拳に力を込めた。小さく息を整え、胸の奥で何度も自分に言い聞かせる。
「俺がやる……絶対に守る」
「……効いていないのか。殊夜のカースが」
「言われてみれば……」
篝は自分の手を見つめる。
「篝くん、私の部屋のデスクの鍵だ」
アスターは懐から小さな鍵を取り出し、篝に渡した。
「そこに、“アレ”がある」
「……わ、わかりました」
鍵を握りしめ、篝は立ち上がる。
その背を、アスターは黙って見送った。手癖のように握りしめた薬指が、白銀色に光っていた。




