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EP22『秩序と選択』

22『秩序と選択』

 

 気が付けば眠っていた。目を開けた瞬間、瞼の重さで、腫れていることを悟った。昨日から何も食べていない。というか、十三時間も眠っていた。朝七時の寒さを肌に感じながら、身支度を進める。

 もう感情は胸に戻っているのに、胸が空っぽみたいだ。

 朝食に向かう廊下で、彼の背中を見つけた。いつもなら走り寄る距離だったが、今日は違った。足取りが重く、その背中はやけに遠くに感じた。

 「……零」

 呼んでから、しまったと思った。

 名前が、思ったよりも小さく響いたからだ。聞こえていないのか、彼は立ち止まらない。

 一拍遅れて、ゆっくりと振り返った。

「どうした」

 それだけだった。心配も、戸惑いも、探るような視線もない。ただ事実を確認するための声。

 近づいた距離は、ほんの数歩。それなのに、壁があるみたいに感じた。

「一緒に、朝食……どうかな」

 言いかけて言葉が途切れる。続きが見つからなかった。彼は私を見ている。目を逸らさず、瞬きもせず。

 その視線に、責める色はなかった。だからこそ、余計に痛かった。

「必要なら、行けばいい」

「……え?」

「食事は生理的に必要だろう。それ以上の理由は要らない」

 淡々とした口調。正論で、合理的で、間違っていない。でも、その言葉のどこにも、私がいなかった。

「零ちゃんは……」

 言いかけて喉が詰まった。

「灯火くんは、行かないの?」

「俺は後でいい」

 理由は言わなかった。

 聞かれてもいないことを、説明する必要はない、という態度。私たちの間を沈黙が支配する。

 廊下の向こうから、食堂のざわめきが聞こえてくる。誰かの笑い声。トレイのぶつかる音。世界は、何も変わっていないみたいだった。

「……そっか」

 彼の表情は、変わらない。

 通り過ぎる瞬間、袖がかすかに触れた。

 変わらない柔軟剤の匂いが、遅れて鼻に届く。それが、懐かしいのか、嫌なのか。

 判断する前に、私は前を向いた。

 振り返らなかった。

 振り返れば、また何かを期待してしまいそうだったから。

 背中越しに、彼の視線を感じた気がした。

 でも、それが本当に向けられていたのかどうか、確かめる勇気はなかった。

 距離は、数歩。

 けれど、その数歩が、今の私には越えられない境界線だった。


 女の子達と朝食を摂ってから、空き教室の教卓の前に立たされていた。理由は分からない。ただ呼ばれたから、来ただけだ。

 教室には誰もいない。

 昼休みのはずなのに、妙に静かだった。造られた照明の光が、床に白く伸びている。

「落ち着いていますね、氷室未来さん」

 殊夜先生は、いつものように穏やかな笑みを浮かべていた。

 縦に長い帽子の影で、朱い瞳だけがやけに目立つ。

「最近の変化について、どう思いますか?」

 質問の形をしているのに、答えを求めていない声音。

「……よく、分かりません」

 正直な答えだった。

 感情は戻ってきているはずなのに、どこか手応えがない。触れた瞬間に、すり抜けていく。

「思い出はありますか?」

「あります」

「想いは?」

 そこで、言葉に詰まった。

 想い。

 その単語が、胸の奥で引っかかる。

「……分からないです」

 殊夜先生は、満足そうに頷いた。

「素晴らしい。とても健全な状態です。記憶と感情を分けて認識できている」

 健全。

 その言葉が、なぜかひどく冷たく聞こえた。

「灯火零君のことは?」

 その名前を聞いた瞬間だった。胸の奥で、何かが弾けた。

 ――零。

 一緒に過ごした記憶

 廊下で並んだ背中。

 眠くて不機嫌な朝の顔。

 映像が、洪水みたいに押し寄せる。

 息が詰まる。視界が、わずかに歪んだ。

 胸から溢れた思いを止められなかった。

 しかし言葉が見つからなかった。

 「……っ」

 膝に力が入らず、机に手をつく。冷たい木の感触が、現実を引き戻す。

「おや」

 殊夜先生の声が、楽しげに弾んだ。

「戻り始めましたか」

 戻る。

 その言い方が、癪に障った。

 違う。

 これは回帰なんかじゃない。

 思い出した。

 零ちゃんが、感情は合理的判断の邪魔だと言ったこと。

 氷のように冷たい目。

 他人を見るみたいな視線。

 胸が、はっきりと痛んだ。

 ――嫌だ。

 その感覚が、言葉になる前に、涙が落ちた。

 頬を伝う冷たさ。でも、今度は理由が分かる。

「……思い出しました」

 声が震える。それでも、目は逸らさなかった。

「零のこと、全部」

 殊夜先生は、ゆっくりと瞬きをした。

「記憶が戻っただけですよ。感情とは別です」

「違います」

 即答だった。

 自分でも驚くほど、はっきりした声。

「これは、感情です」

 胸の奥が、熱い。

 空洞だったはずの場所が、痛みで満たされていく。

 でも、不可抗力とはいえ、私もあんな態度をとっていたんだ。

 怖い。

 苦しい。

 頼りたい。

 大好きなあの人に。

 それでも。

「私は、零ちゃんを大切だと思ってます」

 言葉にした瞬間、頭の奥の痺れが、すっと引いた。

 ブレーキが、外れた。

「忘れてたんじゃない。切り取られてただけです」

 殊夜先生の笑みが、ほんの一瞬だけ、歪んだ。

「なるほど。自覚が、秩序を上書きした、と」

「秩序なんて知りません!」

 涙を拭わずに、言い切る。

「でも、これだけは分かります。感情があるから、苦しい。でも」

 息を吸う。

 胸が上下するのが鮮明にわかる。

「苦しいと分かるのは、そこに大事なものがあるからです」

 教室が、静まり返る。

 殊夜先生は、しばらく何も言わなかった。

 そして、ゆっくりと拍手を一つ。

「実に人間らしい結論です」

 その言葉を、私は受け取らなかった。もう、判断は済んでいるからだ。

 零ちゃんの背中を思い出す。遠く感じたあの距離。

 ――今度は、離れない。

 たとえ、また冷酷な判断を下されても。

 たとえ、秩序に否定されようとも。

 感情が戻った胸を押さえながら、私は確信していた。

 これは感情の回帰じゃない。きっと、私が選んだ叛逆の意志だ。

「【絶対零度】」

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