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EP20『境界線』

20『境界線』


 彼女は氷室未来。俺の大切な友人だ。忘れてしまわぬように、頭の中でずっと反芻した。それが功を奏したのか、俺はまだ彼女の存在を忘れていない。逆に言えば、いつ忘れてしまうかわからない恐怖がずっと胸を締め付けてくる。

 この異変は十中八九、あの沙華 殊夜という看守のせいだろう。しかし、打開策がこれっぽっちも思い浮かばない。いつもはすぐにでも出てくる作戦の数々が、今日はみじんも湧いてこない。理由ははっきりとしていた。

 今までずっと大切にしていた友人に、不意に忘れ去られてしまったからだ。この異変の正体が未だ掴めずにいた。”大切な人を忘れてしまう”という異変なら、未来が俺のことを大切に思っているということになるのであり得ない。俺も彼女のことを大切にしているのに、忘れていないのがその証拠だ。

 むしろ俺も、彼女のことを他人として扱った方が、忘れずに済むのではないか。しかしそう判断するには早計のような気もして、俺は未来に話しかけてみた。

「おはよう、未来」

「おはよう、灯火くん」

 その呼ばれ方に、冷たい汗が滲んだ。自然に振る舞いたかったのについ肩をこわばらせてしまう。

「その……大丈夫か?」

 打算も計算もない、純粋な心配からの言葉だった。

「うん、大丈夫だよ」

 ずっと一緒に過ごしてきたからか、それが虚勢であることがわかる。しかしそれを伝えたところで、「大丈夫だよ」と、文字通り心にもない言葉が繰り返されるだけだ。次に紡ぐべき最適な言葉が、見つからなかった。

 ”大切な人を忘れる異変”それは、俺が勝手に組み上げただけの理想だったのかもしれない。未来は俺を大切に思っていないから忘れたのではないか? だからこの胸の痛みは、ただの自意識過剰なのだろう。

 でも同時に、俺たちが一緒に過ごしたあの時間はなんだったのだろうかと思えてくる。

「最初に影響があったのはあなたたちのようですね」

 いつの間にか、沙華 殊夜は廊下の影に立っていた。足音はしなかった。気配だけが、遅れてこちらに届く。

「……どういう意味だ」

 俺が問うと、彼は楽しそうに帽子のつばを指で押し上げた。

「言葉通りですよ。忘却は無差別じゃない。順序があるのです」

「順序?」

「ええ。“大切な想い”から、順番に」

 胸の奥が、嫌な音を立てて軋んだ。

「天才と称されるあなたならば、彼女があなたへの感情を忘れた理由を、既に理解していると思っていましたが」

 ――感情。

「未来は、俺を大切に思っていない。それだけの話だ」

 即答だった。そうでなければ、辻褄が合わない。

 沙華は一瞬だけ目を細め、それから穏やかに笑った。

「なるほど。だからあなたはまだ、忘れていないということですか」

「……何が言いたい」

「いいえ、何も言うことはありません。私はただ、緩やかなる秩序の崩壊を、この目で見てみたいだけですので」

 そして沙華 殊夜はそれ以上何も言わず、影の向こうへと溶けていった。俺はその影の向こうを、暫く睨み続けていた。


 沙華殊夜が消えたあとも、廊下の空気は妙に重かった。

 未来は、何事もなかったかのように歩いていく。その背中を追いながら、俺は距離を測りかねていた。

 近づけば、彼女は一歩引く。

 離れれば、何も起こらない。

 境界線だ。何かが動き出す、境界線。見えない線が、俺と未来の間に引かれている。それは物理的な距離ではなく、もっと曖昧で、もっと残酷なものだった。

「灯火くん、どうかした? 私、今からトイレ行きたいんだけど、一人になりたくて」

 振り返った未来の声は、想像以上に柔らかい。だが、その柔らかさは、誰に向けられたものなのか、俺には分からない。

「いや……なんでもない」

 問い詰めたい衝動を、理性で押し潰す。今の未来に、答えを求める資格が俺にあるのか、分からなかった。

 教室に入ると、既に沙華殊夜はそこにいた。黒板に何かを書いているわけでもなく、ただ教卓に腰掛けて、こちらを見ている。朱い瞳が、俺を正確に捉えた。

「さて。今日は少し、授業の内容を変えましょう」

 ざわつく教室を一瞥し、沙華は続ける。

「秩序とは何か。皆さんは、そう問われたらどう答えますか?」

 誰も手を挙げない。

 沙華は、それを予測していたかのように、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「秩序とは“選別”です。守るものと、切り捨てるものを分けること」

 その瞬間、嫌な予感が背骨を伝った。

「すべてを救おうとする行為は、秩序ではありません。それはただの混沌です」

 朱い瞳が、再び俺を見る。

「そして、そこである裁定が必要になる」

 頭の中で、何かが音を立てた。

「例えば、感情。人は感情によって判断を誤る。ならば、感情を切り離してしまえばいい」

 この場に未来がいなくてよかった。この言葉を彼女が聞いたらどう思っていたのだろうか。

「失うのは、痛みでしょうか? それとも、幸福でしょうか?」

 沙華は笑っていた。貼り付けたような笑顔だ。

 だが、その笑みは問いではなく、既に答えを知っている者のものだった。

「灯火零」

 名指しされた瞬間、教室の音が遠のいた。

「もしも、あなたが裁定者の立場に立ったなら。秩序を守るために、誰か一人の“想い”を切り捨てることができますか?」

 視線が集まる。集まるようで、誰も俺を見ていなかった。

 ――答えられなかった。

 できる、と言えば嘘になる。

 できない、と言えば、この場で何かが確定してしまう気がした。

 沈黙を肯定と受け取ったのか、沙華は満足げに頷く。

「素晴らしい。迷いは、優秀な裁定者の条件です」

 胸の奥で、何かが燻ぶった。

 俺は理解してしまった。この異変は、始まりに過ぎないと。関係が断たれ、希望が断たれ、それでも世界は廻り続けるのだろう。それを“秩序”と呼ぶのなら。俺は、その秩序を壊す側に立たなければならない。

 たとえ、未来が完全に俺を「他人」として見る日が来たとしても。

 だから、俺は……。

 

 ***


 女子トイレに着いて私はようやく息を吐いた。

 静かだ。廊下のざわめきも、教室の声も、全部ここには届かない。

 鏡の前に立つ。そこに映っているのは、いつも通りの私だった。顔色も悪くないし、目の下に隈もない。泣いてもいない。取り乱してもいない。

「……私、変なの」

 一人声に出してみても、実感が伴わなかった。自分が変だ、という感覚だけが、輪郭を持たずに浮かんでいる。

 さっき、灯火くんが私を呼んだ。その瞬間のことを、頭の中でなぞる。

 名前を呼ばれて、振り返った。声を聞いて、顔を見て、言葉を交わした。

 全部、覚えている。

 でも、胸の奥が動かなかった。

 驚きも、安堵も、照れも。「近い」と感じるあの距離感すら、私にとっては恐怖でしかなかった。

 彼は確かに、私にとって大切な人だったはずだ。一緒に笑って、ご飯を食べて、背中を預けてきた。その事実は、綺麗に並んでいる。記憶としては、完璧なくらいに。

 なのに、それを思い出しても、心が追いついてこない。まるで写真を見ているみたいだ。そこに自分が写っているのに、どこか他人事で上の空。感情だけが切り取られた、他人の記録を見ているみたいだった。

「灯火くん……」

 名前を口にすると、少しだけ舌が重くなった。

 嫌悪でも拒絶でもない。ただ、馴染まない。呼び慣れたはずの名前なのに、今日初めて覚えたみたいな感覚。

 ――前から、こうだったっけ?

 問いが浮かんだ瞬間、頭の奥がじん、と痺れた。考えようとすると、無意識にブレーキがかかる。深く掘り下げてはいけない。理由は分からないのに、そう感じる。

 洗面台に手をつく。冷たい感触だけが、やけに現実的だった。

 私は、灯火くんに「一人になりたい」と言った。その言葉を選んだ自分に、違和感はなかった。

 でも、振り返らずに去っていく彼の背中を思い出すと、胸の奥の空洞が、少しだけ広がった気がした。

 ――今の気持ちは何と呼ぶのだろうか。

 悲しい、とは違う。寂しい、とも違う。

 ただ、何かが抜け落ちた音が、遅れて響いている。私は鏡の中の自分を見つめた。そこにいる私は、ちゃんと私なのに。

「……私、灯火くんのこと」

 言いかけて、やめた。

 続きを言葉にするには、材料が足りなかった。

 好きだったのか。信頼していたのか。

 それとも、もっと別の何かだったのか。

 分からない。

 分からないこと自体が、こんなにも怖いなんて知らなかった。

 チャイムが鳴る。

 時間だけが、容赦なく進んでいく。私はもう一度、鏡を見た。

 そこに映る瞳は、確かに私のものだ。でも、その奥にあったはずの何かが、見当たらない。

 理由も、原因も、分からないまま。ただ一つだけ、確かなことがあった。

 ――私は今、灯火零を「思い出せる」のに、彼を想うことがままならない。

 冷酷な現実だけが、秩序みたいに、静かに私を縛っていた。悲しくないはずなのに、私の頬には冷たい何かが伝っていた。

 その理由すらいつまでもわからないまま、私はトイレから出られなかった。

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