EP19『他人』
19『他人』
それはあまりに突然だった。時計の針が動かなくなるように、どこかへ消えていった。カルネ先生は私達に言伝もなく、遠くの監獄に転勤になった。零が言うには、左遷の可能性があるらしい。彼にしては珍しく動揺しているのがよくわかる。未来まで不安になってしまう。
担任がいなくなって秩序が崩壊した教室に、新しい風が舞い込んで来た。
その男は足音もなくやってきた。いや、正確には、クラスの喧騒にかき消されただけなのかもしれない。誰しもが教卓に目を向ける。穏やかな笑顔、縦に長い帽子、背が高く細身で整端な顔立ち。これは確実にモテる。未来はそう確信した。しかし、他の女子ほど心は動かなかった。なぜなら未来には、想い人がいるからだ。その存在を思うだけで、胸の奥が少しだけ熱を帯びた。
「突然ですが、今日からこのクラスの担任を受け持つことになりました。沙華 殊夜と申します」
吸い込まれるような朱い瞳は、私達の気を引くのに十分だった。
「カルネ先生は非常に生徒達に好かれていたと聞いております。誠に残念です」
すると、私達の優等生が口を開いた。
「あなたがカルネ先生を左遷させたのでは? 沙華先生」
「それは心外ですね。天才君。あなたは特にカルネ先生仲が良かったと存じ上げております。さぞかし情も深かったことでしょう」
二人の間で、見えない火花が散っている。恐らく,零ちゃんは沙華先生の腹の内を探ろうとしているのだ。
しかし、想定以上に何事もなく、その日の授業は終了した。ぶっちゃけカルネ先生よりもわかりやすい授業だった。零ちゃんは全く聞いていなかったみたいだけど。
異変が起こったのは、沙華先生が担任になってから一週間後のことだった。
それは、失うというより、切り取られる感覚に近かった。
***
名前はすぐに出てきた。
彼の名前は、灯火零。多分、何度も呼んだはずの名前だもの。
なのに、どうしてだろうか。目の前に立つその人を見ても、胸が動かない。
安心も、緊張も、あの高鳴りすらもない。ただの他人として、彼がそこにいる。
おかしい。
そう思った瞬間に、私は自分を疑った。
――疲れているだけだ。連日の叛逆の件で、頭がどうにかしたのだろう。
そうやって理由を貼り付ける癖は、監獄で生きるうちに身についたものだ。
「未来……」
名前を呼ばれて、反射的に顔を上げる。その儚げな声も、珍しく心配するような表情も、全部知っている。
でも、何も感じない。
この声を聞いたとき、私は何を感じていた?
信頼? 安堵? それとも、もっと別の何か?
いくら考えても答えが出ない。頭の中を、問いだけがぐるぐると回り続けた。
彼の顔を見つめてみる。
やっぱり違和感なんて見つからない。目、鼻、口。全部合っている。シャンプーの匂いだって変わっていない。
記憶は鮮明に刻まれている。一緒にいた時間も、会話も、叛逆の計画も。
――それなのに。
「……前から、こんな距離感だったっけ」
自分の声が、やけに他人行儀に聞こえた。
零は何も言わない。
ただ、少しだけ眉を下げた。
その表情を見て、はっきりと理解した。私は今、この人を大切だと思えていない。
忘れたわけじゃない。
失ったわけでもない。
ただ、感情だけが、抜け落ちている。胸の奥に、空洞がある。
そこに何があったのかは分かる。
でも、手を伸ばしても、もう触れない。
この「他人」に対して、微塵の興味も湧かない。
「……ごめん」
何に対しての謝罪かも分からないまま、そう言った。
そのとき、背後で誰かが笑った。
「不思議でしょう」
振り返ると、珠沙先生が立っていた。灯火零のような、貼り付けた仮初の笑顔。
「記憶はあるのに、情が湧かない。人間は、案外そんなことで他人に成り下がってしまうのです」
私は反論しようとした。でも、言葉が出なかった。
否定するための“想い”がもうそこには感じられなかったからだ。
灯火零を見る。
彼は、まだこちらを見ている。
どうしてか分からない。
理由も思い出せない。
それでも彼だけは、目を逸らさなかった。
その視線が、ひどく異物に見えて。
同時に、説明のつかない違和感が、胸の奥で疼いた。
――おかしいのは、私のほうだ。
その確信だけが、なぜか消えずに残っていた。
今度は、私の方から彼を見つめてみた。
それだけなのに、息が止まった。
近い。
近すぎる。
――前から、こんな距離だったっけ。
考えるより先に、足が動いた。
一歩、下がる。反射的にしまった、と思ったが、何がまずいのか分からない。
灯火零の眉がピクリと動き、その目は、悲しそうに虚空を見つめていた。多分、私を見ているんだろう。
その変化を見ているのに、胸が静かだった。
あまりにも、静かすぎた。心臓を失ってしまったのかと思うほど、何も聞こえない。
「ほんとに、ごめん」
声が出た。
言葉足らずだったかな、と名前を呼ぼうとして、やめた。名前の呼び方がわからなかったからだ。
呼ぼうとしても、頭の奥が、じんと痺れ、舌がついてこない。
私は、灯火零を見ている。なのに、ちゃんと見ていない。灯火零も、恥ずかしくなるくらい私を見つめている。
そう思った途端、私の見間違いだと気がついた。彼は私じゃなくて、私を通して虚空を見ている。
そして、彼の瞳に映った私の目もまた、何処か虚空を見つめていたのだ。




