EP18『目覚め』
18『目覚め』
保健室の寝具は、少し低かった。
トリネコは椅子に腰を下ろす前に、名札を外して机に伏せた。裏返すでもなく、正面のまま。文字が読める位置に置いたまま、椅子に座る。
それが癖だと気づいたのは最近だ。
向かいに座る天才は、看守でも囚人でもない顔をしていた。ここにいる理由を、どこにも貼りつけていない顔。トリネコはそれを見て、呼吸を失った。私の胸の奥で、何かが燻ぶった。
「率直に聞きます。僕たち”叛逆生”の一員に加わってくれないですか」
声をかけられても、すぐには返事ができなかった。
代わりに、机の角を指でなぞる。欠けている部分。前からあったのか、自分が来る前にできたのかは分からない。
「話す必要はない」
零はそう言った。
「俺は聞きに来ただけだ」
聞く。
その言葉が、ひどく遠回りに感じられた。
トリネコは息を吸った。正義を守るための呼吸。規則を乱さないための間。そうやって何度も、何もできなかった呼吸。
「……私は」
言いかけて、止めた。
言葉が、いつもの順番で並ばなかった。
夫がいなくなったことも、子を失ったことも、最近では「出来事」として処理できた。泣くより先に、整理した。崩れるより先に、役割に戻った。
守っていたのは、他人じゃない。
自分が立っていられる場所だった。
「正しい行いをしてきた」
ようやく口に出すと、その言葉は思ったより軽かった。
零は否定しなかった。代わりに肯定もしなかった。
「正しい行いは、トリネコ先生を助けたのですか?」
その一言で、何かが終わった。
トリネコは笑おうとして、失敗した。
笑顔の形を、忘れていたことに気づいた。
「助けられると思ってた」
ぽつりと零す。
「正義にいれば、少なくとも……間違ってはいないって」
零は目を伏せた。
同情でも軽蔑でもない、ただの沈黙。
「依存ですね」
零は目を瞑り、静かに言った。
「それは俺を洗脳したとき、俺に抱いた感情と同じものですね」
トリネコの中で、反射的に何かが跳ねた。
怒り。否定。拒絶。
でもそれらは、すぐに形を失った。
依存。
その言葉は、彼女の過去にぴたりと嵌まった。愛する人を失ってから、誰かに縋ることを、ずっと恥だと思っていた。
だから私は、正義に縋った。役割に縋った。規則に縋った。
それなら、誰にも見えないから。
零に向けていた感情も、同じだった。
それはもはや救いではない。
「居場所」をくれる存在への、歪んだ愛情。
トリネコは、名札に視線を落とした。
自分の名前が、そこにあった。偽名だが、これが本名だと信じたくて仕方ない。私はトリネコ・キルハート。過去はもう捨てたはずだ……。そのはずだった。
「私は……何もできなかった」
初めて、順番を崩して言った。
理由も、背景も、言い訳も抜きにして。
零は、ようやく私を見た。
「できなかったことを、数えるのは簡単だ」
そう言ってから、少し間を置く。
「でも、今できることは?」
トリネコは顔を上げた。その問いは、救いではなかった。代わりに逃げ道もなかった。
それでも、不思議と口が動いた。
名札を手に取る。今度は裏返した。
「私は、正義を疑う」
それは誓いでも宣言でもない。ただの選択だった。
「守れなかったものを、理由にしない。役割に、逃げない。誰かのためじゃなく……人間として、自分のために動く」
「それでこそあなたです。トリネコ先生」
保健室を出るとき、トリネコは一度だけ立ち止まった。
背筋を伸ばし、深く息を吸う。
正義は、私を救わなかった。でも、人間であることは、まだ終わっていない。
その事実だけが、静かに、確かに、私を前へ押していた。
私は叛逆生。シャンティ・コントルドだ。




