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EP17『喪愛』

17『喪愛』

 

 息子がいなくなってから一週間が経った。

 その日は、茹だるような暑さだったことを覚えている。しかし、そんなことはどうでもいい。ダブルベットの片割れには、もう枕すら置いていなかったからだ。

 空っぽになってしまった部屋は、思った以上に広く、そして冷たかった。シーツを替えようとして手を伸ばしたとき、指先がそこで止まった。彼が、彼らがそこにいないという事実が、布のシワよりもはっきりと、感触として残っていたからだ。

 洗濯機の回る音が、やけに遠く感じられた。家の中のすべてが、失ったことを知っているようで、知らないふりをしているようでもあった。

 夫は、あの日以来戻ってこなかった。玄関に残された靴跡も、洗面所に転がった歯ブラシも、秒針が刻一刻と、残酷に消していった。置き手紙ひとつなかったことが、彼らしいと思う一方で、その不在は息子の不在とは違う重さで胸にのしかかった。

 怒りよりも先に、空白があった。それは理由を考える余地すら奪われるほどの、無音の逃避だった。

 台所に立つと、三人分の味噌汁を作ろうとしてしまう。鍋に水を注いでから、慌てて蛇口を閉める。そのたびに、自分がまだ「前の時間」に生きていることを思い知らされる。秒針は刻一刻と進んでいるのに、心だけが取り残されていた。

 夜になると、息子の声が聞こえた気がした。もちろん、幻だとわかっている。それでも、耳を澄ませずにはいられなかった。「ママ」と呼ばれることはなく、ただ、存在だけがそこに漂っているような感覚だった。

 それからというもの、眠りは浅く、夢の中でも失った物を探し続けていた。何を、どこを、という輪郭はなく、ただ「失ってしまったもの」を。

 母である私は、どこで間違えたのだろう。問いは答えを伴わず、同じ場所を円環上にぐるぐると回る。答えが出ないことを、もう知っているのに。

 それでも、眩しい朝は来る。カーテン越しの光が、残酷なほど平等に部屋を照らす。たった一人の、広すぎる部屋を。

 まだ、泣き方を思い出せずにいた。涙は枯れたわけではなく、出口を見失っているだけだった。

 そしてただひとつ確かなのは、この家に残された静けさが、彼女自身の呼吸と同じ速さで、これからも続いていくということだった。

 

 それから数か月が過ぎた。季節は移ろっていたが、私の中では、息子がいなくなった日から時計が少しだけ狂ったままだった。朝と夜の境界線が曖昧で、何をしても「ただ時間をやり過ごしている」感覚が消えなかった。

 そろそろ、働かなければならなかった。理由は単純で、生活のためだったが、それだけではなかった。何もしない時間が、私にはあまりにも重すぎた。考え始めると、心はすぐに同じ場所へ戻ってしまう。だから、考える暇のない場所を探していた。

 求人票の束の中で、視線は一枚の紙に留まった。

 白地に黒い文字で、感情の入り込む余地のない言葉が並んでいた。

 なぜそれに惹かれたのか、自分でもはっきりとはわからない。ただ、監獄という「閉ざされた場所」に、奇妙な安堵を覚えた。逃げ場のない空間。規則で区切られた時間。そこでは、感情よりも役割が優先される。母でも妻でもなく、ただの一人の職員として立てる場所。

 夫が去って以来、彼女は「守る側」である自分を失ったままだった。守れなかったという思いが、胸の奥で固まっている。看守という仕事は、その失われた役割を、形だけでも取り戻せるように思えた。誰かを正しく導くわけでも、救うわけでもない。ただ、秩序を保ち、日常を維持する。その距離感が、彼女には必要だった。

 研修の日々は、淡々としていた。法律、規則、対応手順。感情を持ち込まないことが、何度も強調された。その言葉は、彼女にとって戒めというより、「許容」のように響いた。感じなくていい。深入りしなくていい。それでいいのだと。

 

 初めて制服に袖を通した日、鏡の中の自分は、少しだけ他人に見えた。黒い布に包まれた身体は、過去を隠してくれる鎧のようだった。名札に刻まれた名字を見て、彼女は一瞬、呼ばれることのない息子の名前を思い出し、すぐに視線を逸らした。

 その日から私は、「シャンティ・コントルド」とう姓名を棄て、「トリネコ・キルハート」として生きるようになった。

 施設の中は、いつも一定の温度と音に保たれている。鉄扉の開閉音、足音、号令。すべてが規則正しく、感情の入り込む隙間がない。彼女はその秩序の中で、ようやく呼吸ができるようになった。【服従】という魔法を武器にしてきた私は、猫に睨まれたネズミのように、上司に従うようになった。

 看守になった理由を誰かに問われたことはない。問われたとしても、きっと答えられなかっただろう。

 それは贖罪でも、使命でもない。ただ、崩れきった自分が、立っていられる場所がそこにあったという、それだけのことだった。

 鉄格子の向こう側とこちら側。その境界線を毎日確かめるように歩きながら、私はまだ、自分が何を失い、何を抱え続けているのかを、言葉にできずにいた。それでも、眩しい朝は来る。ここは陽射しが微塵も通らない監獄教育機関。照明によって造られた陽射しは、実物のそれより眩しかった。

 もうあの家に帰ることはないのだろう。

 制服に腕を通し、名札をつけ、私は今日も扉を開ける。

 呪い方を知らない幼子に、呪いを封じ込めるよう教育する。

 誰かを呪わない様に。

 私のように、誰かを呪わない様に。

 それが、私の使命だ。

 


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