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「お呼びでしょうか、ロゼッタ妃」
エリーと改めて顔を合わせるのは、「出て行って」と声を上げて以来、初めてのことだった。若干の気まずさが、部屋の空気を重くしているように感じた。
「ええ、そこに座ってくれるかしら?」
「……はい」
何かを感じ取ったのか、エリーは少し緊張した様子で頷くと、静かにこちらに歩み寄り、私の正面の椅子に腰を下ろした。
「あなたを暫くの間、私の侍女から外そうと思うの」
一拍、間を置いてから告げると、エリーのエメラルド色の瞳が動揺に揺れる。
「その……ロゼッタ妃、私は何か間違いを犯してしまいましたでしょうか?」
「まさか! あなたはこのサファイア宮で、一番私に良くしてくれたわ。だから、暫くの休暇をあげるから、実家でゆっくり休んだらどう?」
「それはもちろん有難いのですが……その間、ロゼッタ妃の侍女は誰が務めるのでしょうか……」
「ディアナというメイドは、どうかしら?」
その名を出した瞬間、エリーの肩がわずかに揺れた。
目を逸らすように伏せる仕草は、まさしく「図星」と言っているようなものだった。
「……ロゼッタ妃。メイドの身分で、無礼承知で申し上げさせていただきますが……ディアナだけはやめておいたほうがいいかと思います」
「まあ、どうして? 彼女は仕事も丁寧で優秀な子のようだし、家柄も申し分ないと思うのだけど」
笑顔を絶やすことなく、努めて穏やかに言いながら私はエリーの様子を注意深く観察する。
彼女は目を逸らし、唇をきゅっと引き結んでいた。
人間というものは本当に情けないもので、その人間の性質には癖があり、それはどれだけ優秀な人間であっても自分の意思の元で隠しきることは出来なかった。自然と出てしまうもの。それが癖なのだから。
エリーにもまた、癖があった。彼女は言いたいことがあっても、言うことができない時に下唇を噛む癖があった。
私が出て行けと言い出した時だって、同じ行動を取っていた。あの時だって本当は何があったか問いただしたかったのだろう。
昔から人の顔色を伺って生きてきたせいか、私は人の癖を簡単に見抜くことができるようになっていた。
「……どうしても、です」
「あなたらしくないわね。いつものあなたは冷静に論理的に話すことが出来る人間じゃない。私はあなたのそういう部分を気に入ってたのよ。だからほら、教えてちょうだい。どうしてディアナはダメなのかしら?」
「…………」
(ふむ……これでもまだダメなの?)
エリーにとって、それほどまでにディアナが大切なのだろうか。
レアは、エリーとディアナが腐れ縁であったと言っていたけれど……友人という存在が、感情を強く揺さぶり、行動に制限をかけるほど大切なものなのだろうか。
これまで友人と呼べる人間が一人も居なかった私にとって、それは想像もできないことだった。
「ここは私の部屋です」
戸惑うエリーに、私はさらに言葉を重ねた。
「ここ、サファイア宮は私の夫、ルイス皇子殿下の所有する宮殿。そして、ルイス皇子殿下が国を離れている間は、サファイア宮の管理権限は全て妃である私に委ねられているわ。……この階には、あなたと私以外が来ないよう指示を出してある。階段には護衛騎士を立たせてあるから、誰もここへ来れないわ。つまり、ここで話すことはすべて、私とあなたの間だけの秘密ということ」
私は、いつものようにずっと上げたままだった口角を下げ、真っ直ぐにエリーの緑色の瞳を見つめた。
「もう一度あなたに聞くわよ、エリー」
「……ロゼッタ妃」
「どうして、ディアナというメイドを私の傍においてはいけないのかしら?」
ここまで言えば、賢いエリーはすぐに気が付くことが出来るだろう。
エリーは視線を落とし、無言のままスカートの裾をぎゅっと握り締めた。
そして、長い沈黙の末、ようやく口を開いた。
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「失礼いたします」
にこやかな笑みを浮かべながら、私に向かって頭を下げたディアナ。
茶色がかった黒髪を揺らし、どこかの誰かさんを思い出すような真っ赤な瞳が私を見つめる。
私は彼女の言葉に、優雅に頷いて見せた。
「よく来てくれたわね、ディアナ。今日はあなたに頼みたいことがあって呼んだのよ」
「ロゼッタ妃が私に頼み事……でしょうか?」
「ええ。エリーが実家に帰省中なのは知っているわね? その間、あなたに私の侍女の代理をお願いしたいの」
「私にですか?」
驚いたように目を見開いたディアナ。困惑はしているようだが、満更でもなさそうだ。それどころか喜んでいるようにも見える。
「そうよ、ダメかしら?」
「とんでもございません! 光栄です、ロゼッタ妃。全身全霊を尽くし、ロゼッタ妃にすべてを捧げて見せますわ!」
「わあ~本当に? とっても嬉しいわ、ありがとう」
意気揚々と声を上げたディアナの両手を握りしめて、これでもかと満面の笑みを浮かべた。
(そりゃあ嬉しいでしょうね。真の主人の役に立てるのですから)
思惑を消して悟られぬように、全て笑顔の仮面で覆い隠してしまう。
「それじゃあ早速だけど、お茶を淹れてくれるかしら?」
「もちろんです! お茶を淹れるのは得意なので、ロゼッタ妃にもきっとご満足いただけるはずですわ」
「あら、それは楽しみね」
ティーセットを手際よく並べ始めるディアナの後ろ姿を見ながら、私は上がっていた口角を更につりあげた。
「そういえば、皇后陛下も紅茶が好きらしいわね。だから紅茶を淹れるのが得意なあなたを傍に置いたのかしら?」
私が何気なさを装って問いかけると、ディアナはぴたりと肩を揺らし、しかしすぐには振り返らず、わずかな間を要して、返事をした。
「まあ、突然どうされたのですか?」
「うん? だってディアナ、あなたは以前ルビー宮に居たのでしょう? 皇后陛下は随分とあなたを気に入っていたとか」
「……よくご存じなのですね。ロゼッタ妃は、あまり宮の人事などに興味を持たれないかと勝手に思っておりました」
「まあ、そんなふうに思っていたの? ひどいじゃない」
「申し訳ありません……。はい、ロゼッタ妃の言うとおり、少し前までルビー宮で働いておりました」
「やっぱりそうなのね⁉ それじゃあ、あなたはもしかして皇后陛下が私を想って送ってくださったのかしら!」
私は声を弾ませ、両手を胸の前で合わせて、嬉しさを隠せない少女のように大げさな仕草で喜びを表した。これでもかと目をキラキラとさせていると、ディアナの唇が一瞬だけ引きつり、すぐに作り笑顔へと塗り替えられた。
「残念ながら私は、あくまで人事異動として来ただけですわ」
「まあ、そうだったの……」
私はぱっと笑顔を消し、眉を下げてみせる。
ここまですれば、私は彼女から『頭がお花畑のバカな妃』として認識されたことだろう。
案の定、ディアナは油断したように「はい」と応じ、無防備な笑顔を浮かべて顔だけこちらに振り返った。
「それじゃあ、あなたが私の筆跡を真似て、この署名をした理由は?」
私は笑顔を崩さぬまま、一枚の書類を掴み、軽く持ち上げて見せつけるようにディアナへと差し出した。
振り返った彼女の視界にその紙面が入った瞬間、ぴたりと動きが止まる。
「……なんのことか、私にはまったく……」
か細い声が、ディアナの口から零れ落ちた。
「誤魔化したって無駄よ~。この書類、ルイス皇子の出発の前日に提出されたものだそうね? 手が早すぎてびっくりしちゃったわ」
私は柔らかく微笑みながら、真っ直ぐに彼女を見つめた。
その眼差しに晒されたディアナは、まるで逃げ場を失った小動物のように瞳を揺らす。
「あなたの言うとおり、私ってあまりあなたたちに興味がないの。仕事も最低限のことだけして、あとはダラダラ過ごしていたい。だけど、自分に牙を向けられてまで大人しくはできないのよ」
「この書類が提出されたあの日、あなたが財務部へ行っていたという目撃情報が何人かあがっているわ」
「私はあなたに財務部へ行けと命じた覚えはないはずなのに……まさか、本当の主人に何かを命令されでもしたのかしら?」
――パリンッ!
静寂を切り裂く鋭い破砕音。
ディアナの手からポットが滑り落ち、床に叩きつけられて砕け散った。
「まあ、大丈夫?」
私が穏やかに声をかけると、ディアナは大きく肩を震わせ、すぐに慌てたように膝をついた。
ぎこちない動作で破片を拾おうとするその手は震えが止まらず、焦りに満ちた様子が痛々しいほどに露わになっている。
私はゆるりと歩み寄り、彼女の横に並んで腰を落とした。その瞬間、彼女が差し出したのは左手だった。
「……あら、あなた左利きなのね」
「え」
短い声が裏返り、顔を上げた彼女の瞳が大きく見開かれる。
「意図せず、とっさに利き手を出すのは無意識な人間の癖よ。人は、そう簡単に自分の習慣からは逃れられないもの」
「…………」
「だけど不思議ね。部屋に入ったときも、扉を開けるときも、お茶を淹れるときも……あなたは右手を使っていた。周囲の人だってあなたを右利きだったと言っていたわ」
「偶然ではないでしょうか。私は本当に右利きですし、今は偶然左手が出ただけで……」
私はゆっくりと立ち上がり、目を細めたまま、彼女を見下ろすように歩み寄る。
「ディアナ・ソレリア子爵令嬢。ランドルフ・ソレリア子爵と、エイミー・ソレリア子爵夫人の娘。ソレリア子爵家の三女で、上には兄が一人、姉が二人、弟が一人。……そして、あなたの母――旧姓エイミー・アランダ。アランダ男爵家のご息女で、システィーナ王国の出身」
「一体、どこまで調べて……?」
今にも泣きそうな潤んだ瞳でこちらを見つめ、掠れた声でそう問いかけてくるディアナ。
「そんなに怯えないで。あなたの母親がシスティーナ王国の出身であるなら、アスタリア帝国の人々よりも左利きである可能性は高いわ。遺伝的な要因も、文化的な背景もね。だからこそ、ヴィヴィアン皇后は左利きのフリができるあなたにこの役目を与えたのかもしれない」
静かに、しかし決して逃れられないような声で言うと、ディアナの肩の震えが増す。
「これ以上、あなたを問い詰めるのも気が引けるのだけれど。このサファイア宮の真の持ち主であるルイス皇子殿下が帰ってくるまでに、預かった私がすべての膿を出しておかなくてはならないの」
ディアナは何も言わなかった。
その沈黙に、私は最後の問いを静かに投げかけた。
「さあ、答えなさい。一体誰の指示で、私の筆跡を偽造したの?」
重苦しい沈黙が部屋を満たす。
時計の音すら聞こえそうな静けさの中で、彼女の唇がかすかに震える。そして――
その場にひざをつき、ディアナは深く頭を垂れた。
「……ヴィヴィアン、皇后陛下です……」
その言葉が落ちた瞬間、私の胸の奥で氷のような感情が静かに広がっていった。
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