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「ルイス?」
不意に背後から呼びかけられ、手に持っていた便箋を慌てて伏せる。
振り返ると、そこには親友のアレックスが立っていた。
皇子である彼のことを呼び捨てにできる者はこの場にアレックスしかいないため、名前を呼ばれた時点でその声の主が誰なのかはもちろん分かっていたのだが……。
「うん? なんだよ、その顔は」
「いや、別に。……ところで、どうして戻ってきたんだ? あいつらのところに行ったんじゃなかったのか」
「ああ、これを渡すのを忘れてたんだ。エンディミオンから手紙が届いてたんだよ。どうやら、ただの軍事書類じゃないみたいだぜ」
「エンディミオンからだと?」
予想外な名前の登場に少し驚き、手紙を受け取ると急いで封を開ける。
「ルイス、手紙にはなんと?」
「……サファイア宮の予算についてらしい」
「予算? お前が戦場に出てるんだから、使う必要なんてないはずだろ」
「いや、今は僕の妻が住んでいるはずだ」
「妻っていや……あのシスティーナの姫か」
頭の中に、結婚式の日、どこか居心地悪そうにしながらも健気に「楽しい」と笑っていたロゼッタの姿が浮かぶ。
「まさか姫君が予算を使いまくってるのか? 式の日に会った限りじゃ、そんな人には見えなかったが……」
「システィーナの王妃が子供たちの中でも一番可愛がっていた姫だ。少しの贅沢くらい許してやっても構わないだろう」
「へぇ? お前にしちゃ随分甘いな。倹約家で有名なルイス皇子殿下のくせに」
「僕自身は金を使うことがないからな。それに、彼女は貢女同然でアスタリアに送られてきたんだ。贅沢くらい好きにさせてやればいいだろう。それはエンディミオンにも伝えてある」
「じゃあ、なんでわざわざ手紙を?」
「ああ、それが僕も気になって……」
言葉を濁しつつ、便箋へと視線を戻す。
数行を読み進めた瞬間、信じられないその内容に表情が固まった。
「これはまた……面倒なことになったな」
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
「アンタも本当にマヌケよね」
静寂を裂くように、甲高い少女の声が響いた。
(まさか、喧嘩?)
口元を両手で押さえ、少しの音もたてないように息を殺し、棚の陰に身を潜める。
食事を抜いたせいで眠気が訪れず、なにか食べようと考えた私は食糧庫へと忍び込んでいた。
本来ならば部屋の前に立っているはずの護衛騎士はどうやら交代時間だったようで、窓から抜け出す手間が省けた。
暗がりの中、棚を漁って手にしたのは大好物のチョコレート。
誰か来ないか警戒しつつ、こっそりと甘いチョコレートを食べていると、突然人影が現れ、私はとっさに棚の陰へ身を隠したのだった。
「ディアナ。悪いけど、私はどれだけ説得されようとも、ロゼッタ妃を裏切ることはできないわ」
耳に飛び込んできた自分の名に、思わず身体がピクリと跳ねた。
(ディアナ? そんな名前の使用人いたかしら)
夜の食糧庫はしんと静まり返り、かすかなランプの明かりだけが棚の隙間を照らしていた。
その中で耳に届く会話は、いつもの何気ない使用人同士のやりとりとは明らかに違っていた。
(というより、この声はもしかして……)
「エリー、私はアンタを想って誘ってあげてるのよ?」
名前が飛び出し、疑念が確信へと変わる。
やっぱり、2人の声のうち1人は私の専属メイドのエリーだ。
「第一皇子と第二皇子。側室の子と、皇后の子。どちらに着くべきか、少し考えれば分かることでしょ?」
「だけど、ルイス皇子様率いるアスタリア軍は今、北部戦争で優位に立っていると聞くし、もし戦争にさえ勝てば、ルイス皇子様は皇帝陛下から寵愛を受けることになるわ。そうなれば、きっと……」
「そうなったらなったでまた乗り換えればいいのよ。分かる? 今はとりあえず、皇后様に媚びを売ることを考えなきゃ行けないの。アンタの家族だって、きっとそれを望んでる」
「だからって、ロゼッタ妃の名誉に関わることをしていい訳じゃないわ!」
「はあ……相変わらず、その偽善者な性格は変わってないのね」
エリーと、ディアナと呼ばれるメイドの会話が続く度に胸の奥に冷たいものが広がっていく。
棚の影に隠れたまま、私はそっと唇を噛んだ。
血の味がじわりと滲み、甘いはずのチョコレートの香りさえ遠のいていく。
「偽善とか、そういうものではなくて……私はただ……」
「ハア! おバカなエリーちゃん。昔からアンタは本当にマヌケな子ね。私がいなきゃ、何も出来ないんだから、ただ頷いておけばいいものを」
「…………」
「フン、まあいいわ。どちらに着くべきか、よく考える事ね」
最後にその声が響くと、ヒールの鋭い音が静まり返った夜の廊下に乾いた残響を残しながら遠ざかっていった。少し遅れてエリーの足音もそれに続いた。
再び訪れた静寂に、私は長く息を吐き出した。
全身から力が抜け、棚にぐったりともたれかかる。
心臓の鼓動がなおも早鐘のように鳴り続け、耳の奥でうるさく響いていた。
「やっぱり、私の味方はチョコレートだけね」
苦笑を浮かべて、手のひらに残ったチョコレートをそっと口に運ぶ。
とろける甘さが舌に広がると同時に、胸の奥に残った苦さがよりいっそう際立った気がした。
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
「ごきげんよう、ロゼッタ妃」
「……エンディミオンさん」
控えめな声で名を呼ぶと、彼はまっすぐに私を見つめたまま深々と頭を下げた。
「どうか、あまり警戒なさらないでください。……いや、以前お目にかかった折には、大変無礼を働いてしまいましたから当然とも言えますが。理性を失い、皇子妃に対してあのような振る舞いをしたこと、深くお詫び申し上げます。事が済み次第、どのような処罰もお受けする所存です」
「ど、どうか顔をあげてください!」
これは夢か、まことか。
目の前で頭を深々と下げるこの男は、本当にあのエンディミオン・ボルジアンなのだろうか。
かつてはあからさまな敵意を隠そうともしなかった男が、今は謝罪の言葉を口にしている。その変化に私は少なからず戸惑いを覚えていた。
あの冷ややかな眼差しを思い出すと、目の前の人物が同じ人間だとは到底信じがたかったのだ。
予算の相談で財務部を訪ねたあの日から三日が経った頃、サファイア宮に来客者が訪れた。
しかもその来客者というのが、これでもかと私に嫌悪を見せていた、忠実なる第一皇子の家臣、財務部部長のエンディミオンだったのだ!
「……その、本日はどういったご用件で?」
何かまた言われるのかと心配げに尋ねると、エンディミオンは背筋を正し、低い声で答えた。
「お知らせすべきことがあり、参りました」
その声音は先ほどまでの謝罪よりもさらに硬く、職務としての緊張がにじんでいた。
緊張のあまり、息を呑む私を前にエンディミオンは懐から丁寧に封をされた書類を取り出した。
「ロゼッタ妃がこれまでに記されたご署名と、先日税務部に提出された書類に記されていた署名。両者の筆跡を照合を行ったのです」
「筆跡照合……ですか?」
「はい。確かに一瞥した限りではとてもよく似た筆跡ですが、専門の者に見せれば微かな違いも分かるでしょう。それに加え、魔力探知者にも確認させるつもりです」
「魔力……」
「魔法使いでなくとも、人は皆、固有の魔力を生まれ持っているものです。その大きさや、使い方を知らないだけで。ゆえに、この書類にも筆記の際に纏わせた筆者固有の魔力の痕跡が僅かとはいえ必ず残されているはず。アスタリア帝国の人間が残したものか、あるいはシスティーナ王国の王女であるロゼッタ妃ご自身のものかは、すぐに分かるはずです」
エンディミオンの言葉のひとつひとつに、胸の高鳴りが抑えられなかった。
私が向けていた視点と、まるで違っていたから。
私は自分に牙を向ける相手が誰なのか、そればかりを考えていたけれど。彼は私の言葉を信じて、私の身の潔白を証明しようとしてくれていたんだ。
「本来ならば、初めからこうするべきだったのです。対処が遅くなり、申し訳ございません」
確かに、彼の言うとおり書類に私の署名が記されていれば誰だって疑いなく信じてしまうだろう。その署名が本当に私自身のものかどうかなんて誰が確かめるだろうか。
「ありがとうございます……エンディミオンさん」
気づけば、自然と感謝の言葉が口をついていた。
無礼を働かれたとはいえ、謝罪の言葉も貰ったし、彼が行ってくれなければ魔法学が浅いシスティーナ王国で育った私は、そんなことに気づくことすらできなかっただろう。
「礼は俺にではなく、ルイス皇子殿下にどうぞ」
「……どうして皇子に?」
高揚としていた胸が一気に冷え切ったように感じた。
あまりにも意外な名前の登場に、私は思わず問い返してしまう。
エンディミオンは私の言葉に目を丸くさせると、何やら考え事をする素振りを見せた後、すぐに「何でもありません」と話をそらしてしまった。
(まさか、エンディミオンさんはまた何か勘違いでもしているのかしら?)
そう思えてしまうほど、明らか様に私に好感を抱いているように思えた。
忠誠を誓っているという私の夫までとはいかないが、それでもはっきりと感じ取れるほどの好意が買いまみれたのだ。
ぐるぐると回る思考を押さえるように、コホンと咳ばらいをして、私は再度口を開いた。
「えっと、筆跡確認でしたよね? それでしたら、前に書いたものを探して……」
「その必要はありません。ルイス皇子殿下より送られてきておりますから」
「……はい?」
エンディミオンが懐から取り出し、私に向かって差し出したもの。
それは以前、私が夫に向けて書いた手紙だった。
中心部にはルイスの名を書いており、裏側の右下には私の名前が書かれている。
「これをどうしてエンディミオンさんが……!」
「ご安心ください。俺が頂いたのは封筒だけで、中身は見ていませんから」
右手を胸の前に置き、目を閉じてやけにキラキラとしたオーラを放つエンディミオンを前に、私は今にも頭を抱えて叫びだしたい気持ちだった。
(ああ、もうっ! そう言う話じゃないのよ!)
エンディミオンがこの封筒を持っている。つまりは、この封が開けられた封筒の中身をルイスが見ているということ。
あの、私が書いた手紙とは到底言えない、皇族侮辱罪に引っかかるどころか、飛び込んでいるほどの言葉の数々を……。
「まさかお二人が手紙を送り合われる関係だとは思っておりませんでした」
「誤解です! 私たちは確かに夫婦ですが、けして良い仲とは――」
「ああ、本当に俺は大馬鹿者です。お二人の熱く繋がれた絆を知らず、何ということを言ってしまったのでしょう」
「だから……!」
「皇子殿下からには、かなり叱られたものです」
私の言葉を遮りながら、感激だとでもいうかのように羨望のまなざしでこちらを見つめるエンディミオン。
(ああ、もうそういうことでいいです。もう、何でもいいわ……)
何を言っても無駄だと感じた私は、そこからは何も言い返すことなく口を塞いだ。
「ロゼッタ妃には、どれだけ謝罪しても足り切りません」
「貴方の立場で考えれば私を嫌悪するのも当然ですから。そう自分を責めないでください」
そう口にしながら、自分の言葉が少し苦く響いたのを自覚する。
たとえ正論であっても、相手に誤解されていた事実は決して気持ちのいいものではない。
「ルイス皇子殿下には多くの敵が付きまとっています。今回の件も、財務部に書類を持ってきた使用人が誰であったか特定できればよいのですが……税務部には日々多くの人が出入りしますし、サファイア宮は他の宮に比べて使用人が少ないとはいえ、大勢いる使用人の中から一人を見つけるのは容易ではありません」
「エンディミオンさん。その使用人のことなら、心当たりが一つあります。その件については、私にお任せいただけないでしょうか?」
「……承知しました。では、その件は妃殿下にお委ねいたします」
エンディミオンは私の言葉に、一瞬驚いたように栗色の目を丸くさせたが、すぐに表情を戻して、了承してくれた。
「ありがとうございます」
「いえ。それでは、俺はこれで失礼します」
「ええ」
踵を返したエンディミオンが扉へと歩みかけ――ふと、思い出したようにこちらに振り返る。
低い声ながらも、確信に満ちた響きを帯びた声で言った。
「ああ、それと……このアスタリア帝国で、一番に貴女様のことを考えておられるのは、ルイス皇子殿下だと俺は思いますよ」
……彼なりの慰めの言葉なのだろうか。
あの男が私のことを考えてくれているとは到底思えないけれど、それでも極限状態に置かれている今、たとえ根拠のない言葉であっても不思議と心がほどけるような安らぎを覚えてしまう。
ああ、人間というのはなんと弱いものなのだろうか……。
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
「レア、今少し時間あるかしら?」
「はい? 如何されましたか、ロゼッタ妃」
「このサファイア宮に、ディアナという名前のメイドはいるかしら?」
「ディアナ……ですか? ディアナなら、つい最近サファイア宮に派遣されたメイドです。確か、所属は――」
私の問いかけに、メイドのレアが答える。
この子は仕事ができ、容量も良い子で、余計な噂話に加わることもなく仕事場と私情をきっちり切り分ける性格。だからこそ、彼女は今この状況で最も信頼できるメイドのひとりだった。
「そうなのね。教えてくれてありがとう。それじゃあ、ディアナとやけに親しくしている人物はいる?」
「共に新しく配属された使用人たちの中に、何人か。……ああ、そう言えばロゼッタ妃の侍女であるエリーさんとも親しそうでしたね。なにやら、腐れ縁というやつらしいです」
やはり、ディアナというメイドの名前に心当たりがなかったのは気のせいではなかったようだ。
レアによると、彼女は新しくサファイア宮に配属されたばかりのメイドで、それ以前はルビー宮に勤めていたという。
ルビー宮――そこは、ヴィヴィアン皇后が住まう宮殿。皇后宮だ。
私にはこれが、単なる偶然だとは到底思えなかった。
ルイス皇子をこの世の誰よりも恨み、金印を簡単に扱える人物。一番に思いついたのは、ヴィヴィアン皇后だった。
ディアナだけではない。改めて考えてみると、近頃、見覚えのない使用人たちが増えているように感じていた。まだここに来て日が浅かったから、ただの気のせいかと思っていたが、どうやら間違いだったようだ。
まさか、ヴィヴィアンが自分の息が掛かった使用人たちを送り込んだのだろうか。
使用人を増やすなんて話、私は一度だって聞かされていない。
仮にもこのサファイア宮の主人であるルイスが居ない今、管理は妻である私に全て任されているのに。
さては、小国の姫である私が偉大なる皇后陛下に逆らえないとでも思って好き勝手やっているのかしら? ……まぁ、そのとおりなんだけど。
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