32
心臓が早鐘のように鳴り響き、頭の中は混乱していた。
気が付けば、考える前に足が勝手に動き出していた。
一人になりたい、それだけを願って。
たどり着いた先。それは、ルイスが私に贈ってくれた庭園だった。
淡い色合いの花々が風に揺れ、夜風が心地よく頬を撫でる。
「はあ……」
静かな庭園の中で、私はふと足を止める。
目の前に咲く花に手を伸ばし、そっと摘んだ。それを鼻先に持っていき、芳しい香りを吸い込む。どうにかして、心を落ち着けたかった。
(何を動揺しているのよ、ロゼッタ。なんてことないはずじゃない。こんなの、初めてのことでは無い)
それなのに、どうしてこんな気持ちになってしまうのだろうか。幸せな生活を送っていたせいで、体が馴染んでしまったのだろうか。
この庭園は、彼が私にくれた愛そのもの。
ルイスはいつだって、私に愛情表現をしてくれる人だから、その度に私は調子に乗ってしまっていた。その、罰なのかもしれない。
左手に目を落とすと、かつてそこにあった傷はまるで何もなかったかのように綺麗に癒えていた。
「会いたいな……」
ぽつりと漏れた言葉。
会いたい、そんな簡単な言葉がこんなにも胸を締めつけるとは思わなかった。
頬が熱を持ち、ヒリヒリと痛むような感覚が広がる。
「はやく、帰らなきゃ」
自分に言い聞かせるように小さく呟き、目を閉じる。深く息を吐いて、胸の痛みを無理やり押し殺した。
いつ人が来るかわからない。もし誰かに見られて変な噂が流れたら、面倒だ。
――はやく、帰ろう。
心に言い聞かせながら、私は花をそっと元の場所に戻し、庭園を後にした。
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
「ロゼッタ?」
「あら、ルイス皇子殿下。どうされたのですか? ロゼッタ妃のお部屋にいらっしゃるなんて」
「彼女はどこにいる」
ロゼッタの部屋に来たルイスは、部屋を見渡し彼女が居ないことに気づき、その場に居た使用人のエリーに彼女の行方を問う。
「ロゼッタ妃なら、既に寝室にいらっしゃいますよ」
「……夕食もまだなのにか?」
ルイスの眉が僅かに動いた。
食べることが大好きなロゼッタが食事を抜くなど、滅多にないことだ。
「はい。どうやら、お疲れの様子でしたので」
エリーは言葉を選ぶように答える。
次の瞬間、ふと思い出したように続けた。
「あっ、そうだ。ロゼッタ妃から伝言があります。今日は、寝室を別にしてほしいと……」
エリーが口を開くものの、すぐに気づく。
「って、もう居ないし……」
エリーが気が付いたころには、そこに居たはずのルイスの姿は既に無くなっていた。
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
「ロゼッタ……?」
灯りを付けていないため、寝室は真っ暗。その中で、突如私の名前が呼ばれた。
その声を聞いた途端に、私の頭は真っ白になる。
(その声はルイス? どうしてあなたがここにいるの?)
ここは私とルイスの寝室だから、別にあなたが居てもおかしくはない。だけど、ちゃんとエリーに伝言を頼んでおいたはずなのに。
「あ、あっちに行ってください!!」
布団に身を包み隠れながら、私はとっさに声を張り上げた。
(ああ、もう私のばか! もっとマシな言い訳くらいできただろうに!)
彼の足音は、止まることなくどんどんと近づいてくる。
「ま、まって」
慌てて静止の言葉を口にしたときには、もう遅かった。
するり、と柔らかな布の感触が引き剥がされ、私の姿が晒される。
ルイスの青の瞳と、目が合った。
「その顔は……」
ルイスの声が、かすれたように低く落ちる。
(だから来ないでって言ったのに)
身体を起こそうとする私よりも先に、彼の視線が頬を射抜いた。その瞬間、彼の表情がはっきりと変わるのがわかった。
私を哀れむような、痛ましげなその目。
「……そんな目で、私を見ないでください」
酷く腫れた私の頬を見たルイスは、顔を顰めた。
そして、私を可哀想なものを見るような目で見つめる。
(やめて、そんな目で私を見ないでちょうだい。そんな目で見られると、自分が余計に惨めになって、仕方がないの)
布団を胸元まで引き上げ、顔を背ける。
「誰にやられたんだ」
「……言えません」
目線を逸らし、なにか言い訳を考えてみるも、うまく頭が回ってくれない。
「君の悪いようにはしない。だから、教えてくれ」
けれど、ルイスの視線は私から逸れなかった。
私の心の奥にまで踏み込んでこようとするその眼差しが、怖くて仕方がない。
「だめです、だめなんです」
「僕が信じられないのか?」
静かに問うルイスの声に、私は思わず顔を上げた。
彼がこんな風に問いかけてくるなんて、思いもしなかった。
私はルイスのことを信じられないわけじゃない。ただ、怖いのだ。
私は彼の言葉に、そうではないと首を左右に振る。
「ならば答えてくれ。頼むよ。僕のことを……嫌いになってしまったのか?」
(私があなたを嫌っている? はは、そうね。あなたのことなんて、私は……)
心の奥底にしまっていた感情が、波のように押し寄せてくる。
「……そうですね。私は、あなたのことが嫌いです」
嫌い、嫌いよ。あなたのことなんて、大嫌い。
ふるえる吐息とともに紡ぐ声。涙が浮かぶ寸前で、必死に押しとどめる。
「あなたはいつだって私の調子を狂わせるし、私の心を乱すのは、いつだってあなたです。自分のことを制御できないのは、恐ろしくって仕方がないんです」
声が震え、言葉の端がかすれていく。それでもルイスは、ただ黙って私の話を聞いていた。
いつものように、穏やかで、包み込むようなあの優しい瞳で私を見つめていた。
(そう。私は、あなたのその優しい目が好きだった。いいえ、好きなんてものじゃない。大好き、愛してる。あなた以上の人なんて、この世に居ない)
「だけど私は、それ以上にあなたを愛してる……」
掠れた声に、気づけば涙が混じっていた。
唇を噛みしめても、胸の奥からあふれてくる想いはもう抑えきれなかった。
(私のことを頭のおかしな女だと思う? いっそのこと、私をシスティーナに返して、新たな妻を迎えたいと思う? もっと純粋で綺麗な、本物の淑女を)
でも、そんなことさせてあげない。ごめんなさい、私はもう、あなたを手放すことなんてできないの。
「ごめんなさい、騙していて。本当の私は、ずっとずっと汚いんです。けしてあなたの妻で居られるような人間ではないの。騙していて、本当にごめんなさい……」
ルイスは何も言わず、静かに私のことを抱きしめ続けた。
そんな彼の優しさが、余計に私の胸を締め付ける。
ずっと自分を演じていた。綺麗になろうと、演じようと頑張っても、私は賢い人間ではないからいつだってぼろが出てしまう。手紙の件だってそうだ。
誰だって、自分の弱い部分は隠そうとする。人間なんて、そんな生き物でしょう?
私の弱くて汚い部分は、明るく気強い性格の後ろに隠してしまえばいい。
レティシア公女のように強い女性になりたかった。アリス公女のように可愛らしく愛される人になりたかった。
誰かの真似をして、愛されるように必死になって頑張ってきたの。
そんな私のことを、あなたはいつだって突き放すことなく受け止めてくれる。
「何度お母様に叱られても、叩かれても、私はお母様が大好きだったんです。何をされようとも、あの人は私を産んでくれたたった一人の母親だから……」
「……待ってくれ。ならば、その頬は王妃の仕業なのか?」
「ぐすっ、ごめんなさい、本当にごめんなさい」
感情的になり上手く話しが出来ない私を落ち着かせるように、ルイスはそっと私の涙を拭い取った。
せっかくあなたが拭ってくれたというのに、私はその優しさが嬉しくて、新しい涙があふれてくる。
彼は乱れた私の髪を優しく整え、そっと私の手を取り、その手をぎゅっと強く握りしめて話し始めた。
「ロゼッタ、よく聞いて。僕は君がどんな人間だろうとも、ずっと君の傍に居るし、ずっと君の味方さ」
その言葉に、胸がぎゅっと締め付けられる。
(ほんとう? その言葉は、ほんとうに嘘じゃない? あなたは完璧な人だから、その言葉すらも完璧に演じて嘘を吐いているのではないかと疑ってしまうの。そんな自分がますます嫌になる)
「……ルイス。ほんとうに? ほんとうに、ずっと私の傍に居てくれるんですか?」
彼は微笑む。
穏やかで、優しくて、揺るぎない微笑みだった。
「ああ、もちろんだよ。僕は君を心から愛している。何があっても、君の傍に居るよ」
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
静かな寝室に、ちゅっ、と小さくも甘やかな音が響き渡った。
私の指よりもずっと大きく、温かくて重みのあるその手を取って、自分の頬にそっと押し当てる。
目を閉じて、子どものように甘える仕草で擦り寄り、目の前にいるこの世で最も愛する男を誘い込むかの如く、掌にいくつも小さな口づけを落とした。
「……悲劇は嫌なんです。誰からも同情されたくないし、惨めだと思われたくない」
かすかな声が、夜の静寂に吸い込まれていく。
まるで心の奥底から溢れ出すように、私の言葉は自然と零れていった。
お母様に支配され続ける人生も、悲劇の舞台に立たされるのも、もう嫌なのよ。
私が求めているのは、胸の奥までとろけてしまいそうなほどの甘さに包まれた夢のように幸福な結末。ハッピーエンドだけなのよ。
「私の人生を……甘い、甘くて甘くて、どうにかなってしまいそうな。そんな、幸せなロマンス物語にしてください」
ルイスの手を強く握りしめ、祈るように、願うように、懇願するように言葉を紡ぐ。
「……君の相手は、本当に僕でいいのか?」
「私は、あなたがいいのです。愛してます、心から……」
迷いなんて、ひとかけらもなかった。
私は即座にそう答え、そっと両腕を彼の首に回す。顔を上げ、震えるほどの想いを込めて、その唇に自ら口づけを落とした。
レディーの方から殿方にキスをせがむなんて、あなたは私を軽薄だと思う? 下品ではしたないと、私を嫌うかしら。
暗闇の中で、彼の表情は読み取れなかった。
けれど、そんなことはもうどうだってよかったのだ。
彼の体温が確かにこの腕の中にあって、その胸の鼓動をこんなにも近くに感じられる。
ただそれだけのことで、私は幸せなの。
――あなたが私を愛している。
その揺るぎない事実ひとつで、私の心は溢れるほどの幸福に包まれていくのだから。
少しでも面白いと思っていただけましたら
下にある☆マークから評価をお願いいたします。
いいね、感想、レビューもお持ちしております。とても励みになります⋈*.。




