◆2-35 ヴァネッサの思いと想い
ヴァネッサ視点
「おはよう。ヴァネッサ」
食堂のいつもの席で待っているとデミトリクスが声を掛けてきた。
いつ聞いても落ち着く音色。
口数は少ないし感情が読めない。心が読めない。
心の音はとても平坦。感情の音も平淡。
…だから、他の人と違って疲れない。
穏やかな音楽を聴いている気分になる。
とても居心地が良くて、ずっと聴いていたくなる。
時々有る、私達二人だけの時間。
この時間の為に、私は早く来る。
クラウディアも心の音はとても平坦。でも、感情の起伏は多少わかる。私とデミトリクスが並んで座っていると、何故か彼女は嬉しそう。
私とデミトリクスをくっつけようと…色々してくる。
私は…とても嬉しいけれど、彼は…どう思っているのかな?
嫌じゃないかしら…こんな盲目の女…
ジェシカやルナメリアは、二人に比べてかなり分かり易い。心も感情も。
けれど他の人と違い、私に対しての憐れみも、同情も、恐怖も、怒りも全く無い。
遠慮が無いのが…心地良い。
サリーは、私の前では余計な事は喋らない。これは、私の侍女と同じね…違うのは、私に対しての恐怖や警戒が無いというところかしら。
イルルカは、とても心や感情を読み易い。私に対して恐怖は無いけれど、憐れみや同情がある。同じギフテッドだから?それとも、同じ枢機卿の子供の立場としてかしら?
私…また…、無遠慮に相手の感情や考えを分析してる…。
そしていつも、勝手に傷付いて、勝手に落ち込むのよね。
相手にとっても自分にとっても、迷惑な力。無ければ良かったのに…
私以外の人は他人の心が読めない事を知って驚き、傷付いたのはいくつの時だったかしら。
私が異常だと知ったのは…?
私が心を読める事を知られたのは…?
私から皆が離れて行ったのは…いつだった…?
もう、思い出せないくらいに小さな頃だった…。
だから、クラウディアとデミトリクスの二人に会った時、私は運命を感じた。
人の心が読めない事が、とても嬉しかった。
『分からない』って、凄く良い。
私の心を救ってくれるかも知れない人達に会えたと思った。
一年間、学校で色々な人に会ったけれど、二人の様な人は居なかった。
いえ、産まれてから今迄も含めて居なかった。
これが…心が読めない人達の気持ちなんだ!と、初めて知って、感動した。
そして、産まれて初めての友達が出来た。
私の事を怖がらない対等な関係の友達。
イルルカとデミトリクス以外は、私に対して何かを隠している音がする。でも、私に対して分からない様に、上手く誤魔化している。それは仕方の無い事だ。
むしろ、彼女達の隠し事が分からないという事が嬉しい。
昔、私がまだ小さかった頃、兄様に「お前は他人の隠し事を簡単に暴くから怖い。嫌いだ!近づくな!」と言われた。
彼女達の様に上手く隠してくれていれば、私だって聴かない様に出来るのよ…。
私が、相手の心を読んでしまった事を、どれだけ頑張って隠しても、心を読まれた相手は感づいてしまう。
感づいてしまった事を、私がまた、読んでしまう。
そして相手は更に隠そうとして、『焦燥』、『怒り』、『恐怖』の情報を私にぶつけて来る。
私も相手も…とても…疲れるの…
そして、誰も近付かなくなる。
心が解らない。隠し事が分からない。
私にとっては、それがとても嬉しい。
そして…デミトリクス…
彼の音色を聴くと、気持ちが落ち着く。
そして反対に…私の心の音が煩くなる。
彼が好き。私の気持ちを知って欲しい…。
でも、知られるのが怖い。
…知られるのが…怖い?
いえ、知られて拒絶される未来が怖いのね…私。
「…やあ、おはよう。デミトリクス。他の皆はまだかな?」
…こんな男言葉じゃなくて…!
…こんな素っ気無い言葉じゃなくて…!
男同士みたいな関係じゃなくて…
「姉さん達は、また籠もってるのかな?ルーナはまだ帰ってないみたいだよ。イルルカはそろそろ…ああ居た。何でこっちに来ないんだろう…?」
クラウディアはエコーロケーションとか言ってたっけ。
その能力でイルルカを探して視る。
…イルルカっぽい音色が聴こえるけれど、他の学生に紛れていて、何処に居るか判りにくい。
目の見える人よりも、ずっと遠くや建物の反対側でも、単独であればすぐに場所が判る。だけれど、すぐ側に居ても、他の音に紛れると判らない。
イルルカがデミトリクスに呼ばれて来た。
周りの学生達からは、嫌な音色が聴こえてきた。
金属を擦るような、鳥肌の立つ嫌な音。
クラウディアは気にするなと言ったけど…。
聴こえない人は、この嫌な音を感じにくいらしい。
でも、イルルカは何か居心地悪そうにしているから、多少は感じているのかな?
「おはよう。イルルカ。…大丈夫かい?」
嫌な音色を直に受けているイルルカを心配して声を掛ける。
「おはよう。ヴァネッサ。ありがとう。貴族なんだから、こういうのにも慣れないといけないんだよね」と言って、貴族も大変だよな〜と呟いた。
…あまり嫉妬の音色を向けられた事はないから分からないけど、恐怖の音色なら良く分かるよ…
「…姉さん、ジェシカ…」デミトリクスが呟いた。
私が聴くと、人集りが別れて、クラウディアとジェシカが通ってくる。
クラウディアには、恐怖と嫉妬と敬意と憧れの音が。
ジェシカには、憎しみと憧れの音が浴びせられている。
…二人共すっかり有名人。馬術の授業以来、敬意や憧れを向けられる様になった。
ジェシカが憎まれているのは、朝、運動場に来る度に、男達を剣術や格闘術で倒しているかららしい。面子を傷付けられた男が出す音…下らないわ。
…私もジェシカに格闘術を習えないかしら…?
「おはよう。クラウディア。ジェシカ。今日はここで一緒に食事出来るの?」
「ええ…仕事が一段落着いたから」
相変わらず心は読めないけれど、僅かに嬉しそう…
クラウディアが嬉しいと私も嬉しい。
「良かった。クラウディアが居ないと寂しいよ」
クラウディアの心の音が急に早くなった?これは興奮?
「ちゃんと寝かせるのが大変だったわ〜」
ジェシカが呆れながら話す。ジェシカの言葉は裏表が少なくて聴きやすい。
「後はルーナが帰って来ればね」と、イルルカが言うと、クラウディアが、「ルーナには最後の仕上げを頼んであるからね。それと親孝行もさせないと」と言う。
…親孝行か…お父様とは手紙以外では、ほとんど話していない。
最後に会話したのは何年前だっけ…
お父様は私を避けているのか、私が家に居る時はあまり帰らない。
お兄様は、あからさまに私を嫌っている。恐怖している。
同じ家に居る時に私を見かけると、部屋に隠れて私をやり過ごしているか、別の通路を通って逃げる。
友達が出来なくても寄宿舎に居続けたのは、家よりは息がしやすかったから。家族に恐怖されるより、級友に恐怖される方が、まだ楽だから。
私が考え事をしていたら、ジェシカが心配してきた。
ジェシカは本当に気が回る。
心が視えない筈なのに、私より心を理解しているみたい。
「大丈夫。親孝行と聞いて、ちょっとお父様の事を思い出しただけだから」
そう言ったら、皆に僅かな緊張感が走った。
…やっぱりお父様、怖がられてるのかな?上司の上司と言ってたからかな?
「ねぇ、ヴァネッサにとって、ヘルメス猊下はどんなお父さんなの?」とデミトリクスが聞いてきた。
「え…」どんな…? いきなり聞かれると答えに窮する…
「どうなんだろ…ほとんどお手紙でしかお話ししないから。
…文面からは、優しいのは伝わってくる。私の事を心配してくれているのも。でも、直接お話ししたのは何年も前だから…よく分からない」
「やっぱり、貴族は親子の関係が平民よりも遠いのかしらね」と、ジェシカが呟いた。
「平民は違うの?」と尋ねると、
「平民は起きてから寝るまで、ずっと一緒だからね。喧嘩もするし、時々、嫌になる。でも…嫌いじゃない」と、イルルカが話してくれた。
『お前は怖い。嫌いだ!近づくな!』兄様の声が反響する。
そう言えば、家族と喧嘩をしたことが無い…
「喧嘩…家族と喧嘩をするのに、嫌いじゃないの…?」
「…う〜ん、そう言われればそうなんだよね。何でかな?」
イルルカが首を傾げる。
「喧嘩は、相手の事を『想って』する喧嘩と、『嫌って』する喧嘩があるわ。イルルカの家族はイルルカの事が好きだから喧嘩するのよ」
クラウディアが言うと、イルルカから照れた時の音がする。
…『想って』くれている人が居る。それが家族の喧嘩なの?
「…多くの貴族は、家族の間でも距離があるし、体面も気にするから、喧嘩をしにくいだけよ。
別に貴女の家族がヴァネッサの事を『想って』無い訳じゃないわよ」
クラウディアは私の心を的確に読んで慰めてくる。
私よりも人の心を読んで、更に気遣いで癒やしてくる。
私は…人の心を癒やした経験が、無い…
…私も彼女みたいになりたいなぁ…
「ありがとう」と声を掛けると、クラウディアから僅かに嬉しそうな音がした。
相変わらず、音はすぐに落ち着くけれど。
◆◆◆
食事も終わり、私達は、ゆっくりとお茶を飲みながらブラウ家の問題について話し合った。
「それで結局、マクスウェルの家の事は何とかなりそうなのか?」と、イルルカが尋ねる。
ジェシカが「う〜ん…実は色々と大変な事になっていてね…難しいのよ」と答える。
…魔導具士ギルドの中に、外国の間者を招き入れた人物が居る事を知らせるわけにはいかないよね…
「大変なのか…何か、僕にもできる事無いかな…?」
イルルカが聞くとクラウディアが、
「そうね…私も一度、ハジスさんに会っておきたいわ。設計図の話もしておきたいし」と答えた。
「それは構わないけど、そういう事じゃなくて…。何か…もっと、こう…さ、なんか僕だけ役に立っている感じが無くて…」
「人脈の紹介は充分役に立っているわよ?」
「そ、そうか…?それならいいんだが…」
「実は、他にも頼みたい事はあるのよ。それはハジスさんの所に行く時に話すわ」と、クラウディアが話すと、イルルカの声がとても明るくなって、「そうか!わかった」と嬉しそうに返した。
「今日も、ボクは一緒に行くの?」と聞くと、
「今回はヴァネッサにはお留守番していて欲しいの。万が一バーゼルに会った時に、彼がヴァネッサの顔を知っていると不味いわ」
そうか…私の事を知っていると警戒されちゃうか…平民は私を知っている人はほぼ居ないだろうけど、帝国の間者なら私の事を調べていてもおかしくないわ。
「わかった。気をつけてね」
「バーゼル?副工房長の? あの人に何かあるのか?」
「優秀な人だと人伝に聞いてね、気になってたの。どういう人かわかる?」と、ジェシカが聞いた。
…上手い言い方。嘘はつかずに話を逸らした。
これから会う可能性があるから、下手に知らせない方が良いと判断したのね。
話を聞くと、イルルカもちゃんと話した事は無いらしい。
魔獣に襲われた事件の前に、何度か顔を見た程度だそうだ。
去年の半ばくらいに、いつの間にか工房に居たと思ったら、知らない間に副工房長になってた。
何となく、すごい人なのかな〜と、思ってただけだそうだ。
「僕は去年色々あって、ハジスおじさんの所はほとんど行けてなかったからさ。知っているだろ。これのせいで」と言って、自分の左膝を叩いた。
「もし、バーゼルさんを見かけたら教えて欲しいの。コッソリと」
「?…ああ、わかった」
「じゃあ皆、忙しいところ悪いけれど宜しくね。4の鐘が鳴ったら入口に集合してね」
クラウディアが言うと、イルルカとジェシカが了承の返事をして立ち上がり、食堂から出ていった。
「ああ、そうだ。デミちゃんも今日はお留守番してね。ヴァネッサを宜しくね」
クラウディアは、デミトリクスと私の方を見てから、食堂を出ていった。
何故、こんなに私とデミトリクスを近付けようとするのかな? 私が上司の娘だから? コネ作りかしら?
…クラウディアのイメージとは違う気がする…
彼女なら…身分差も実力差も気にせずに、邪魔なものは力と頭脳で排除しそうなイメージ。
…でも…このチャンスはありがたく受け取ろうかしら。
勇気を出して私…、彼とお話したい…!
「ね…ねぇ、デミトリクス。この後、時間がある…?…少しボ…私とお茶をしてく…いただけ…ないかしら…?」
…緊張して、喋りにくいよぅ…
男言葉だと、あまり緊張しないのに…
でも、私を女として見て貰うためには、逃げる訳にはいかないわ!
ジェシカ視点だと、話がとても書きやすい。
けれど、あまり頼りすぎてもいけないなと思い、ヴァネッサ視点にしたら、話が重くなった…
ヴァネッサとデミちゃんのデートは書きません。
皆さんで好きなように想像して下さい。




